私と、面(2)
流されかけていた私も馬鹿だったのだ。鬼二十の得体が知れないのは最初から変わらないのに、勝手に良いように解釈して、気を緩めていた。
鬼二十は殺す気がないと言っただけで、危害を加えないなんて誓っていない。むしろ目的を尋ねたら、怪しく笑ったじゃないか。
これまでの数日間とはもう事情が違う。だって、あんな事をされると分かっているのに部屋へ住ませたら、それは黙認になる。
抵抗してもびくともしなかった腕の感覚と、肌を這う他人の舌の感触を、体が思い出す。
鬼二十は「食事」だと言った。普通の食事では身がもたないとも。つまりあれは、鬼二十がいる限り今後も起こることなのだ。
舐められることそのものは、怖いことでも痛くもない。
ただあの瞬間、私たちは捕食者と餌の関係だった。人としての扱いではない。私の意思や抵抗なんか無視をして、鬼二十は生気を奪った。
妖怪と同居するだけでも普通じゃないのに、肌を舐められて、それが食事で私は餌? そんな生活は、間違いなく異常だ。
洗面所と風呂場は二十年ほど前に改装されているそうなので、新しい作りをしている。
私は母達に心配をかけないよう、足音を殺して洗面所に向かい、泣いた目を冷やした。ひたすら押し黙って、白いクッションフロアにしゃがみ込む。
この妙な疲労感やナーバスな心理状態は、生気が取られたことに関係しているんだろうか。それとも……鬼二十に対しての微かな期待が、裏切られたことが原因か。
期待なんて、私が勝手にしたことだ。鬼二十から頼まれた覚えはない。
数えてみると、初めて出会ってからたったの一週間だ。その程度の付き合いでは、人間同士でもたいした信頼は生まれないだろう。
……でも、つい数時間前まで、鬼二十は本当に無害だったのだ。そこにいるだけ、話しかけたら応えるだけ。
友達もいないこの田舎で、他に誰が私の声を聞いてくれただろう。十七歳はほとんど大人で、母がここに越した理由も考えれば、もう人の手を煩わせてはいけないと思い始めた。そうして上手く誰かの傍にいけない私の元に、妖怪は頼まれなくても居続ける。
鬼二十の居座りという立場や偉そうな態度は、私の臆病な気遣いを起こさせなかった。信頼に及ばないはずのたった一週間で、私は心に妖怪を住まわせてしまったのだ。
疲れた頭で、この先のことを考える。
以前出ていけと言ったら、本体を壊せと言われた。つまり説得される気はない。
では壊せるかというと、こんな事になった今でもそこには踏み切れそうになかった。それならいっそ、私が遠くに逃げてしまいたいと思う。
このまま答えが出ないと、事態は何も変わらないだろう。こんなのは嫌だ、と思いながらそこに身を置くのは、きっと苦しい。私は祖母の家での生活を嫌なものにはしたくなかった。
何かが弾けるように、「祖母」という存在から連想がなされた。
私はとある一つの方法を忘れていた。それを今、思い出したのだ。
供養。あの竹箒をそうしたように、山のお寺に行って面を供養してもらう方法だ。
存在を消すという点では壊すのと変わらないけれど、例えるなら刺殺と安楽死くらいの差はある。
何より、私の手から離れた場所で事態が解決するだろう。感じなくていいはずの罪悪感を、少しは和らげることが出来る。
どうにかする為の手立てを、思いついてしまった。
やけに胸が不安げに痛むけれど、これを抑えて今行動を起こさなければ、手遅れになってしまう。そう思った。
祖母が良いと言ってくれれば、面を供養してもらえる。元通りの毎日が送れるのだ。
祖母は、自室でアイロンをかけていた。入口から声をかけたら座るよう促され、座布団を一枚借りる。
私は「もし今鬼二十がこれを阻止しにきたら」なんて想像をして、ふすまの方を意識していた。でも同時に、そんな事は起こらないという確信めいた感覚もある。
上手く言葉に出来ないけれど、私が本気で鬼二十を追い払おうとしていなかったことは当人も知っているのだと思う。
心の底から迷惑であれば、供養だってすぐ思いついたはずだ。壊すことへの躊躇いも同様のことが言える。
蔵に行く時、鬼二十は私に面を運ばせる。自分の命と同等のものを、私に何度も預けていた。思えばあれは、わざと試されていたのかもしれない。
一度や二度なら、気付かないでいたとも言い訳できる。回数を重ねる度に、私が鬼二十を排除しない選択肢を選んでいると証明してしまう形になった。
そんなに嫌いではないこと。それ自体が否定すべきだからと拒否するポーズをとっただけで、行動には表れない。その甘さにまんまと付け込まれてしまった。
「……わたし、蔵の奥を整理してるんだけどね。棚にある古い物について、おばあちゃんに聞きたい事があるの」
なんだか嘘をついているような気になったが、よく考えれば嘘でもない。正面に座ったことで、変に緊張してしまう。祖母は手元に視線をやったまま微笑んで、うんうんと相槌を打った。
「あの辺り、私が子供の時からある物ばかりよ。整理できるなら、した方が良いわよね」
祖母の前向きな発言に少し安心しながら、私は続きを話す。
「奥の棚に、お面があったんだけどね」
「鬼のお面?」
シュッ、とアイロンのスチームが噴き出して、私は少し肩を揺らした。蔵の奥では、他の面は見つかっていない。とはいえ祖母が鬼二十の面をすぐに言い当て、私の目を一度見るものだから、つい身構える。
「そうねぇ」
祖母が持つゆっくりとした間も、今は私の心臓を苛んだ。
何十年も蔵の奥に仕舞われていた面の存在をしっかり記憶している祖母。わざわざ思案する様子も、面がどうでもいい物であれば見られないだろうと分かる。
「あれはおばあちゃんにとっても、少し特別なの。仕舞っておいてくれるかしら」
するするとシャツのボタンを避けてアイロンをかけながら、祖母は穏やかに言った。
なぜ、とは訊かなかった。祖母がそう言うなら、私にとってこの話はそこでおしまいなのだ。
胸の痛みは治まったものの、今度は血の気が引いている気がする。やっと思いついた方法が潰えて、また先の見通しがきかなくなった。間接的にでも鬼二十を消す重みは背負わなくて済むが、残る道はあといくつあるのか。
そっか、わかった、となんとか返して立ち上がる。そのまま踵を返すと、後ろから声が掛けられた。
「なにか、あったの?」
何かあったと思うの? 面のことを、何か知っているの?
祖母にそれを尋ねそうになったけれど、今の私の気持ちのありようは普通じゃない。マイナスだ。もっと落ち着いている時に話をしないと、余計な事を言ってしまいそうだった。
「何もないよ」
笑ってそう答え、意識的にゆっくりと祖母の部屋を後にした。
今は、自分の部屋には戻りたくない。鬼二十に会いたくないというよりは、事が起きたあの空間でまた二人きりになるのを避けたかった。状況を再現するような事をしたら、私は何も言えなくなる気がする。
祖母が鬼の面を特別と言った以上、供養どころか捨てる、壊す、全ての物理的な解決策は難しくなった。
もう、私は直接鬼二十と対峙する他ない。
家族がいる場所以外では、どこでだって鬼二十が現れる可能性はある。私はその中でも可能性の高い、蔵へ向かっていた。
観音開きの戸が、いつもより重く音を立てた。不思議なもので、クーラーが無い割には外の暑さをあまり篭らせていない。
私が多少荷物を移動させ、整列させた蔵の中ほどまで歩を進める。扉は開いたままにしてあるが、やはり中は薄暗かった。
「遅かったな」
そう待たなくとも、鬼二十は蔵に現れた。声のした方向に視線をさ迷わせると、意外な所で生きた両目を見つける。
どこを足場にしているのか、高い所にあるダンボールに頬杖をついて、鬼二十はうっすらと笑っていた。
「部屋にいない時は蔵だと思っていたが、そうでもないらしい」
軽口を叩くような調子の声といい、私から生気を食べた鬼二十は随分元気そうだ。
黙って鬼二十の方を見据える私を映して、口元から笑みが消える。姿を一瞬見失ったと思ったら、歩いてきたかのような自然さで鬼二十は数メートル前方に立つ。
そして髪や和服を揺らめかせ、大きな歩幅でゆっくりとこちらへ来る。
「私が嫌か」
声が静かに蔵へ響く。警戒を身体からにじませる私を見て、鬼二十はそれ以上近寄るのをやめた。
せめて自分の気持ちを言わなくてはいけない。緊張して強張る喉を震わせて、声にする。
「あれは、嫌だった」
行動を否定されても、鬼二十は怒ったりはしなかった。無表情で、ただ私を見ている。
「……今日は何もしない。さっきの分で、当面はもつ」
そう言ってから、先程中断した歩みをまた数歩進め、いよいよ手が届く距離までやってきた。私が身をかたくしても、止まりはしない。
目の前の鬼二十から手が伸ばされた気がして、思わず俯く。すると手は触れるか触れないかの弱い加減で、私の髪を一房撫でた。
これは餌を確保するためのもので、私個人を認識しての行動ではない。そう思う自分と、単純に受け取ってしまう自分の両方ともが真実だ。
「もうしないとは約束できないが、綾。お前の部屋に住むのを止めよう。それで」
紡がれる、恐らく彼が考えるなりの提案を最後まで聞こうとはしなかった。それは私の望むものとは遠いのが、分かるからだ。
「押さえつけたりしないって約束して。それなら、良いから。食事も……部屋にいるのも」
今度ははっきりと、私はまた一つ選択をした。
多分人としては真っ当じゃない選択だ。妖怪に交換条件を突き付けて、受け入れようというのだから。
顔をあげると、やけに心を探られている気がして下手に動けなかった。数秒後になってから、視線も目の前の鬼二十に合わせる。力強い黒目は、何かを捉えたようだった。
「……お前は年頃の娘だが、子供なのだな」
鬼二十が神妙な顔をして呟いた言葉は、内容の割に棘を感じなかった。むしろじわりと胸が痛んで、生傷に染み入るようだった。
一章終わりです。
人の気を食らう妖怪として多少の誘惑はしていたのに、思ったより効果なし。
娘を自分に惚れさせて、進んで食事提供するように仕向けたはずが、寂しさを理由に頼られてしまうのでした。