進路(3)
帰りのホームルームで、進路希望調査を出していない生徒が名指しで問われる。私もその一人だった。
ほとんどの人は紙を忘れただけだったらしい。放課後残されても、友達とわいわい騒ぎながら早々に提出してしまった。
「峰岸さん真面目。もうさ、どうせまた聞かれるって。理系か文系かだけハッキリしてれば平気平気」
私にそう声をかけて帰っていった人もいる。選択科目くらいは、私もさすがに目星がついていた。決まっていないのは、この先の方針まるごとだ。
家族との相談すら済ませていないと言ったら、先生は深くため息をついた。なるべく早くと念を押されて、ひとまず帰らせてもらう。
「明日絶対に」と言われないあたり、私の家族関係が読めずに気を遣われている感じはした。
進路について母たちに話を持ちかけなければいけない。
別に家族仲は問題ないし、そんなのちょっと話題にすれば済む話だった。しかし、私は週末にそれが出来なかったのだ。
高校生なんだから、進路や将来について考えるのは本来の仕事だ。
それなのに、私は今それどころじゃない、なんて思いが湧いてきてしまう。
進路も充分頭を悩ませることだと分かってはいる。何かの片手間には扱いづらい。
でも、ちゃんと考えれば結論は出るはずのことだ。私の場合は、一人暮らしを許す気があるか母たちに確認するだけでも、方向が見えてくるだろう。
しかし進路のことよりも少し先に、私の中に根を下ろしてしまった問題があった。
心がすっかりそちらに持っていかれてしまう。期限の迫る進路調査に集中しようとしても、考え込むほどすぐに脱線した。
目の前の将来なんか決めたって、さらに先ではそれが待ち構えている。その事実とは、必ずいつか向き合うことになりそうなのだ。しかも、明るい解決策なんて想像もできない。
目先のことだと言って感情的に進路を放り出しても、結局こうして学校で困っている。来年再来年の私にとってこれが重要なのも、また事実だった。
一刻も早く、気持ちの整理が必要だ。
とぼとぼと校門をくぐる。なんとなく、自転車に乗る気にならなかった。
いろいろな人が横をすれ違ったり、追い抜かしたりしていく。足元ばかり見ているつもりでも、景色は流れていく。歩いているのに取り残されているみたいな気分だった。
キュッ、と自転車がブレーキをかける音がした。たった今私を抜かしていった人のものだ。
横断歩道もなければ自販機もない、こんな場所でなぜ止まるのか。一瞬気になったけれど、私は足を進める先をずっと見ていた。立ち止まった人のスニーカーが、視界の端に入る。
「……何してんの」
訝しげに声をかけてきたのは、洋介だった。何を見ても気分が落ち込みそうな今、彼からも色々なことを思い出す。
それでも友達を前にすると、顔は勝手に愛想を振りまいた。そのひずみで、胸は少しだけ苦しくなる。
「うん、歩いて帰ってる……ところかな」
私の答えに、彼の表情は「は? なんで?」とでも言いたげだった。家まで歩いたら一時間はかかるのだから、きっと私が馬鹿なことをしているように見えるだろう。
賢くはないから、私にはこういう時間稼ぎが必要なのだ。
「自転車、パンクかなにか?」
「ううん。なんとなく歩いてるだけ」
洋介は納得していなさそうな顔のまま、そっか、と返す。この間会った時同様、素っ気ない気がするが、今はいい。
少しの沈黙のあと、じゃあなと小さく挨拶された。私もそれに返して、また家までの長い道のりを、のんびり歩くことにする。
自転車を漕ぎ出そうとペダルに足を乗せたところで、洋介はそれを中断した。
ああもう、と小さく苛立ちを吐き出すのが聞こえる。彼がこちらを睨むように振り向いたので、私も怯んで足を止めた。
「なんかあったの。またキハツ?」
詰問する剣幕に、鬼二十は何もしてない、けど。なんてボロボロの返しをしてしまう。けど何、とまた強く迫られて答えに困れば、洋介はちょっとばつが悪そうにした。
「……そういう感じ、見てると落ち着かないんだよ。何か話せるなら話して」
自分のことで手一杯な私にも、この言葉で洋介は私を心配してくれているんだとわかった。
怒ってるのかと思ったり、人と話す気分じゃないなぁなんて思ったことを少し申し訳なく思う。いつも直球だけど、基本的にいい人だ。
受け答えにキレはないかもしれないけれど、一応さっきは笑っていたのだ。そういう感じ、と呟くと、その顔、と言い切られる。
「お前のことちょっと知ってれば、すぐわかるくらい暗い顔してるよ」
私には、そういう器用さがまるでないらしい。
たぶん私の歩幅に合わせてくれているんだろう。洋介と並んで歩くのは、登校し始めの頃も特に違和感はなかった気がする。
「進路調査、もう出した?」
「俺のクラスまだだけど。そっちは少し早いらしいよ」
あまり他クラスの子と喋らないので、そういう事情には疎い。だから先生は、そんなに急げと言わなかったのだ。
のんびり相槌を打つ私に、洋介は「それで悩んでんの?」と本題を急く。
実はさっきから、私は彼にこの悩みを話すかどうか迷っていた。人に言ってもどうにもならない事だとわかっていて、聞かせてもいいんだろうか。
気持ちとしては、口に出してしまいたい。私がそうして黙っているのが気になると彼も言うのだから、少しだけ許してもらおうか。
これは甘えだなと自分でも思う。せめて声色くらいは、暗くならないようにした。
「将来のことを考えると、私と鬼二十ってどうなるのかなって、そればっかり考えちゃうんだ」
頭を占める不安の、さわりを伝える。目が合ったので癖で微笑むと、洋介の方は眉根を寄せた。
「それはお前、どういう方向でも、考えるの早すぎるだろ……。この間付き合い始めたばっかりなのに」
先のことを考えるのは早すぎる。他のことだったら、私自身結構ゆっくり考えて保留するタイプだ。
でも、私と鬼二十の問題は、お互いを選んだ時点でとっくに始まっていたのだと思う。
「鬼二十は、姿を見られたら怪しまれるでしょ。だから私は、他の人に鬼二十のことを話さない。……それを今までね、自分の好きでそうしてるんだと思ってたの」
知られたら、説明に追われて面倒だ。説明を尽くしても、納得してもらえないかもしれない。非現実的すぎて、いくら友達でも私の正気を疑うかもしれない。そういう理由で、あえて誰かに打ち明けるつもりがなかった。
たとえば、私はクラスの中で日奈ちゃんのことが好きだけれど、きっと「好きな人」「彼氏」以上に鬼二十のことを語らないと思う。こんな突飛なことを話せば、私と鬼二十のことで彼女をかなり混乱させると思うからだ。普通に暮らしているところに、友達の彼氏が妖怪だなんて、微妙に距離のある話で煩わせたくなかった。
ギャルの子達に恋愛話をふられたときも、そもそも彼女達に自分の恋の話を詳しくする気はなかった。ただ本当に当たり障りの無い質問をされて、あの時ふと色々なことに気が付いてしまった。
車の免許なんて、鬼二十がとれるわけないでしょ。頭の中ですぐにそう浮かんで、彼女達がそれを知るはずはなかったと打ち消す。
だって、そもそもあの角と髪で人前に出られないから、自動車学校に行けないし。
行けたとしても、住所や名前、鬼二十の身元はどこにも保証されてないし。
この日本で、人として、彼の存在は認められていない。
身の回りの親しい人たちから順に紹介して、いくら「いる」と叫んでも、彼は本来そこに存在しない者なのだ。
そこまで想像が行き着くと、悪い考えがなだれ込んでくるのを止められなかった。
「違ったんだよね。言わないんじゃなくて、言えないんだね。人間でも動物でもなくて、そこにいることが皆に認められてないって、大変なことだったみたい」
鬼二十は妖怪だと、わかっていて好きになった。でもそのとき、私は別のことにばかり目を向けていたのだ。食べるものを好きにはならないんじゃとか、そもそも恋愛感情がないんじゃないかとか、恋が叶うまでの心配ばかり。
恋愛の行き着く先はなんだろう。すぐ別れる人だって多いけれど、目指すところは、お互いを好きなままずっと一緒にいることじゃないかと思う。わかりやすい形が結婚だ。
そういうことを、目指す目指さない以前に断たれているのが、私たちだった。
一緒にいるためには、元々縁の深い人たちに認められた方が良い。二人が幸せでも、周りから批難され続けたら悲しいに決まっている。
でもそこで、恋人の存在を隠さなければいけないとしたら、話は重たくなっていく。
いつまでも恋人のいない娘を、両親は心配するだろう。紹介や出会いにも消極的で、かといって絶対に独身でいたいと言うような性格でもない。だったら、結婚するところを見て安心したいはずだ。
存在しないはずの人とは結婚もできない。たとえ家族にだけはと鬼二十を紹介したって、世間的には私は未婚で、家族を作れない。
私がそういうもの全てに耐えて鬼二十と一緒にいたとして、彼には寿命がない。私は歳をとるし、いつかは死んでしまう。「鬼二十が好きになってくれた私」は絶対に失われる。
そんな風にしか終われないのに、好きになってもらって、本当に良かったんだろうか。
「この先、もし私たちがずっとお互い好きでいられたとしても、その先に明るいゴールがない。私が大人になるほど、現実的な問題で窮屈になっていくんだと思うの」
話しながら歩いていた私達は、最後の坂の手前で足を止めた。洋介は相槌こそ打たないけれど、目で続きを促し続けている。
一度声に出してしまえば、感情的な不満まで口をついて出た。
「出来ないことばっかり。紹介できない。結婚できない。車の免許だってもちろんとれないし、一緒に出かけることもできない!」
気持ちが高ぶってきて、深く息を吸う。ふと目に入った洋介の表情は、とても哀れむようなものだった。それがぼやけて、瞬きすると頬に熱いしずくが落ちる。
「私たちさ、普通の人達と同じ気持ちで、好きで付き合ってるのに、なんで……」
そこまで話すと、喉が苦しくなってきて、もう何も話せる気がしなかった。落ち着くまで十分はかかったかもしれない。時間、ごめんねとだけ、途中でなんとか言えた。
泣いている女子の傍に男子がいたら、近所の目もよくないだろう。道の端に寄って、遠くの空っぽな田んぼの方を向いた。
「……なんか、聞き出しておいて、それっぽい事言えなくてごめん。気にするなとまでは言えないけど、今くらい思いつめることもないんじゃないかって、思うけど。……ダメだ上手く言えない。俺も、少し考えておくよ」
こちらは胸の中にあったものをほとんど全部出し切って、なんだか頭が熱くなっている。洋介が難しい顔をしながら言葉を選んでくれているのを見て、急に、私は聞く人のことも考えられずに何を話しているんだと自分が恥ずかしくなった。
「人に言えて、なんか少し楽になったかも。解決とか、できないんだと思うし、十分助かりました」
短時間でわっと泣いて落ち着いたせいか、顔の回復は早かった。たぶん目もそんなに腫れてはいないし、声も出る。
軽く頭を下げると、洋介は私をじっと見てから「行こう」と自転車を押し始めた。
「お前らのことに首突っ込むの、やめようと思ったんだ」
坂を上りながら、ぽつりと彼が呟く。夫婦喧嘩は犬も食わないとか、そういう言葉が浮かんだ。誰だって、痴話喧嘩に巻き込まれたくはないよね、と納得する。少し距離を置かれている感じがしたのは、私が付き合いたてで浮かれていたからかもしれない。
「……首突っ込ませて、ごめん」
「スルーできなかった俺が悪いんじゃないの」
やけになっているような口ぶりだ。そういう風に言われると、なんだかますます罪悪感がわく。小さくなる私を一瞥して、洋介は疲れたように息をついた。
「あいつの事で悩んだら、お前他に話す相手いないんだろ。お互いしょうがないってことにしとこう」
弱音を吐くのも放っておけないのも、お互いしょうがないと言う。優しすぎると思った。
家に帰ってみれば、鬼二十は窓辺で外を眺めていた。もうほとんど日が落ちている。暗くはないけれど、太陽はどこにあるのかわからない。
部屋中ひんやりとしていて、私は入口で少しだけ身を竦める。家が古いせいか、季節の変化がすぐに表れるのだ。
袖口や裾から十センチは出ている、鬼二十の手首足首が寒々しい。分厚い布地が暑そうだと思っていたのに、秋になったらもう季節が合わなくなってしまったようだ。冬なんて、見ているだけで私が震えてしまうんじゃないだろうか。
鬼二十はきっと、なんとも思わないのだろう。
つい黙ったまま近寄り、鬼二十に手を伸ばす。すると、触れたはずの指先が空を切った。
鬼二十は私がいたことに今気が付いたようで、ああ、すまんと言って私の頭にぽんと手を置いた。今は確かに、鬼二十は私に触れている。
「少し、気が散漫だった」
いま私が彼に触り損ねたことを言っているのだろう。胸が痛くなるのを無視して、気にしていないような素振りで隣に立つ。
「集中してないと透けちゃうの?」
「お前を眺めるだけなら、体まで作る必要がないだけだ」
姿を現すのが言わば妖術。前にそう言っていたことも考えると、触れる時とそうでない時は当然あるものらしい。
窓の外を見ると、祖母が庭に水をまいていた。祖父がしていたことを代わっているのだ。
……鬼二十は、祖母を見ていたんだろうか。
「鬼二十って、私のおばあちゃんに会ったことがあるの」
微かに引っかかっていたことではある。祖母は、鬼の面に思い入れがあるらしい。もしかするとそれは、鬼二十に会ったことがあるという意味かもしれない。
祖母に尋ねようにも、どう言えばいいかわからなかったのだ。もし会ったことがなければ、墓穴を掘る羽目になる。鬼二十は、ごく普通に肯定した。
「あれがお前よりも幼かったときに、一度きり」
祖母はあまり蔵に近寄らない。用があれば、なぜだか祖父が率先して済ませる。祖父は時々、祖母に対して過保護なことがあった。
見た目も随分変わっただろうに、記憶の少女と表の祖母が同一人物だとよくわかったものだ。
私がぼうっと考え事をしていると、鬼二十は視線に感づいて顔をこちらに向けた。意地悪そうに、少しだけ微笑む。
「なんだ、妬いたか」
一応ことわっておくが、手助けをして見返りを頂いただけだぞ。丁寧なことに、祖母と親しかったわけではないと私に教えてくれた。出会う前のことだから浮気には含まれないと思うけど、私が今までで一番近くにいるのなら、それはそれで嬉しい。
もう一度外を見やる彼の眼差しは、感情が読み取れないものだった。
鬼二十にしてみれば、ほとんど眠っていた間に時間が進んで、祖母は結婚して、孫まで生まれていたことになる。
私だって、きっとあっという間に歳をとる。
それに気付かないはずがない。でも、気付かないでほしい。
「……きはつ」
袖を掴むと、鬼二十はそれをちらりと確認してこちらに体を向けてくれた。私から近づいて、暗にキスをせがむ。
鬼二十は無言で片手を私の頬に添え、一瞬だけ口付ける。離したあと少し間を置いてから、下唇を軽く食んで今度こそ終いにした。
洋介にはさすがに言わなかったけれど、もう一つ気にしていることがある。この数日鬼二十が少し淡白というか、……手を出してこないのだ。
今のキスだって、本当はもっと、嫌な気持ちを忘れられるようなものを望んでいた。そうとはっきり言うのが恥ずかしくて、何も伝えていない私にだって原因はある。
でも今までの鬼二十だったら、頼まなくても自分からそういうことをしていたはずだ。私に触っているのが嬉しいみたいで、機嫌も良さそうだった。
私の反応がつまらなくなっちゃったからかな。不安のせいか、そうやって今の関係そのものにも自信がなくなっていく。
感じたくない気持ちもすべて間で押しつぶすように、鬼二十を強く抱きしめた。