友達(1)
夏はまだ終わらない。八月半ばの古い家屋、二階の一室は何年かぶりに感じる茹だるばかりの夏だった。
その記憶は何年前のどこのものだっただろう。
祖母が出してくれた扇風機の風では足りなくて、私は下敷きも使って風をおこす。
そうだ中学の旧校舎、夏休みの部室だ。高校に上がってからは部活にも入らなくて、蒸し暑い場所でわざわざ過ごすなんて事からは縁遠くなっていた。
こめかみから汗が一筋流れて、顔をしかめる。畳で仰向けになっていた私は、横向きに寝返りをうった。
その方向には鬼二十が座っていて、昼間からだらける私を黙って見下ろしている。
鬼二十の服はゆったりしているものの、上下とも五分丈以上で布地は道着みたいに厚い。そして服の事は置いても、頭が暖色系で量の多い長髪だ。
見ているこちらが暑い。私は更に眉を寄せて鬼二十を眺めたが、その表情だけは涼しげだった。汗もかいていないように見える。
「……暑くないの」
「全く」
ずるいなんて一言で済ませたくないくらい、その余裕が羨ましい。
鬼二十はむしろ、私がぐったりしているのを不思議がっているようだった。今日の気温は三十度後半で、湿度も高い。規格外なのは鬼二十の方だ。
はぁと一つため息をついて、私は近くにある携帯電話を手繰り寄せた。二つ折りのそれは、閉じたままでも着信やメール受信をランプで知らせる。何もないことを分かっていながら、私は一度開いて待受画面を眺めた。
何もない。ニュースのテロップが、どうでもいい宣伝を流しているくらいだ。今度は小さく、ひそかにため息をつく。
「お前はその板で、何をしている」
珍しく、鬼二十から質問をされた。指差す先は当然、私の手にある携帯だ。
携帯どころか、こんなに小型の機械やプラスチックが昔に存在しなかったのは分かる。でも板って。かまぼこ板か。
普段散々私を馬鹿にしている鬼二十が、真面目な顔で変なことを言うのが面白い。ほんの少し気分が軽くなって、私は適当なメールを一つ見せながら説明をした。
「メール……、手紙のやりとり。一瞬でこう、遠くの人と文章が交換できるの」
鬼二十は目を細めて、黙っている。理解したのかは私にはわからない。相手の立場に立って説明をしようにも、百年以上前の人に合わせるなんてハードルが高すぎた。
「……この家に引っ越してくる前の友達から、メールの返事がこない」
ぽつりと呟いた言葉は、今日ずっと私が気にしていたことだ。もう引越してから二月になるが、私が頻繁にメールを交換しているのは、一番仲が良かったその子だけだった。
友達が少ないという訳ではなかったと思う。ほとんどの友人とは、SNSサイトで繋がっていればメールするほど話すことは無いのだ。日記や呟きで近況を知れるし、コメントを残せばそれで事足りる。
学校に関する話題を共有しなくなっても、お互いにたわい無いメールを送りあう関係。恐らく親友。
反対側に寝返りをうって、鬼二十に背を向けた。そのままじっとしていると、声を掛けられる。
「何日こない」
「……二日」
現代人ではない鬼二十にこの感覚が理解されないのは予想できた。振り返ると案の定、私の答えに呆れた顔をしていた。
「文ならもっとかかるのが普通だ」
「だろうね。でもメールは一瞬で着くの」
内容は緊急の用事ではなく、ただの雑談だ。急かすつもりもないし、絶対に返信をよこせとも思っていない。
些細なことが不安を煽る。
メールは文字しか伝えられないから、誤解を与えやすい。それを気軽だと言う人もいるが、反応を見ながら表情を交えられる分、顔を見て話す方がずっと楽だ。
でも私にはもう、簡単に会うことは出来ないのだ。もし毎回のメールで少しずつ誤解やストレスを与えていたなら、それを解消することなく時間が経ってしまう。
彼女からその日のうちに返信がこないのは初めてだった。今のところ私に思い当たる節はないけれど、微かな繋がりが切れてしまわないか、不安を感じていた。
部屋の外から、階段をのぼる音がした。足音がこちらへ向かってくるので、私は身を起こす。
「綾、お使い頼んでもいい?」
母は普段、用件を伝えながらふすまを開け放つ。
心配しなくても、この時鬼二十は既に姿を消している。私も祖母と母に鬼二十のことを隠そうとしていたが、鬼二十だって無闇に姿を見せるメリットは無いのだ。
こういった場面でも平然としていられるくらい、私は鬼二十のいる暮らしに慣れてきていた。
家から一番近いのは、個人経営の商店だ。店は小さいが、生鮮食品以外は大体の物が一種は置いてある。
店主は明るい人で、おばさんと呼ぶように何度か言われた。実質私の祖母と同じくらいの歳みたいだけれど、はきはきとした話し方はまさしく「お店のおばさん」だ。
店に入る時会釈すると、おばさんは微笑んでハイいらっしゃいませ、とお辞儀した。店内は古いながらに、クーラーがごうごう音をたてて涼しい。
私は外を歩いて熱くなった体を冷ましながら、頼まれた消耗品の列へ入って行く。
「あら、ヨウ君。また麦茶のパック? それだけ買いにきたの?」
楽しげなおばさんの声が響いて、私は先客がいた事に気が付いた。会計台に、水出しのパックが大量に入った家庭用麦茶がどんと放られる。
……あの麦茶って、一年に一袋あれば充分な量だと思っていた。またと言うからには、少なくともこの夏二度目以降なんだろう。
ヨウ君と呼ばれる人の姿は見えないけれど、声を聞く限りは子供でも大人でもない、学生らしい雰囲気だった。
「俺ががぶ飲みするせいだってさ。自分だって、一日二リットルは飲むくせに」
まぁ暑いのにご苦労様、とおばさんが笑う。
私はちょうど品物をカゴに入れ終えて、会計台に向かった。「ヨウ君」はTシャツにジャージ姿で、やはり高校生くらいだ。
彼の後ろにカゴを持って並ぶと、横顔が見えた。気のせいでなければ、彼とはこの商店で何度か会ったことがある。勿論、話したことはない。
会計が私の番になった時、彼は初めて私が後ろにいたことに気が付いたらしい。少し驚いた素振りで場所を明け渡してくれたが、彼は何故だか帰らずに、その場で立っていた。
そうされると私も気になって、会計しながらちらちらと「ヨウ君」の方を見る。日焼けしてすっと伸びる手足が、鹿を連想させた。すごく運動が出来そうだし、モテそうな人だ。
私より頭一つ高い背から、ずっと視線が注がれている。知り合いだったか、何か用があるのか。そういう可能性について考え始めるくらい、じろじろと眺められていた。
会計を終えると、おばさんが私達を交互に見てニコニコしている。親戚に従兄弟やハトコの嫁候補扱いされているような、面倒なお節介を予感させる笑顔だった。
「歳、いくつ?」
おばさんが何かを言う前に隣の「ヨウ君」から話し掛けられたことに驚いて、彼を見上げる。特に深くは考えず、質問にも答えた。
「……高二。十七歳」
私の答えに、彼は軽く目を見開いた。おばさんが、あらあらと嬉しそうに笑う。
彼の事がどうとか言うのではなく、初めて話す人とこんな風に見られるのはなんだか嫌で、私は急いでおばさんの手から袋を受け取る。
一応「ヨウ君」にも会釈して立ち去ろうとしたら、彼の方を向いた瞬間、また話しかけられた。
「お前、どこ中?」
……目の前の人が口にした台詞に、私はかなりしらけた気持ちになった。言うに事欠いて「お前どこ中」って、田舎のヤンキーじゃないんだから。
頭の中で入れたツッコミを反芻して、はたと気が付く。
ヤンキーかどうかは知らないけど、田舎なのは事実だった。
ここは母の故郷で、私が住んでいた街までは新幹線と電車で二時間かかる。もう私の生活圏は、生まれ育った地元ではないのだ。
「ヨウ君」を横目でじろりと見る。近頃は、初めて会う人にお前と言われてばかりだ。
「ずっと遠く。あなたの知らない中学!」
言い捨てるようにして、私はその場を後にした。