黒い猿
昔々あるところに、一匹の猿がいた。
猿は体が小さく、力も弱く、群れのなかでは低い地位におさまっていたために、ろくに餌を食べることもままならなかった。
このままでは死んでしまう。ほとほと困り果てた猿は偶然にもあるものを見つける。
切り立った岩山の、その根本。血を流し伏している年若い人間の男の姿。
恐らく山を登り歩いていたところ、足を滑らせ、こんなところまで落ちてきてしまったのだろう。男は既に息絶えていた。
ごくりと猿の喉が鳴る。押し寄せた空腹感に流され、猿はまず男の腕を食い千切った。
固くなった人の肉は思ったよりも食いづらかったものの、久しぶりの食事にありついた猿は堰を切ったように男を貪った。
それをきっかけとして、猿はそれから人の死体を漁るようになった。
死体ばかりを食していると猿は次第に死臭を纏うようになり、群れの猿も離れていくようになった。
群れから離れた猿はやがて生きた人を殺して食うようになった。死体ではもう足りなかった。もっと人の肉が食いたいという欲望だけが、猿を突き動かす。
すると、不思議なことに生きた人を食するようになった猿の姿は、人のそれに近づいていったのだ。
それは猿がもはや猿ではなく、「妖」と呼ばれる業の者に成り果てた、何よりの証であった。......
「おい知ってるか?」
人々の笑い声で賑わう酒屋の中、一人の男客が店主に話しかける。
「知ってる、って何をだい?」
「心を読む女の話だよ。近頃噂になってんで、あんたも何か知ってるかと思ってね」
心を読む女。
確かに、店主には聞き覚えがあった。酒屋の主人をやっていると、何かとこういう話はよく耳に入ってくるのだ。
「ああ、あの話か。もちろん聞いてるぜ。何でもその女は...髪も黒けりゃ肌も黒い。喪に服してる訳でもねえが黒い服しか着ないらしい」
「極めつけにゃ白目まで黒いときたもんだ!!」
男客は盃を持ち上げげらげらと笑う。得意気に口を挟んだ奴の情報は、酒屋にも初耳だった。
「そいつは驚いたな。それじゃあまるで妖じゃねえか」
「だろう?その女はいつも瞼を閉じているらしいが、偶然奴が瞼を開いた一瞬を見た餓鬼がいるって聞いてよ、そいつの話によれば白目は黒、瞳は金色でそりゃもう恐ろしい目をしてたって訳だ」
男客の興奮した語り草に、思わず酒屋も胸を踊らせずにはいられなかった。
そんな女が本当にいるなら、是非一度お目にかかってみたいものだと、そう呟きかけたその時。
「畜生!!!!」
酒屋の奥手の座敷から、叩きつけるように酒瓶が置かれる音と男の怒号が聞こえてきた。
この酒屋ではよくある光景だ。大方賭けに負けでもしたのだろう。
だが、その見慣れたはずの光景に酒屋は目を奪われていた。
なぜなら、賭けに負けた男の向かいには、服も髪も肌も黒い...すらりとした女が座っていたからだ。
「てめえ、イカサマしてんじゃねえのか!?」
「悪いね、けど勝ったのはあたしだ。金はもらっていくよ」
女は浅黒い指で投げ出された銭を手に取り、懐にしまった。
その動作さえどこか艶やかで、酒屋は目を離すことができなかった。
女が戸口から出ていこうとするのが見えて、酒屋は仕事も放り出して女の後を追った。背後から男客の驚いたような叫びが聞こえた気がしたが、今は目の前の女しか見えていなかった。
「おい!待てよあんた!」
夜の里の外れ、笠を被り山の中へと去ろうとする女の背中に声をかける。
女は振り返ったが、夜の闇と笠の影に隠れて顔までは見ることができない。
「ああ、あんたあの酒屋の主人か。美味い酒飲ませてもらったよ」
女は妖艶に笑う。落ち着いた、けれど棘を刺すようなその声は、闇夜に溶けるように馴染んでいく。
追ってきたはいいが、いざ対面すると何を話していいか分からなくなる。恐怖のような感情を喉のあたりに押し留め、酒屋は震える唇を開いた。
「心を読む女ってのは...あんたのことかい」
その問いに、女は暫し思案するように口をつぐんでいたが、やがて酒屋を見据えるように顔をあげる。目は、開いていない。
「ちっと悪いが交換条件を出させてもらえるかね」
「 交換、条件...?」
「ああ、そうさ。実はあたしある男を探してんだよ。名は知らんが、赤い目をした男だ」
情報には長けた酒屋の主人も、そんな男は見たことがなかった。第一赤い目など、普通の人には持ち得ないもの。持っていたとするならば、それは恐らく神か妖の類いだろう。
そんな男を追うこの女は、やはり......。
「...いや、知らないな。悪いね」
「そうか、まあ期待はしてなかったから構わんよ。ただ、あんたが知らないって事なら...あたしもあんたの質問には答えられない。交換条件だからね」
酒、美味かったよ。と女は言い残し、再び山の中へと踵を返していった。
黒い人影は夜の闇へと吸い込まれるように消えていき、あっという間に見えなくなる。
「...戻るか......」
不意に全身を突き刺すような寒気が酒屋を襲い、早く戻って暖まろうと、酒屋は足早に帰路に着いた。
「やっぱり噂になってたねえ...」
夜の山、立ち茂る木々を掻き分けながら、黒は独り言を呟いた。
どうしたものか、と軽く頭を掻く。妖は神とは違い、組織や縁というものが非常に少ない。そのように俗世から離れて生きているため情報にはかなり疎く、人探しをするなら人間をあてにすることしかできないのだ。
しかし妖だと知られてしまえば、その人間の間にさえ紛れ込むことは困難になる...。
「難儀だねえ」
近頃、すっかり独り言が増えた。
少し前までは、こんな独り言にも返事をしてくれる者がいた。真昼の太陽のように明るく、闇夜のごとく黒い自分さえも照らしてくれる、そんな存在であった、彼女が。
『あなたを...許さない...!!』
赤く焼ける家々に照らされ、自分を睨み付ける彼女の姿が脳裏をよぎった。
それを振り払うことはしない。自分は、その事実を受け入れて生きていかなければならない。
...そして、そのためには、あの男を見つけ出さなければ。
心を読む女、黒は...再び夜の山を歩み始めた。......




