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黒花奇譚  作者: 湖花
第一章.逢
1/1

黒い猿

 昔々あるところに、一匹の猿がいた。

 猿は体が小さく、力も弱く、群れのなかでは低い地位におさまっていたために、ろくに餌を食べることもままならなかった。

 このままでは死んでしまう。ほとほと困り果てた猿は偶然にもあるものを見つける。

 切り立った岩山の、その根本。血を流し伏している年若い人間の男の姿。

 恐らく山を登り歩いていたところ、足を滑らせ、こんなところまで落ちてきてしまったのだろう。男は既に息絶えていた。

 ごくりと猿の喉が鳴る。押し寄せた空腹感に流され、猿はまず男の腕を食い千切った。

 固くなった人の肉は思ったよりも食いづらかったものの、久しぶりの食事にありついた猿は堰を切ったように男を貪った。

 それをきっかけとして、猿はそれから人の死体を漁るようになった。

 死体ばかりを食していると猿は次第に死臭を纏うようになり、群れの猿も離れていくようになった。

 群れから離れた猿はやがて生きた人を殺して食うようになった。死体ではもう足りなかった。もっと人の肉が食いたいという欲望だけが、猿を突き動かす。

 すると、不思議なことに生きた人を食するようになった猿の姿は、人のそれに近づいていったのだ。

 それは猿がもはや猿ではなく、「妖」と呼ばれる業の者に成り果てた、何よりの証であった。......



「おい知ってるか?」


 人々の笑い声で賑わう酒屋の中、一人の男客が店主に話しかける。


「知ってる、って何をだい?」

「心を読む女の話だよ。近頃噂になってんで、あんたも何か知ってるかと思ってね」


 心を読む女。

 確かに、店主には聞き覚えがあった。酒屋の主人をやっていると、何かとこういう話はよく耳に入ってくるのだ。


「ああ、あの話か。もちろん聞いてるぜ。何でもその女は...髪も黒けりゃ肌も黒い。喪に服してる訳でもねえが黒い服しか着ないらしい」

「極めつけにゃ白目まで黒いときたもんだ!!」


 男客は盃を持ち上げげらげらと笑う。得意気に口を挟んだ奴の情報は、酒屋にも初耳だった。


「そいつは驚いたな。それじゃあまるで妖じゃねえか」

「だろう?その女はいつも瞼を閉じているらしいが、偶然奴が瞼を開いた一瞬を見た餓鬼がいるって聞いてよ、そいつの話によれば白目は黒、瞳は金色でそりゃもう恐ろしい目をしてたって訳だ」


 男客の興奮した語り草に、思わず酒屋も胸を踊らせずにはいられなかった。

 そんな女が本当にいるなら、是非一度お目にかかってみたいものだと、そう呟きかけたその時。


「畜生!!!!」


 酒屋の奥手の座敷から、叩きつけるように酒瓶が置かれる音と男の怒号が聞こえてきた。

 この酒屋ではよくある光景だ。大方賭けに負けでもしたのだろう。

 だが、その見慣れたはずの光景に酒屋は目を奪われていた。

 なぜなら、賭けに負けた男の向かいには、服も髪も肌も黒い...すらりとした女が座っていたからだ。


「てめえ、イカサマしてんじゃねえのか!?」

「悪いね、けど勝ったのはあたしだ。金はもらっていくよ」


 女は浅黒い指で投げ出された銭を手に取り、懐にしまった。

 その動作さえどこか艶やかで、酒屋は目を離すことができなかった。

 女が戸口から出ていこうとするのが見えて、酒屋は仕事も放り出して女の後を追った。背後から男客の驚いたような叫びが聞こえた気がしたが、今は目の前の女しか見えていなかった。


「おい!待てよあんた!」


 夜の里の外れ、笠を被り山の中へと去ろうとする女の背中に声をかける。

 女は振り返ったが、夜の闇と笠の影に隠れて顔までは見ることができない。


「ああ、あんたあの酒屋の主人か。美味い酒飲ませてもらったよ」


 女は妖艶に笑う。落ち着いた、けれど棘を刺すようなその声は、闇夜に溶けるように馴染んでいく。

 追ってきたはいいが、いざ対面すると何を話していいか分からなくなる。恐怖のような感情を喉のあたりに押し留め、酒屋は震える唇を開いた。


「心を読む女ってのは...あんたのことかい」


 その問いに、女は暫し思案するように口をつぐんでいたが、やがて酒屋を見据えるように顔をあげる。目は、開いていない。


「ちっと悪いが交換条件を出させてもらえるかね」

「 交換、条件...?」

「ああ、そうさ。実はあたしある男を探してんだよ。名は知らんが、赤い目をした男だ」


 情報には長けた酒屋の主人も、そんな男は見たことがなかった。第一赤い目など、普通の人には持ち得ないもの。持っていたとするならば、それは恐らく神か妖の類いだろう。

 そんな男を追うこの女は、やはり......。


「...いや、知らないな。悪いね」

「そうか、まあ期待はしてなかったから構わんよ。ただ、あんたが知らないって事なら...あたしもあんたの質問には答えられない。交換条件だからね」


 酒、美味かったよ。と女は言い残し、再び山の中へと踵を返していった。

 黒い人影は夜の闇へと吸い込まれるように消えていき、あっという間に見えなくなる。


「...戻るか......」


 不意に全身を突き刺すような寒気が酒屋を襲い、早く戻って暖まろうと、酒屋は足早に帰路に着いた。



「やっぱり噂になってたねえ...」


 夜の山、立ち茂る木々を掻き分けながら、黒は独り言を呟いた。

 どうしたものか、と軽く頭を掻く。妖は神とは違い、組織や縁というものが非常に少ない。そのように俗世から離れて生きているため情報にはかなり疎く、人探しをするなら人間をあてにすることしかできないのだ。

 しかし妖だと知られてしまえば、その人間の間にさえ紛れ込むことは困難になる...。


「難儀だねえ」


 近頃、すっかり独り言が増えた。

 少し前までは、こんな独り言にも返事をしてくれる者がいた。真昼の太陽のように明るく、闇夜のごとく黒い自分さえも照らしてくれる、そんな存在であった、彼女が。


『あなたを...許さない...!!』


 赤く焼ける家々に照らされ、自分を睨み付ける彼女の姿が脳裏をよぎった。

 それを振り払うことはしない。自分は、その事実を受け入れて生きていかなければならない。

 ...そして、そのためには、あの男を見つけ出さなければ。




 心を読む女、黒は...再び夜の山を歩み始めた。......



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