サステナブル
月に一度、木曜日の夜はコンビニ弁当と紙パックのリプトンを2つ買う。
そして一番高いスーツを着て彼女に会いに行く。
やぁ、近くまで来たから顔を見に来たよ。
コートの雪を払いながら、温度差で曇った眼鏡を拭きながら。
僕はもうこの程度では緊張しなくなった。
相変わらずの無視。慣れたものだ。
この素っ気ないブラウンのセミロングは高校時代のクラスメイトで、顔見知り程度の仲である。
僕はここで弁当を食べながらこの一ヶ月に起こったことを彼女に話す。
ニュースや仕事の話。上司の愚痴、友人の近況、先週借りた映画…
それから机の彼女のノートに落書きしていくのが日課だ。
来るたびに動物を一匹。
彼女は僕の絵が嫌いじゃないからだ。
今日はアルマジロにしよう。
ひんやりとしたリノリウムの廊下の突き当たりの部屋。
音も、物すら殆ど無い閑散とした静かな空間。
窓からの景色は夕日のオレンジと夜の青との境界線。
彼女は今日も眠っている。
幾重にもチューブで鎖のように縛られた姿で。
何年か前の同窓会がきっかけだった。
そこで彼女が交通事故でここ数年の間ずっと入院していることを聞いた。
僕はかつて彼女に想いを寄せていた。でも彼女のことは殆ど知らない。
陸上部だったこと。快活で明るい女の子だったこと。
お昼にはリプトンのレモンティーを欠かさないこと。
それくらいだ。
それでも誰にでも分け隔てのない毎日の「おはよう!」は、ウブな日陰者のハートには十分過ぎる殺傷力だった。
ただそれだけさ。本当にそれだけ。
デートはおろか、大した会話すら出来ず、結局卒業式を迎えてしまった。
最後の会話は確か彼女のアルバムに寄せ書きした時。
「ありがと、相変わらず絵上手いね。」
何を描いたかは、もう、思い出せない。
そんなことを思い出して、僕は思い切って病院に足を運んだ。
それ位は同級生のよしみで流石に許されるのでは思ったから。
病院特有の臭いの充満した部屋。四人部屋の窓際の右側。
彼女は寝いているようだった。
髪の色こそ変われど、高校時代のあの姿を色濃く残している様を見て僕は嬉しかった。
教室よりもこんなに近い、手を伸ばせば触れられる無防備な距離。
よう、久しぶりだな。近くまで来たから寄ってみたんだ。
何年振りだろうか。声が上擦った。
返事は無かった。
何度か声をかけたが、返事は無かった。
ここで初めて僕は「入院」の意味を理解した。
久々に高鳴った胸は真っ黒な湖の底、氷の雫になって溶けて消えた。
あんなに賑やかだった彼女がこんなことになるなんて。
今の彼女の存在を証明するものは僕より少し冷たい体温と呼吸器の結露しかない。
いたたまれなくなって、机の上のノートにゾウが『元気だせよ』と呟く落書きをして帰った。
来訪者の記録に知り合いは居なかった。
週に一度彼女の家族の名前がポツポツとリズムを刻んでいた。
それが彼女の脈拍であるかのように。
それから、彼女の見舞いに行くのが習慣になった。
一度、彼女の母に会ったことがある。
見知らぬ男が娘を度々尋ねるなんて不気味がられると思ったが、逆だった。
彼女の同級生だったことを告げると、彼女の母は泣きながら僕に感謝の意と色々なことを話してくれた。
事故の直後は何だかんだ直ぐに目を覚ますと思っていたこと。
入院当初、多くの友人で隣のベットから苦情が来る程だったこと。
多過ぎる果物や千羽鶴の置き場に困ったこと。
皆の声援はきっと彼女に届くと思っていたこと。
毎週のように当時交際していた男が訪れては悲愴な顔をしていたこと。
愛し合う力が彼女にいつか奇跡をもたらすと信じていたこと。
そして、誰もが徐々に現実を悟っていったこと。
元気であればもう結婚して、子供も幼稚園に入る頃だということ。
その全てが諦念に覆われつつあること。
僕は二重の罪悪感に苛まれながら、彼女の顔を見ていた。
ごめんなさい。僕は彼女にとっての王子様では無いんです。
教室の隅からグランドを駆ける君を追っていた冴えない根暗な奴なんだよ。
そう、今だってそうさ。
もし、君が目を覚ましたら、彼女は、僕は、何を望むのだろうか。
朗らかな春の日の午後。カーテンを開けると彼女は外を見ていた。
「やっぱり来たんだ」
振り返って僕の名を呼ぶ。
「風の噂で君のことを聞いてね、近くまで来たから」
やっぱり声は上擦った。
「なんか、色々ありがとね」
君は照れ臭そうに笑う。手元にノートを抱えていた。
きっとお節介な看護師が余計な告げ口をしたのだろう。
「いえいえ、元気そうで何より」
「ホント、久しぶりだね」
あぁ、本当に、久しぶりだ。
彼女には眼下の景色はどう映るのだろうか。
窓から吹き込むそよ風が心地よい。
あり得ないことは分かっている。
こんな色褪せた片思いの欠片でしか暖をとることが出来ない僕は我ながら哀れだった。
いずれにせよ今日も彼女が目を覚ます気配はない。
だから、僕はいつもこんなジョークを言う。
じゃあ競争をしよう。僕が結婚するのが先か、君がお目覚めが先か競おうじゃないか。
彼女の側は何処か心地良かった。
時代に、世界に置き去りにされた者同士、寂しさを分かち合える気がしたからかもしれない。
そうやって僕らは幾つもの季節と幸福が通り過ぎていくのを窓から見送った。
今までのノートを見返す。もう描いてない動物を探す方が難しい。
気付けば世界一大きな動物園だ。
食べ終わったゴミを片付け、未開封の方のリプトンをバックに入れて別れを告げる。
また来るね。
無視か。本当に冷たいな。
暗くなった空を見上げ、それでも冷たくなるのは僕にだけであってほしいと願った。
マフラーを巻いても吐く息は白かった。
それから数ヶ月後のある春の日、彼女は死んだ。
事故から8年、遂に目覚めることは無かった。
僕は最期の瞬間に立ち会うことも出来ず、最期まで彼女が僕の声に応えることも当然無かった。
免許証の宣言通り彼女は、臓器も血液も全て灰にした。
別に悲しくなんてないさ。
彼女にとって僕は所詮ただの他人なのだから。
こんなことが僕の支えになっていたなんてそんなことあるわけ無いのだから。
そんなこと、絶対に、絶対に無いのだから。
それから五年が経った。
今でも半年に一度、僕は彼女の墓参りに行く。
ひぐらしが鳴く夏の夕暮れ。
鮮やかな花々を手向けて。
僕の小さな、ほんの小さな生き甲斐だった君が幸せであることを願って。
おしまい。
帰り道に通る大きな大学病院を見て思いつきました。
子供の頃、お見舞いや法事は自己満足と免罪符に思えて嫌いだったのですが、最近になってその意味が少しずつ分かってきたような気がします。
モデルこそ幾つかありますが、勿論全部フィクションです。