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鬼の面  作者: 有川
5章
34/38

進路(2)

 土日を控えた夕方を、鬼二十とふたり部屋で過ごす。

 ずっと閉め切っていたせいか、空気が悪い。ふと立って窓を開けると、何やら後ろで鬼二十が動く気配がした。



「紙、飛んだぞ」


 振り向いた先で鬼二十が眺めていたのは、この間の進路調査のプリントだった。学習机の上に直接置いてあったので、吹き込んだ風で舞ってしまったようだ。


 読んでいるように見えるけれど、日本語も昔とは少し違うんじゃないだろうか。それに、鬼二十は誰かに字を習ったりはしていないはずだ。

 ちょっと気になるが、私はプリントをつまみあげてしまった。紙を取り上げられても、とくに文句は言ってこない。私がミニテーブルの対面に座ると、こちらをただ見つめていた。


「いつも机の片付けばかりしているのに、珍しい」


「もうすぐ提出だから、忘れないように出してあるの」


 プリントを見たせいか、考えるべきことがいくつも頭によみがえってくる。

 以前いた学校では、とりあえず進学するだろう人が多かった。いま周りには、就職する人、花嫁修業の名目で家事や畑の手伝いをするという子もいる。


 私はというと、この家にずっと住んでいるのかどうかすらあやふやだった。


 生まれ育った街に帰るなら、父の仕事の都合や母の意見も聞く必要がある。一人暮らしすればいい、と簡単に言えるものでもない。

 何も考えず県内の大学に進学しても、今住んでいる場所からは、結局通うのが難しい。手伝うほどの家事がうちにあるとは思えないし、将来を考えると家にいるわけにもいかない。

 引越すなら、鬼二十は連れて行けるのだろうか。鬼二十の面はいま、祖母のものなのだ。


 一つの選択が全てに繋がっているようで、考え始めるとこうして果てがなくなってしまう。

 最終決定じゃないとはいえ、「将来の予定」を来週提出するなんて、気持ちがついていかなかった。



 畳を擦る音がして、鬼二十がこちらに近寄ってくるのがわかる。

 私がプリントを眺めているのにも構わず、横抱きに持ち上げられ、そのまま彼の脚の間に下ろされた。持ち上げたときのまま、体にまわされた手が私を支える。


 この体勢は気持ちが落ち着く。私は思わず、じっと静かに体を預けた。

 鬼二十が黙って寄り添ってくれることが、すごく嬉しい。


 このまましばらく過ごせそうだ、と思っていたら、鬼二十の方は気になる点があったらしい。

 相変わらずプリントを持ったままで、私の手が塞がっているのが不満だったようだ。さっき私がしたように、ぴっと上から紙をひったくる。


「まだ手元に置くつもりなら、ちゃぶ台といったか。そこに文鎮かなにかでとめておけ」


 重要なものだとは微塵も思わない様子で、プリントを軽くテーブルに放る。ひらひらとまた飛びそうになるところを、そばにあった携帯で押さえた。

 文鎮なんて、習字の授業以来ひさしぶりに聞いた。そこ、と顎で示したのはもちろん、お気に入りのミニテーブルだ。

 この人、私がそういう意識を忘れた頃になって、時代のずれた発言をする。


 言いながら鬼二十は私の手をとって、指先で遊び始めた。親指でなぞったり、顔を寄せて唇をかすめたり。少し前の私なら大慌てで手を引っ込めそうな、一見恥ずかしい振る舞いだ。

 しかし鬼二十に慣れてみると、実は照れる必要はないんじゃないかと思えてくる。こういうものがなんだか動物的な、衝動からの行いに思えるのだ。

 私の手の感触を手と唇で確かめたかっただけ、と言えばいいんだろうか。いやらしいニュアンスもなく、私の反応を期待しているようでもない。不思議なことをするなぁと思う。


 その行動には特に言及もせず、私はどうでもいいところをつつく。鬼二十も、そろそろ横文字をいくつか覚えたっていいと思う。


「ちゃぶ台って言い方すると、なんか違う物に思えてくる……。テーブルって言うんだよ、今は」


 私の外来語講座に、鬼二十は興味がなさそうだ。手を止めはせず、なぜ今そんなことを、と言うように軽く目をすがめる。


「テェブル? ……言いにくい」


 繰り返した単語は、伸ばし棒のところで母音を言っているのが丸わかりだ。真面目に話しているところで笑っては悪いと思うけれど、やっぱり面白い。



 変に笑いをこらえようとしたら、喉がきゅっと苦しくなってそのまま咳き込む。咳がくせになってしまったみたいで、今日はずっとこの調子だった。横目に、鬼二十が険しい顔をしたのがわかる。


「お前、この間ずぶ濡れで帰ったりするから」


「あれは、急だったんだもん。学校に自転車置いて帰るわけにもいかなかったし」


 先生の予告通り、あの日はちょうど下校時刻に雨が降った。誰が悪いかというと、天気予報を全然確認しなかった私なんだけど。鞄をまるごとビニール袋に包んでカゴに入れ、私本人は濡れるしかなかった。


 でも、喉もおかしいし本当に風邪ひいたかも。そう続けると、鬼二十がふいと目を覗いてくる。

 反射的に、キスをするのかと思って覚悟してしまった。

 けれど迫ってはこない。私の顔を眺めて少し目を細めると、彼は珍しくひと呼吸した。



「……鬼二十?」


 私の方から少し顔を寄せる。鬼二十はそれで我に返ったように、視線を合わせた。



 少し、様子が変だと思った。言葉が少ないのはいつも通りだし、具体的に何が変とは言えない。

 今まで何度か目にした態度だった。何か考え事をしているけれど、それを言う素振りのない時のような感じだ。


 彼が思うところを打ち明けないと決めている以上、こじ開けてしまえばプライドを傷つける気がした。だから私に言わないことがある、ということ自体は、仕方ないと思ってもいい。


 でも、鬼二十が一人で不安になるというのは、私が彼の心に立ち入れないということだった。外からただ眺めているような状態だ。

 その間、私も無力さを感じて一人ぽつんと立ちつくすことになる。これでは、お互い独りになるのと変わらないんじゃないだろうか。


 私だって、言うに頼りなくても傍にはいられる。思っていることを言っても言わなくても、あなたを安心させたい気持ちは変わらずあるんだと、どうしたら伝わるだろう。

 鬼二十はそういうのがとても上手いと思う。私の考えなんて見透かすみたいに、茶化さず腕の中に迎え入れてくれる。私も、同じようにしてあげたいと思った。


 すっかり視線を落としてしまった鬼二十の頭をつかまえて、うなじから輪郭へ、両手で包むように撫でる。私の手はきっと、なかなか温かいはずだ。夏の暑さを感じない彼に、それがわかるかは別の話だけれど。

 鬼二十は受け入れて、休むように両目をつむっている。



 しかし、間の悪いことに、また咳が出そうになった。口元をおさえようと、片手を引っ込める。

 その咳で鬼二十はすぐに目を開き、苦い表情で私の様子が落ち着くのを待った。

 ……雰囲気が台無しだ。ごめんね、と軽く謝っておく。


 鬼二十は頬に残ったもう片方の手を、包むように外した。次いで、私の胸に押し返す。

 今度は彼の方からも、頬に優しく触れてきた。顔が近づいたので目を閉じると、反対の頬に頬ずりが交わされる。ほとんど髪の感触がするそれは、ざわざわしてくすぐったい。


 何度かそうして、鬼二十はまだ顔をあげない。本当にどうしたのだろうと様子を窺っていると、ぼそりと声が聞こえた。

 しっかり休め。治せ。耳元だったというのもあり、何を言われたか分かると途端に頬が熱くなった。

 私が風邪をひいたと言ったり、咳をしたことが、まさかこんなに鬼二十を動揺させたのだろうか。


「もしかして、すごく心配してくれてる? ありがとう。大したことはないと思うよ」


 無言だ。顔も私の肩に潜り込んでいるので、鬼二十の反応は分からない。

 髪の合間からじわりと伝わる熱の気配を確認して、私はなんとか安堵の息を吐くのだった。

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