面と男(2)
おかずを口に入れている私に、母が首を傾げる。
「どうしたの。具合悪い?」
声をかけられて我に返り、周りからの視線に気が付いた。考え事で頭がいっぱいで、表情は硬いし口数も少ない。心配させてもおかしくなかった。
眠くて、と曖昧に答えた。二人はくすくす笑って、いつもの朝食での会話に戻る。
あの後、さすがに目の前でもう一度眠る気にはなれなくて、私は六時前から一日の活動を始めることにした。
机周りの整理をしながら、鬼二十が変な事をしないか気をつけていたのだけれど、いつの間にか部屋には私一人だった。
また姿が見えないだけでここにいる、とかいう卑怯な手を使われている可能性がある。しかし私も鬼二十の視線が無い方が動きやすいのは確かなので、行動を起こすべく立ち上がった。
まず、私の部屋にあの面があるかどうか捜した。ベッドの下やタンスの上、押し入れも掘り返したけれど無い。蔵の中か、鬼二十が持ったまま消えたかしたようだ。
幻のようだけど、出会いからしてインパクトがありすぎた。そう簡単に頭は切り替わらない。
ノートパソコンを久しぶりに立ち上げる。検索ボックスには「つくもがみ」「鬼 面」「妖怪」等、昨日から縁の切れない言葉を次々入力していった。
そこから分かったことは、付喪神は古い道具に命が宿ったものを指すこと。九十九とかけて、大体百年くらい経ったものがそうなるという目安がある。
鬼二十の面はそんなに古い物だったのかと、正直驚いた。
テレビでは古墳時代の何かが出土、なんて耳にしても、現実味がなくて何も感じない。私の手に触れるものは、みんな古くてせいぜい昭和のものだと無意識に考えていた。
家がそもそも築百年だということも含めて、まるで意識の外だった。
あと、鬼二十の面は変わったデザインだ。
有名な鬼の面はいわゆる般若だというのも今日知ったけれど、二つは全然違うジャンルの物に思える。彩色を前提としていないからか、鬼二十の面は前髪の束が流れで彫られていたと思う。般若は、真ん中分けの髪が後から描かれている。
髪の表現のしかただけでも違うが、とにかく鬼二十の面に似たものはインターネットでは見つからなかったのだ。
「妖怪」は検索した事を後悔した。怪談話が大量にヒットして、うっかり読んでしまったから。
それで朝食を食べて、今に至る。けれど、部屋に戻るのにいちいち警戒してしまう。昨日まで退屈だと思っていたことは平穏の間違いだったと、誰かの前で訂正したい。
夜とは違って、私の部屋にも窓があるから暗くはない。一息ついてから、すぱんと一気に引き戸を開けた。部屋に誰もいないのを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
「……よかった、いない」
「残念だったな、いる」
間髪入れずに口を挟んだ鬼二十が現れたのは、私のたった十センチ前だった。昔の漫画だったら間違いなく、私は口から心臓が出ている。
「ふ、普通に、出てきて! 後ろに立つのも急に出てくるのも、やめてよ……!」
一歩下がって鬼二十を見上げ、わりと真剣に懇願する。
鬼二十は承知したのかしていないのか、はは、と短く笑い飛ばした。承知してくれていない気がする。
彼にすんなりと目下扱いされるのが嫌で、私からは敬語をやめてみようと思っている。家を守ってくれる神様というわけでもないし、むしろ今は迷惑なのだ。敬う理由がない。
怒らせそうだったら改めようかとは考えたけれど、今のところ全く気にされていないらしい。なので、このまま胸は張っていようと思う。
私が部屋に入るより先に姿を見せた鬼二十は、当然のように先に部屋の奥へ進み、ベッドに腰を下ろした。マットレスのバネが気に入ったのか、右手で感触を確かめている。
部屋の物に意識がいってくれるのは、私に注目されるより幾分マシだと思った。この人に見られていると、全く気を緩められないから。
ほとぼりが冷めるまで、私が自分の部屋にいる時間を減らす手もあるな、と考える。私に危害を加えないなら、いつか消えるまでなるべく関わらずにおくのだ。
私は昨日に引き続き、蔵を掃除しに行くつもりだ。まだ八月はあと三週間残っているけれど、荷物整理は学校が始まるまでに終えたい。
鬼二十の位置からはこちらが見えるので、仕方なくタンスの陰に隠れて服を着替えた。髪も結って、もうこの部屋に用事は無いはずだ。
そのまま何も告げずに行こうとして、ふと足を止める。一つの懸念事項が頭を過ぎったからだ。
鬼二十の方へゆっくり視線を向ける。基本的に退屈そうな顔ばかりしている鬼二十だが、微かな感情を見出だしてしまうのは私の妄想だろうか。
例えば今は「なんだよ」と言わんばかりに感じられる。
「あの蔵、他にはもう九十九神になってる物、無い?」
「知らん」
私なりに、頼りたくない相手にそんな事を訊くのは勇気がいった。しかし即答、それも安心できない答えで打ち砕かれる。
これ以上怖い思いをするのは嫌だ。鬼二十は危害を加えないらしいけど、別の妖怪もそうとは限らない。大体また鬼二十のように部屋まで押しかけてきたら、いよいよ妖怪ルームシェア状態じゃないか。
悶々と悩む私を前に、鬼二十は人のベッドを勝手に使ってくつろいでいる。そして視線だけよこして、にやりと笑う。
「なんなら私がついて行って、見ていてやろうか」
は? と言いそうになるのをなんとか堪えて、鬼二十をまじまじと見る。まぁそれは薄暗い蔵の中でも一人じゃないから安心ね、と想像しかけて掻き消した。
妖怪が怖いという話なのに、自分から妖怪を連れていって二人きりになるだなんて、本末転倒だ。慌てて「結構です」と鬼二十に背を向ける。
どんな表情かはわからないが、相変わらず人をからかうような調子の声が向けられた。
「今度は背後にも気をつけるんだな」
……嫌なことを言われて、今朝ネットで見た怪談話が頭によみがえる。
恨みがましく睨んでやろうと振り返ると、鬼二十は予想通りの意地悪な笑みを浮かべていた。いっそ泣きたい気分の私を鼻で笑って、懐からあの面を取り出してみせる。
「持って行け」
鬼二十の姿は見えなくなり、ベッドの端には鬼の面だけ残された。たぶん、見えないだけでいるんだろう。
あの人なんでいちいち偉そうなの、と不満を持ちながらも、……私は面を手に取っていた。
蔵では、まず奥に入って昨日再度放置した面の箱を確保した。中に面を戻して、数秒鬼二十を待ってみる。ついでに面に向かって、賽銭箱を前にするように柏手も打った。
「……拝んでも何もないぞ」
はっとして振り返ると、またしても鬼二十は背後から現れた。心底呆れた目をされて、そういえばこれでは拝んでいるみたいだと後悔した。
恥ずかしさを誤魔化すために後ろから現れた事を批難したら、「お前が普通に出てこいと言うから、入口の方から歩いてきてやったんだ」と返されて、ぐうの音も出ない。
「それで、どう。蔵の中に妖怪とか幽霊とか、いる?」
おずおずと話を持ち掛けると、鬼二十は目だけで周囲をぐるりと見てから、そのまま床に腰を下ろした。
不安そうにしているだろう私の顔を見て、鬼二十はため息をつく。
「いいからさっさと用事を済ませろ。何かあったら言ってやる」
……本当にこの人、いちいち言い方が引っ掛かる。汚い床に座ったんだから、後で私のベッドには座らせないからな! と念を込めてじと目を向けると、笑まれた。
なんだろう、きっと馬鹿にされたのに、少し鼓動が跳ねた。
それから私は蔵の掃除に戻った。整理と並行するとはかどらないので、開き直って掃除できる場所は全て先に取り掛かることにしたのだ。
バケツの水を何度も交換して、あちこちの埃を拭って、時折鬼二十の方を確認する。鬼二十はそこに居たり、見えなかったりもした。
昼休憩を挟んで、午後もひたすら掃除だった。だんだん拭く場所が少なくなってくるのは、案外気持ちがいい。
夕陽もさしてきたので、一度奥へ向かう。赤い光に照らされて、鬼二十の髪がますます赤く見えた。
「私、部屋に戻るけど」
声をかけると振り向いて、黙って立ち上がる。
ついて来てもらったのは事実なので一応声をかけたけど、やっぱり私の部屋に戻るのか。蔵にお帰り頂く方向で、放って帰った方が意思表示は出来たのに、私は失敗したかもしれない。
ひそかにため息をついて、踵を返す。すると視界の端に、何か黒いものが動いた気がした。
私は凍りついて、鬼二十を振り返る。
「いま、そこ、何かいた?」
「百足だな、妖怪じゃない」
だから、しれっと答えられても、私には簡単に受け入れられない事がある。妖怪だけじゃなく、私は虫も苦手だ。
慌てて引き返して、怪訝な顔をする鬼二十と位置を入れ換える。ああもうどうしよう、と一人ぶつぶつ呟いていると、鬼二十が消えた。
まさかこのタイミングでいなくなったのかと、思わず挙動不審にもなる。きはつ、とその名を呼びかけた瞬間に、鬼二十は再び目の前に現れた。
「な、なにして」
「捨ててきた。お前が騒々しいから」
私を見下ろす黒い瞳は、相変わらず面倒そうなままだ。
でも今日のこの状況って、なんだか最初から最後まで、守られているみたいだ。
鬼二十に好かれているとは全く思わない。けれど本当にこの人は、私に危害を加える気はないんだなと感慨にふける。
それで、鬼二十は何のために私に関わるのか。考えがそこに戻ってくると、どうしようもなくてぐるぐると回る。
また姿を消す気なのか、私に面を持てというように押し付けてくる鬼二十に、なにか声をかけたかった。
「ムカデ、ありがとう。どうやったの?」
「手で掴んで捨てた」
……本当に、私の部屋に入る前には鬼二十をきれいにしたい。