進路(1)
テストが返ってくる日なんていうのは、自信に関係なく足どりが重くなる。
だって、もらえる言葉は「もっと頑張れ」か「このまま頑張れ」の二択なのだ。気のせいかもしれないが、昇降口ではあちこちから返却を怖がる声が聞こえる。
鬼二十はテストが無くていいなぁ、と今朝着替えながらこぼした。
私がそんなタイミングでそんなことを言ったものだから、「嫌なら行かなければいい」と冗談なのかわからない顔で迫られるし、制服を着るのは妨害されるしで朝から体力を使った。
疲れたのは本当だけど、思い出す私は我ながら満更でもなさそうだ。もし誰かに話していたら、惚気だと言われたかもしれない。
そんな心配は、ほとんどいらないのだけれど。
戸のついていない下駄箱がずらりと並ぶ。考え事をしながらだって、体は勝手に靴を履き替えてくれた。
ふと、前を歩く男子生徒に目がいく。
人間後ろ姿だけでも個性が出るものだ。たぶん洋介だと思う。
洋介は私より一足早く校舎へ入ったらしい。道路では会わなかったから、彼は朝練あがりなのかもしれない。私も今日は遅くなったし、いつもとは昇降口で見かける顔ぶれが違っていた。
先を行く洋介を追って、少し急ぐ。
階段をのぼって、左に曲がれば私のクラス。反対に曲がってすぐが洋介のクラスだ。普段お互いの教室の前を歩かないから、校内で会うのはけっこう珍しい。
全然追いつきそうにないので、私は後ろから声をかけることにする。
「おはよう」
一拍おいて振り返ったのは確かに洋介だった。
でも、今朝はなんだか反応が素っ気ない。後ろから声をかけられたのに、驚いた様子もなかった。
「おはよ」
本当にその一言だけを返すと、また前を向いてすたすたと先に行ってしまう。なんだか意外で、私はちょっとだけ足を止めてしまった。
階段くらいは、一緒に話しながら行けると思って声をかけたんだけどな。用事があったわけじゃないけれど。
彼は元々が親しみやすいタイプだから、この程度でも今朝なにかあったんだろうかと気になってくる。……でも、挨拶は返してくれたわけだし、気にしすぎかもしれない。一緒に行くといっても、もう階段二階分もないし。
踊り場の角で洋介の鞄が見えるか見えないか、微妙な距離を保ったまま、私たちはそれぞれのクラスへ向かった。
そんな明るくないイベントを終えて教室についた私を、登校早々に捕まえた人達がいた。
嵐のようにわぁっと取り囲まれ、そのまま廊下の隅に連行される。ねぇねぇねぇと何度も呼びかけ、腕にくっついてきたのは、クラスの少しギャルっぽい子たちだった。
彼女達は以前にも、こうして私が登校したところをすぐ出迎えたことがある。いつも早くに来ていて偉いな、と素直に思った。
突き当たりまで来ると、三人は私を隠すみたいに囲む。私からは彼女たちの表情が見えるからいいが、その向こうで同級生が不思議そうにこちらを見ていた。カツアゲでもするみたいだから。
「ね、洋介くんと付き合ってるの?」
示し合わせるようにした後の本題は、とてもデジャブを感じるものだった。
前に訊かれた質問は何だっただろう。知り合いかどうかだったか。三ヶ月弱で、話がずいぶん進んでしまっている。
「違うけど、なんで?」
答えるついでに理由をきいてみるけれど、まだ彼女たちは今にも「本当?」と尋ねてきそうだ。目がにやにやしているというか、何か言いたげだった。
「だって、ときどき二人だけで話してるの見かけるし、一緒に帰るの見たって子もいるし」
「うーん、学校に共通の知り合いいないから、話すとそうなっちゃうんだよね。帰りはほら、回覧板回す距離だし」
まぁそうだよね、と反応してくれるものの、これでおしまいにはならない。
なぜ今それを訊いたのかというと、少しの時間差で昇降口に入っていくのが上から見えたからだという。それはかえって一緒に来たのを隠しているんじゃないか、という想像で盛り上がったそうだ。
今朝の階段でのやり取りまで見ていたら、逆に仲は良くなさそうに見えたんじゃないかと思う。でも実際の仲はそこそこ良好だと思うし、人から見える関係って、事実とあんまり一致しないものだ。
「好き?」
「友達だよ」
ずいと迫って小声でされた質問に答えると、即答だ、と笑われる。場の空気から、やっと事情聴取じみたものが消えた。
逆に私の方が気になったので、三人の顔を見て「好きなの?」と尋ねる。一斉にいやいや違うよね! と言いあうのに、内ひとりが小突かれて私の前に出た。洋介の話題に興味があるのは、主に彼女らしい。
「べつにぃ、私も好きっていうわけじゃないけど、うちのクラスの男子よりはいいなって! それで気になって」
人の彼氏好きになったら面倒じゃん、とふざけてみせる彼女が洋介を好きなのかは、半々といった様子だった。前に洋介と接点がないと言っていたし、あくまでまだ興味がある程度なんだろう。
運動部で背が高くて、男子の輪でよく笑っているのを見かける。女子と話しているのはあまり見ないけれど、そこも含めてモテる理由なのかもしれない。
「綾ちゃんって、好きな人いるの」
彼女たちはもっと洋介の話をしたがるだろうと思っていたら、予想外の返球があった。
私は咄嗟に答えられず、言葉が喉につっかえてしまう。
「え、いるの? いるんだ!」
すぐに同じクラスの佐塚君が挙げられたけれど、それには慌てて首を振る。私がよく話す男子なんて、そう多くないから仕方ない。
「もしかして彼氏いる?」
「えっ」
他の男子の名前は挙がりようがないし、私の話は終わったつもりでいたらこの展開だ。今日は、かなり積極的に切り込まれている。
私が間の抜けた声を出したので、もう肯定したも同然だった。彼女たちのテンションが、目に見えて上がる。
「同じ学校?」
「まさか年上?」
輝いた瞳で迫られて、たじたじだった。まるで私が頷いたみたいに、学校外のひとであること、年上であることが確定事項扱いされていく。
実際は、うまく答えられなくて困った顔をしているくらいだった。けれど違うと言えば、じゃあ教えてと言われてしまうだろう。
「いいなぁ! 彼氏、車持ってる? ドライブとかするの?」
ごく当たり前のように、尋ねられた。
こちらでは、免許が取れる歳になると高校在学中に教習所に通う子が少なくない。上京するならまだしも、県内に残るのであれば車は絶対に必要だ。高校を出ている男性なら、ほとんどの場合免許を既に持っているのだろう。
そうだよね、と心の中に、静かに納得が落ちていった。
「…………ドライブは、しないかな」
それだけ答えた私に、へぇと軽い反応が返る。じゃあ、と一人が続きを言いかけたとき、廊下の向こうで担任の森先生が私たちに気がついた。
「ホームルーム始まるよ。教室に戻って」
予鈴はいつ鳴っただろう、言われてみれば、もう廊下には私たち以外誰もいなかった。
彼女たちはのんびり「やばい」と呟いて、行き同様私を囲んで運ぶように戻る。そうして静かな廊下で、声をひそめて私の耳元に寄る。
「ひょっとして、こっち来る前の人と遠距離? 今度本当に詳しく聞かせてね」
「出会いから付き合うまで全部ね!」
教室の後ろ側につけば、私の返事なんて気にせずに早足で席に戻っていく。
私の恋愛に、本当にそんなに興味があるんだろうか。
ぼんやりとそんなことを思う。
今日は普段のホームルームよりも少しだけ空気が静かだった。先生が教卓越しに放つ無言の間が、そういう雰囲気を作っているんだろう。教室中を一巡見回して、先生はプリントの束をぐっと張る。
「進路調査の紙を配ります」
クラス中がざわめく。露骨に嫌がる様子の男子もいた。何も言っていない人たちも、嬉しそうな顔はまずしていない。
回ってきたプリントに目を通すと、希望を三つまで記入する欄がある。簡単な記入方法も添えてあって、みんなそれを読んでいるようだった。
「進学志望の人は、なるべくなら志望校。どうしても絞れないなら、何を勉強したいかでもいいから書いておきなさい。選択授業は来年のクラス替えにも関係があるから、ちゃんと考えること」
先生の言葉に、またあちこちで様々な声がした。選択授業かぁ。クラス替えやだな。志望校なんにも考えてない。
当然きちんと考えた方がいいのだろうが、森先生の口調は決まっているでしょうと言い切るようで、みんなを焦らせることが目的に思えた。
プリントを持ったまま、私は先生を見つめる。先生は、私一人の視線を気に留めることもない。
「今日、こんなに晴れてるのに夕方にわか雨が降るんですって。大事なプリントだから、濡らさないようにね」
そう言われて外に目をやると、たしかに遠くの空で黒い雲がただよっていた。