クロ
迫って来る猪を前に諦め、目を閉じる。僕の足の速さではどう頑張ったところで逃げ切れない。みんな無事だといいんだけど。
(あれ?前にも確かこんなことがあったような……)
どこでだったかは思い出せない。けれど、これと似たようなことを経験した気がする。そしてそれはきっと忘れてはいけないもののはずだった。
(何を忘れてるんだろう?何が思い出せないんだろう………)
必死に記憶を手繰り寄せる。幸い、猪はゆっくりと迫って来るからもう少しだけ時間がある。
自分が何者なのか。どこから来たのか。記憶を何故なくしたのか。それを考え続ける。手掛かりとなりそうなものは………
(いつも見ている夢、かな)
あれが手掛かりとなるかもしれない。所々ノイズのようなものが混じっているが、それも含めて夢の中身をつないでいく。
そうしている中、一つの夢を思い出す。この世界に召喚される前に見た夢。人でないあれは何だったのかと悩んだときがあった。部屋の中に真っ黒なノイズがあって……真っ黒?
脳裏に引っかかる。知っている。いや、知っていたはずなのだ。あの真っ黒な何かは忘れてはいけないものだった。そう、あれは………
「クロ?」
そうだ、クロだった。どうして忘れていたんだろう。大切な存在だったのに。
※ ※ ※
クロにあった頃は未だに思い出せない。思い出せたのはごくごくわずかなことだ。クロは僕が飼っていた犬だった。真っ黒な犬だったからクロ。何のひねりもなかったが、クロは気に入ってくれたように見えていた。クロを飼おうとしたときには相当駄々をこねたことは覚えているが。仲は良かったと思う。いつもどこに行くのも一緒だったし、放っておいても離れることはなかった。流石にトイレにはついてこなかったけど。
猪に会ったのはクロとの散歩の途中だった。猪が飛び出てきて突進してきたのだ。クロは勇敢にとびかかって首に噛みついていた。そして僕は――――なぜか首を切り落としていた。何も持っていないのに。力も何もないのに。不思議なことだなと思う。
(でも……そっか。クロにはもう会えないんだな………もう一度、会いたかったな…………)
唯一の家族とも言えるあの子に会いたかった。元の世界に戻れば再び会えたはずだった。ただ、目を開ければもう猪が踏みつぶすか撥ね飛ばすかする直前だろう。きっともう会えない。
(誰か親切な人に飼われてね………)
そう思うことが僕にできる精いっぱいのこと。
そのはずだった。
「やれやれやっと思い出してくれたか、主よ」
「え?」
驚いて目を開けると……視界は真っ暗になっていた。
※ ※ ※
「そんな……ユート様………」
なんだか肩を震わせているカトレアが見えるんだけど。おかしいな、さっきまであの猪の前にいたはずなのに。なんでこんなところにいるんだろう?しかも猪増えてるし。
「カトレア?大丈夫?」
取りあえずカトレアが無事か確認する。どっか怪我していたら嫌だし。
「ユート、さま?」
「うん、そうだよ?どうして泣いてるの?痛い所とかあるの?」
あったら一大事だ。早く逃げないと。
「うわああああん、ユート様!ユート様あぁぁぁぁ!」
そんなことを考えてたらいきなりカトレアが胸に飛び込んでくる。ええ?どういうことなの?
「坊主!無事だったか!早くそこから逃げろ!」
アルバートさん?どうしてそんな事……あ、猪がまだいるのか。どうしよう。カトレア置いて逃げれないしなあ。他人事の様に考えていると。
「主よ。相変わらず能天気だな」
失礼な。なんてことを言うんだい。って、あれ?
「クロ?」
「久しいな、主よ。早く会いたくはあったのだがな。とある事情により主の影にとどまり続けることになっていた。助けが間に合わないのではないかとひやひやしたぞ?」
見間違えるはずがない真っ黒な大型犬。いつも一緒にいた家族のような存在。クロがそこにはいた。
「どうしてここに?一緒に召喚されたの?」
「まあ、そういうことになるな。今までは影の中に強制的に押し留められている状態だった。名前を呼ぶことが出て来れる条件だったから轢かれる前で助かったぞ」
「そうなんだ。でもさ、クロ。一つ、いや二つ聞きたいことがあるんだけど」
「それはいいが、あの猪をどうにかしてからの方がいいのではないか?巻き込まれるぞ。ついでにそこの女も」
「カトレアはついでかい……?そうはいってもどうするのさ」
「猪を殺せばいいだろう?」
「そんな簡単に……二体いるんだから大変だってことはわかるでしょ?」
「だが、できるのだろう?」
「うーん……多分、だけど。まあ、クロが手伝ってくれなきゃ無理じゃない?」
「それは構わないさ。主のためなら命もささげよう」
「嫌だよ、そこは無事に帰って来てよ。せっかくまた会えたんだし」
「わかっている。言葉の綾というやつだ。そもそもあんな畜生ごときに後れを取るつもりはない」
「それならいいんだけど……先に近いやつからでいい?」
「ああ、それでいい」
そう言って二人で……あ、クロは犬だから一人と一匹か。で、猪に向き直る。カトレアは僕の後ろになるようにしておく。危ないからね。
「あの、ユート様?何をする気なのでしょうか?早く逃げた方が………」
「クロ、ゴー!」
声をかけるなりクロは影の中に沈み込み、猪の影から再び現れた。ああ、僕はあれで助かったのか。あとでお礼言っとこう。
それはともかくあの猪が静かにならないことには落ち着けない。どうやったら倒せるのか。今の僕には攻撃手段は何もない。だけど、この世界には魔法がある。魔法が使えれば攻撃だってできるはず。魔法を教えるときシルヴィアさんはこう言っていた。
『魔法とは想像力に左右されるもの。魔法を使ったときに正しく想像できていなければ、魔法を使うことはできませんよ』
それはこうも言い換えられるんじゃないかな。ちゃんと魔法の効果や使った後のことをイメージできるなら詠唱は要らない、って。
クロと猪狩りをしたときのことを思い出す。あのときは………
(こうやって腕を振るって、猪の首がこうやって落ちた)
そう、それに水の刃が猪を切断するところを加えればいい。
「『水刃』」
知らず知らずのうちにそう呟いていた。そして。
「ええ!?」
「どういうこった!?」
指から飛び出た水の刃はあのときの光景と全く変わらず猪の首を切り落とした。勿論、首に噛みついていたクロには水しぶきすら当てていない。カトレアとアルバートさんが驚いていたけど、そんなことは気にせず次の猪の方へ目をやる。すると、そこにはこちらに向かい突っ込んでくる猪の姿が。
「ああもう邪魔だなあ。カトレアに当たっちゃうでしょ?」
そう言って、さっきの様に魔法を使おうとする。ただこのままのスピードだと首をはねてもすぐに止まらず、僕に突っ込んでくるだろう。それは痛そうだから、まずはスピードを緩めることから始める。
イメージするものは巨大な滝。それもかなりの激流が僕と猪の間に立ちふさがるような感じで。
「『水壁』」
手を振るうとそこには水でつくられた壁ができた。あまりの激しい流れに猪はなかなか前に進むことができない。足を止められた猪はただの的でしかなく。一方的にクロに蹂躙されていた。クロは相手に噛みつき、肉を引きちぎっている。猪が怒ってそちらを向いても、影に沈みまた死角へ。そしてまた噛みつく。どう見たところで負けることはないと思う。
しばらくその蹂躙劇は続き、猪が倒れたのは一分ほど経った後だった。