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鬼の面  作者: 有川
5章
37/38

ままならない(2)

 洋介は携帯を触りながら、二人が戻ってくるのを待っていた。

 こんな何もないところで、彼女たちが本当に楽しいのか洋介にはわからない。綾は喜んでいるようだったが、さすがに一日中遊ぶつもりではなかったらしい。今日の待ち合わせ自体が、午後三時だった。


 風にまじって、なにかが草原(くさはら)に落ちる音を聞いた。

 綾。次いで聞こえた鬼二十の険しい声で騒ぎに気付き、洋介は慌てて二人の方を振り返る。


 鬼二十だけが屈んでいるように見えた。目を凝らすと、草に埋もれているジーンズの膝頭が見える。遠目に見ても、寝転がって遊んでいるようには見えなかった。


「どうした、大丈夫か?」


 洋介が二人のもとへ駆けつけていくと、鬼二十は顔色の悪い綾を支えて深刻な顔をしている。洋介の問いかけに綾が反応する素振りはない。細い息遣いは見てとれるが、意識はほぼないようだった。

 鬼二十の感じていた嫌な予感は、思うよりも早く現実のものとなっていた。



 綾は目に見えて弱っていた。きちんと食べてよく眠っても、風邪すら治せないでいる。

 妖怪が一人の人間から継続して生気を摂るこの状態は、古来から「取り殺す」と言われるそれでしかなかった。二人の間にある感情は、その事実にほとんど影響しない。

 ヒトの生命力を糧とする存在と、ごく普通の少女。被害者である綾が受け入れていて、家族も現状を知らない。誰も止めなければ、こういった事態になるのは当然のことだと言えた。


 鬼二十が同じ人間から生気を摂り続けたのは、綾が初めての試みであった。彼女が疲れ、消耗することは知っていただろう。ただ、こうまで身体に障るとは予測していなかったのだ。

 年若い綾は回復も早く、鬼二十が思い返す限り、夏までは確かにうまくやれていたはずだ。

 秋になり、やけに咳が続く綾を注視して初めて、鬼二十は異変に気がついた。本当に少しずつ、身にまとう生気が少なくなっていた。



 鬼二十が綾から摂る生気の量は、彼の消耗に左右される。生気が鬼二十に満ちて飽和した状態になれば、摂りすぎることはまず無い。乾いたスポンジが水を吸うのに似ていた。

 だからこそ、毎日少しずつ生気を摂るということが可能だった。一日分の量を補うだけなのだから、食事一回辺りの疲れは四日も五日もあけるより少ないはずだ。それに加えて、綾が家を出たら極力意識を眠らせたり、距離を置いている時は姿を見せるだけに留めるなどして、消耗を防いでいく。

 途中から心がけていた「節約」は続いているのに、なぜだか綾の調子ばかりが悪化していった。鬼二十はそれを、綾の回復力が弱っているのだと推測した。


 ならば、鬼二十の方も摂る生気を抑えれば釣り合うのではないか。触れるだけで、ごく僅かだが生気は鬼二十に流れる。自然と吸収されるものを減らすには、そもそも触れ合う時間を減らせば良い。微かな飢えを常に感じるように意識しながら、触れすぎないようにと彼は自分に言い聞かせた。それが、ほんの一週間前のことだ。

 口付けは特にいけない。肌をひと舐めするよりずっと早く、多くの生気が鬼二十に渡る。他で堪えた努力が水の泡になる。


 いざ自らに禁じてみると、それまではっきりとした自覚のないまま彼女に触れていたのだと、鬼二十は気付かされた。

 どうしてもキスをしなければ生気が足りない、なんて理由で彼が綾の頬をとらえた事はない。ただ目の前に顔があったから、なんとなく。軽い気持ちでしてきたことを踏みとどまると、鬼二十の胸は妙にむかむかとした。

 目の前の娘に好きに触れていいというのは、とても恵まれたことだったらしい。意識して我慢などしたものだから、余計に彼女が旨そうに見える。自分に向けられる好意や不安がそれをくすぐって、鬼二十は余計に空腹を感じた。



 鬼二十は綾の回復力が戻るのを待つつもりでいたが、真相は別にあった。

 既に均衡は崩れているのである。綾が弱ったのではなく、鬼二十がより多く生命力を消費するようになったのだ。


 人間たちのように、自分の心を見つめることに彼は不慣れだ。本人にとっては「獲物である娘への執着が思ったよりも強かった、それは恋慕にあたるらしい」「だったらそれでいい。綾もそれで構わないようだから」程度の些細なものが、彼という存在にはどれほど過分のものであるかわかっていない。


 生物ではない、木彫りの面である鬼二十が「腹を空かせる」のも、「心を持つ」のも、本来無いはずの異常なことだ。だからこそ彼は妖怪なのであり、その無茶を通すために、生気を奪わねばならない。

 ただの自我より生に溢れた恋愛感情は、鬼二十の消耗を激しくさせた。


 恋慕でいい、と軽く認めて始めた関係が、どんどん深みに落ちていく。

 見目は充分に昔の成人女性相応でありながら、子供のように意地を張ったり、甘えた態度を見せる。うじうじと意固地だったりするくせに、鬼二十への好意は照れても案外隠そうとしない。緊張して少し強張った表情が、触れるうちに穏やかになり、柔らかく微笑むようになる。

 自覚するより早く、鬼二十は綾への愛着を膨らませていた。彼が綾を好きになった分だけ、彼女の命が消費されていく。



 今となっては、綾を害さなければそこにはいられない事を、鬼二十が一番忌々しく思っていた。

 食事をやめれば、彼は仮死状態まで弱り眠りにつき、綾と触れ合うどころか心にも置けない。人間同士であれば問題のない、ただ触れるだけのことを、常々我慢しなければならない。その我慢を捨て去ってしまったら、そうまでして触れたかった娘が蝕まれる。


 すぐにとは言わずとも、現状、二人の行く先には破滅が待っていた。

 綾を死なせないために、いま鬼二十ができることは、彼女を手放すこと以外にないだろう。

 ──しかし弥七の狂気が、腕の中の綾を放さない。

 別れれば綾はいつか別の男の物になる。思いが通じていながら、娘が他の男の物になる。それを思うと、鬼二十は抗いがたい力で押さえつけられるのを感じた。

 口付けなければ、実体を作り触れようとしなければ、事態はやがて好転するのではないか。確かめようもない不確かなことに期待して、いまだ綾の生気で形を得ているのがその結果だった。


 一つ間違えれば、危ういことも考えそうになる。

 綾が死んでしまうのなら、その時に自分も眠り、そのまま二度と目を開けなければいいのではないか。わざわざ手放しても、人間はすぐに歳をとって、そのうち死んでしまうではないか。

 そういう考えが過ぎりそうになることはあっても、生気をまとい笑っている綾を見ると、それ以上拗らせることはなかった。基本的には、鬼二十は綾をわざわざ死なせたくはないのだ。


 鬼二十は一人の人間が息絶え、忘れられていく早さを知っている。だから人間は、子を生して血を受け継いでいくのだということも。



 低い山の頂上で、妖怪と人間の少年がひとりの少女を囲んでいる。

 洋介は「学校で救命講習を受けていて良かった」と思う反面、息があり、心臓は動いている場合どうするのかと、かえって困ってしまっていた。鬼二十に山道を下りて救急車を呼ぶかと訊いてみても、相手が悪い。無言の彼に苛立ちかけたが、きっと救急車がなんのことだか分かっていないのだ。

 自分も彼女も家が近いのだから、ひとまず連れていって身体を温めるか。洋介がそう踏ん切りをつけ、もう一度鬼二十に呼びかけると、彼は抱えていた綾をそっと草の上に寝かせた。


 鬼二十は洋介の声を遠くに聞きつつ、精神を集中していた。そうして洋介が何をするのかと見ている前で、綾に口付けを落とす。

 久方ぶりに触れた唇から、一度生気が鬼二十に流れ込んでくる。それをどうにか押しとどめ、逆に自分を形作る力を搾り出すようにして送る。そんなことが出来るのか鬼二十にはわからなかったが、そうする以外にないと決すれば、なんとか遂げられたようである。


 呆気にとられていた洋介は、やがてはっとして「こんな時に何してるんだ」と声をあげた。倒れて意識もない恋人にキスなんかして、妖怪だからといって非常識がすぎると憤る。


「少し、返しただけだ」


 鬼二十がやっと洋介に答える。直前の行動の突飛さも手伝って、わけがわからないという印象だけが一瞬頭を駆けた。


「返すって、何を……」


 なにを、と言いながらも、彼は二人の間で交わされることに気が付きかけていた。

 綾の呼吸が落ち着き始め、顔色も心なしか戻っていくように感じられる。鬼二十が口付けでなにかの力を与えたかのようだ。そして「返した」という。

 元々綾が持っていた力が鬼二十の中にあり、今の緊急事態にそれを返した――つまり、綾が突然倒れたのは、鬼二十に力を貸していたせい。洋介にはそう受け取れたし、なまじ線が綺麗に繋がるため、他の可能性は考え付かなかった。



 すぐ側にいる洋介から、鬼二十へ向けてなんとも言えない感情が向けられている。怒りそのものではなく、疑いが混じって薄められた、生ぬるいものだ。


 鬼二十は、他の顔も知らない男達よりは、洋介を気に入っていた。最初から綾に気がありそうな素振りを見せていたくせに、出し抜こうとはしなかったからだ。綾にも通じる、色恋沙汰への不慣れさが愉快だった。

 今こうして見ていても、綾に対して何らかの思い入れはありそうに見えた。浮かれたような感情は感じられないが、肩入れや同情の念は強い。介抱しに駆け寄って来たものの、恋人の鬼二十を前に触れようとはしない。

 綾と同じ人間で、彼女に好意を持つ男の中で一番近くにいる存在。鬼二十には純粋に羨ましく、成り代われるものならそうしたい相手だった。


 昔一度きり会った少女の、孫娘が綾。鬼二十が蔵でまどろんでいる間に大人になり、子を生んでその次の代まで時は進んでいる。綾の祖母があっという間に歳をとってしまったことに、彼も思うところがないわけではない。

 動物を祖に持つ妖怪ならまだしも、物である鬼二十との間には子供は出来ず、綾はただ老いていってしまうだろう。それも、日々彼に生気を奪われ続けることになる。


 例えば洋介であれば、鬼二十が綾に与えられない物を持ち、綾から何かを奪うこともないのだ。鬼二十がもし身をひこうと決めたとして、綾は不幸にはならないのかもしれない。救いの見えないところからは、こういった考えも浮かんでいった。

 子孫の件だけなら、鬼二十は女を譲る想像をするような性格ではない。問題はやはり目先の綾の生命力だった。


 小さな空腹を積み重ねてきた鬼二十は、先ほど綾に生気を押し流して、余裕などほとんど残っていない。しかし、こんな状態の綾からは当分供給を受けるわけにはいかないだろう。

 数日間の試みは無駄に終わったことになる。早く綾の前から去らねば、命をとりかねない。

 しかし、綾が自らを求め呼ぶ以上、鬼二十はそこから影を縫われたように動けなくなってしまう。まるで、本来彼が人を取り殺すために生まれたように。


「私の存在は、綾の命で形を得ている。綾を助けたいと思うのであれば、私から奪ってみろ」


「……お前」


 目の前の少女に害なす存在なのだと、鬼二十自ら洋介に打ち明ける。挑発するような言葉を選ぶのに、その目は洋介の方をちらりとも向かなかった。

 まだどこか白い顔をしている綾を一心に見つめ、頬に添えるようにした手を、寸前のところで留めている。……触れない、もしくは触らないようにしている。表情はほとんど無表情で、洋介にはそれがかえって哀れに見えた。


 初対面から感じの良くなかったこの男を、洋介は彼なりに警戒していたのだ。綾が鬼二十をどう思っているかなんて、うっすらと分かっていた。ただ得体の知れない存在が、彼女の気持ちに付け入っているのではという猜疑心は拭えなかった。鬼二十の態度は綾を管理しているだけのようにも見えたし、要求も理不尽だ。

 しかし、「鬼二十と付き合っている」と照れながら言う綾に付いて、ほんの二週間振りに会った妖怪は全く違った顔をしていた。洋介が一人で会いに行ったときのような、静かで不気味な空気はまるで無い。後ろから綾の頭を挟んで髪をぐしゃぐしゃと撫でる様子は、心無い男には見えなかった。

 「取り越し苦労だった」「ただの恋人同士のことに首を突っ込んで、自分は邪魔をしただけじゃないか」。洋介はそういう思いで自己嫌悪してしまったくらいだ。


 こいつのことが本当に好きなくせに。助けたいのは、お前の方じゃないか。鬼二十にまっすぐ見つめられて、洋介はその言葉を飲み込んでしまった。


「綾がお前を、少しでも好いていると言ったら、私は綾の前から消える」


 鬼二十の眼力(がんりき)のせいか、それは誓約のような響きがあった。

 洋介は綾の傍らで膝をついて動けなくなっている。鬼二十は浮き上がるように静かに立ち、離れてから一度目礼を寄越した。


「家に連れていってやってくれ。今の私にその力はない」


 声の調子も存在感も、洋介が知る彼と比べ、ずっと希薄だった。

五章終わりです。

恋人にはなったものの、今更表面化する人とそうじゃない者の関係 という感じです。

次章が最後の章になります。

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