私と、面(1)
何度か言い咎めたら、鬼二十はやっと草鞋で上がり込むのをやめた。
本人は、汚れないのだから問題ないと言い張る。だが、私は気になるので指摘する。そのうちに言われるのが嫌になったのか、以降部屋に現れる時は裸足だった。
少しずつ、面の妖怪は私の日常に侵食してきている。
私がやめてと訴えれば、口は悪いけど応える。困っていると、偉そうだけど一押しの手助けをしてくれる。
出ていってくれないだけで充分迷惑で、私の部屋にいるための譲歩なんかにほだされてはダメだと思うのに、ままならない。
鬼二十は当たり前のように、いつもそこにいるのだ。すると不思議とこの一ヶ月感じてきた、一人の時間特有の気だるさを感じなくなっていたのに気付く。
これでは、いまいち鬼二十を嫌えない。
どうしていいのかわからないまま、私は問題を先送りにして日々を過ごしていた。
今まで食事をしていたようには思えないけど、妖怪も食べ物を口にすると分かった以上、つい気にしてしまう。さすがに母や祖母に養ってもらっている身なので、大それたことはしない。おやつ程度のものを持ち込むだけだが、日に一度はそうしていた。
鬼二十は味や量には何のコメントも残さず、与えられた食べ物は全て食べた。それが空腹を意味するのかは、はっきり言って判断できない。どれだけ間が開こうが、自分からなにかを食べたがることは無いのだ。
居間から戻る時に、お饅頭を一つ余分にもらってきた。タンスに寄り掛かっていた鬼二十に差し出して、食べるか尋ねる。鬼二十は今日も受け取って、二口で食べてしまった。
そのとき牙というほどではないが、少し立派な犬歯が覗いた。
動物は歯で主食がわかるというが、妖怪もそう思っていいだろうか。だとしたら、一応人間の範疇の歯をしている。同じ雑食扱いしているし、今更肉食だとわかっても肉は差し入れできそうにない。
正面に座ってぼうっと眺めていると、鬼二十も視線を返してきた。野生動物よろしく、基本的に向こうは目を逸らさない。
この人と目を合わせるのが怖くて、最初の頃はそもそもじっと見ないよう努力していた。今では鬼二十が持つ雰囲気にもすっかり慣れて、怖さはない。
ただあまりに長い睨み合いは、気恥ずかしくなってくる。なにも言わずにお互いの顔を見るなんてこと、普段はしない。そのうえ相手は一応顔の造りがきれいなので、そんな人を直視するには経験値が足りなかった。
食べ物を貢いで、見つめて、目を逸らす。私の一連の行動を訝しんで、鬼二十は目を細めた。
「なにか用か」
じろじろ見た私にも問題はあるけれど、人の部屋に居座っている身でこの態度である。片膝を立てて、亭主関白な親父のようだった。
観察していたというのも何だか嫌だ。私は膝を抱えて、急ごしらえで話題を作る。
「……鬼二十の面は、いつから蔵にあったの」
その質問は可でも不可でもなかったらしい。こちらの意図を浅く探ってくるような目も、すぐに伏せられた。
「あの蔵に最初に入れられた物の一つ」
蔵は家と同じ年に建てられたはずなので、百数年前にはもう存在していたことになる。そしてその日を、鬼二十は覚えているようだ。
「じゃあ、九十九神になったのも蔵に来る前?」
「いや。私はあそこで初めて姿をとった。一度目が覚めれば、それ以前の事も知っている」
鬼二十も多少思い出しながら話しているのか、普段の即答に比べて慎重だった。
少し追及してみたら、それ以前とは、面として生まれた瞬間からのことを言っている。どんな持ち主の手を渡ったかも、知っている口ぶりだ。
目の前のこの鬼二十の人格は、本当に面の状態で周りのことが分かるのだと思うと、とても不思議だった。
「初めて私の前に出てきた日のこと、教えて」
普段より質問が多い私を、黒目がじろりと見る。敢えて無神経なそぶりでそれを受け流して、黙って答えを待った。
「……長いこと眠っていたが、お前の独り言で目が覚めた」
鬼二十はタンスに寄り掛かるのを止め、胡座で座り直した。頭を前に倒した際、角にかかった長い後ろ髪を欝陶しそうに左手ですくう。
人の気配で目が覚めることは、よくあったと言う。十年以上、祖父が荷物を放り込むだけだった蔵に、ある日私がやってきて何やら長居し始めた。あの時は蔵の奥で、そのまま私が何をするのか様子を見ていたらしい。
「そのうえお前がのこのこ私に近付いてきたので、少々生気を頂いた」
「……え」
さらりと、悪びれもせずに何やら不穏な事を言われた。
厳密には知らないけれど、生気というと生きる力みたいなイメージがある。それを勝手に取られたと聞いて、いい気はしない。
そんな心境を隠さず鬼二十を見るが、仏頂面のままだ。詫びる気持ちは無いと見える。
「お前が面の内側に触れるからだ」
……さらに、悪いのは無用心な私だと言いたいらしい。よくここまで真っ直ぐな目で自分中心に語れるな、と逆に感心しそうだ。
鬼面の赤いつややかな裏面を思い出して、あの日の立ちくらみに合点がいく。
あの時点で怪異は始まっていたということだ。そして間の悪いことに、その時竹箒も命を持った。
私も妖怪の存在に慣れたのか、竹箒騒動の内訳も聞いてみればたいしたことはない。話の内容から、鬼二十の本体を身につけると生気を取られることだって知った。
「もう同じ失敗はしないからいいの」
私はふいと拗ねるようなポーズをとってから、その顔を笑みに変えようとしていた。
鬼二十が真面目な顔をしたまま、胡座を崩して膝立ちになる。
「……何」
尋ねる声も思うより小さくなって、必要以上に近寄ってくる鬼二十への制止にはならなかった。
私の手首を、鬼二十の大きな手が掴む。何事かと目で訴えても、鬼二十は何の動揺も見せずに、こちらを見つめ返した。
それには私の方が、いたたまれなくなってしまう。
手首を握る手が熱をもってきて、頭上から降る鬼二十の視線も力強い。そんなに意識はしていなかったが、平均身長程度の私に比べたら、鬼二十の方が当たり前に体格は立派だ。
射竦められて身動きできない私の腕を人形みたいに引っ張りあげて、……そのままべろりと舐めあげられた。
「ひっ!」
私は腕を咄嗟に引っ込めようとしたが、一度揺らいだだけで、腕はまた鬼二十の口元に寄せられる。
つつ、と肘から舌を滑らされると背筋がぞくぞくした。
胸が騒がしくて、頭の整理が追いつかない。手首を捉えられたまま、私は腕を舐めた男をただ凝視し続けた。
睫毛まで赤で縁取られた瞳がこちらを向いて、その顔は眉根を寄せる。
「……なんだお前、一瞬酷い味がするぞ。何か塗っているのか」
思考がショートしていた私は、耳に入った質問を素直に考える。
「え……、ひ、日焼け止め」
「薬か。どうりで」
鬼二十は私の手首を解放して、自分の唇の端を舐めた。手首にじわりと血が通って、本来の思考が戻ってくる。
「どうりでっていうか、なんで舐めたの……」
心臓がどくどくと煩い。搾り出すように問いかけた私を一瞥して、鬼二十はのんびりと畳に腰を下ろす。
「ん。生娘の肌の表面に、食料になる美味い気が流れている」
どこか機嫌が良さそうに説明されたが、私は逆に気分が重い。体まで怠くて、どこまでも沈んでいけそうな心地だった。
聞いたことはあるけれど、意味はきちんと知らない言葉があった。それを小さく聞き返す。
「きむすめ?」
「処女とも言うな。お前は相手がいなさそうだ」
日常会話で頻出はしない、しかし意味の分かる言葉に言い換えられて、前後の会話も理解する。
……確かに私はそうだったけれど、当然面と向かって異性に「処女だろ」なんて言われたことはない。
恥ずかしさと馬鹿にされたような気持ちが一気に押し寄せて、私は鬼二十を怒鳴りつけた。
「へっへんたい、変態!」
「そう騒ぐな、ただの食事だ」
私は何一つ悪くないはずなのに、鬼二十は煩そうに顔をしかめる。そう、鬼二十は大きな音が好きではない。だったらもっと大きな声を出してやろうという気にすらなってくる。
「今まで普通の食べ物食べてたじゃない!」
「あんな物では身がもたん」
納得いかないことばかりで、思いつく端から次々鬼二十を責め立てたが、どれも効果がなかった。私の何故どうしての文句は、少しの反省も引き出せない。
散々まくし立てたら遂に言うことが無くなって、ただ私の息が早くなっただけに終わる。
私の視線に何も感じないのか、鬼二十は口をにやりと歪めて、飄々とした様子で言い放つ。
「元の味は悪くない。お前で正解だった」
平手を食らわせようと右手を振るっても、すっと後ろに退いて避けられてしまった。
空振りした手を下ろさないまま睨みつける私を見て、また鬼二十が笑う。言い表せない気持ちが胸を焼いた。
机や壁に手を借りながら、私はなんとか立ち上がって、足早に自室を去った。
廊下を過ぎて階段に差し掛かる頃には、視界が涙で滲んでわけがわからない。それでも腕でぐしぐしと拭って、少しずつ階段も下りていく。
私の中には、どうしようもないほど陰鬱な気持ちが渦を巻いていた。
鬼二十をもっと徹底的に嫌うべきだった。初めから、私は餌として狙われていたのだから。