存在の温度(3)
同じ部屋に鬼二十がいても、一応テスト勉強はできる。彼は元々無口だし、私が話しかけなければ大人しいものだった。……テスト前日になっていよいよ向き合う時間がなくなると、さすがに何か言いたげな視線を感じたけれど。
季節のせいか、最近は夜になるととてつもなく眠い。夕食後何回か机でうたた寝しかけて、やっと寝る前に始めたって遅いと学んだのだ。
結果はきっと来週の私が受け止めてくれる。やれるだけはやったのだから、直後の今くらい頭から消し去ってもいいと思う。
テストの最終日は久しぶりに、入院している祖父の病室へ行った。顔だけなら何度か出しているのだが、傍の椅子でのんびりと過ごすのはまだ二度目だった。
なぜかといえば、祖父がきまりの悪い顔をする。
なんでも、私が来ると入院しているのが恥ずかしくなるそうだ。一人きりの孫娘の手前、元気な祖父でいたいのだろうと祖母は言う。長引く療養は医者の心配性に付き合っているからだとか、体調がとてもいいとか、頼もしい言葉ばかりだった。
世話といえるものは、どうしても祖母にやってもらいたいらしい。実の娘である母に対しても、面倒ごとはいいから帰れと照れ混じりにこぼす。
ちょっと手を貸してくれだとか言われるたび、祖母はほんの少し嬉しそうに見えた。
心配事が片付いていって、気分が軽かった。
もうすぐ秋が終わる。まわりの木々や畑がさみしくなるのも、何もかもをシンプルにしているように見えた。ついでに明日は学校も休みで、ゆっくり過ごせるじゃないか。
機嫌の良さをそのままに、鬼二十へ「ただいま」と声をかける。すると微かに笑んでくれた。
彼の隣、ベッドの脇に私も並んで腰をおろす。ちらりと窺って、くつろぐ姿にひそかに満足する。
ほっとするのかドキドキしているのか、自分でもわからない。鬼二十といると、よくそういう不思議な感覚になった。
直後、鬼二十がこちらに顔を向ける。途端にときめきの方へ比重が傾くので、気持ちって複雑なようで単純だ。
「ところでお前、この頃ずっと帰りは早いな」
彼の方は、見たところ落ち着いている。私がいま必要以上にそわそわしていることなんか、きっと気が付いていないだろう。
「ああ、文化祭とテスト終わったから……」
たわいない話題が、静かな部屋に消えていった。
私は似たセリフを短期間で何度も言っている気がする。でも話を濁すためでない、本当にそのままの意味で使ったのは初めてじゃないだろうか。
私が早く帰るのは行事が終わったから。傍目に浮かれているのは、家に帰ってからの時間が幸せだから。それが真実だ。
髪を耳にかけて、はずむ気持ちを落ち着けようとする。その試みも、手櫛が通りぬけた先で鬼二十の手に迎えられて無駄に終わった。
私が触ったから、髪に意識がいったらしい。手はすんなり解放されて、彼は耳にかけたあたりの毛先を撫ではじめた。
そろそろ髪を切ろうと思っていたけれど、鬼二十がこうして触るのでなかなか踏み切れずにいる。これは、かわいがられている感じがして心地良いのだ。
しばらくそうしているつもりかと思えば、手は後ろ頭を気まぐれに引き寄せる。間もなく、軽く口付けられていた。
……はやい。される前にうろたえないで済んだから、それはよかったけど。
表情を見るに、今日はからかいたくて手を出したわけではないらしい。私には、その方がずっと心の準備が必要だった。
鬼二十は自分の口の端を舐め、ごく近くで話し始める。
「ひとつ、気がついたことがあるぞ」
「……なに?」
その表情は今にも新たないたずらをしそうで、私はどうも気が抜けない。さっきうなじに回された手も、引っ込める気配はない。ついでにもう一つの手が私の甲に触れて、腕の形を確かめるように這って上がった。
「皮の薄い、ヒトの弱点の方が、流れる気が好い。腕や肘なら内側、顔、お前の内側に近ければ近いほど」
思わせぶりに滑る手が、淡々とした語り口に色をつける。上がる手は二の腕で止まり、今度は熱っぽくキスが交わされた。
直前にそんなことを言われると、妙に意識して仕方がない。唇が離れて、私は思わず一言こぼす。
「それ、わざわざ言葉にしちゃうとなんかセクハラっぽい」
「腹がどうした」
「ああ、うん。いいや、気にしないで」
横文字が基本的に通じないこと、そんな言葉を教えたって話が発展しないこと、次々と頭によぎってすぐに取り消した。追及してきそうな鬼二十を制して首を横に振ると、照れ隠しだと思ってくれたようだった。
その話題は確かに終わったのに、一呼吸、二呼吸と至近距離のまま、鬼二十は無言で私を見つめる。この人はまばたきをしないから、あまり停止が長いとついロボットのフリーズを疑いたくなる。
何か言って。それか、ちょっと体勢変えて。そればかり念じはじめた頃、やっと鬼二十は口を開いた。
「私を好いているか」
「えっ、うん、す、好き」
恥じらう人ではない。かといって、こうやって確認してくるタイプにも思えない。意外だったのもあるが、本人を前に再告白させられてどもってしまった。
しかしこの人は、訊いてきたくせにどうという反応もせず、さっさと次の話にうつる。
「それで、明日は休みだったな」
「……そうだよ」
尋ねながら、鬼二十は私の腰に手を回している。それについて私が何かを言う前に、反対の手が肩を押し、上半身がベッドに寝かされた。
上から覗き込む鬼二十は、意味ありげに笑う。顔は相変わらず近い。
抱え上げられたり、膝に乗せられたりというのは何度かあった。しかし、こう、覆いかぶさるようにされたのは過去一度きりだ。
私の「もしかして」という顔に応えるように、鬼二十は一度首すじへキスをする。その間に両ひざもすくわれて、マットに全身がころんと仰向けになった。
ここまでくれば予想通り、続いて鬼二十もベッドに乗って、当たり前のように私に跨る。
これ、いま何も言わなかったらたぶん、されるがまま流されてしまうんじゃないだろうか。
なんだか鬼二十と付き合ってから色々慣れすぎてしまった気がするけれど、一応私も、これ以上は初体験だ。もっと雰囲気とか場所とか他にないのかな、とかそういう小さなことが一瞬でいくつもよぎった。
あれ、でも雰囲気って何? 場所って、他にどこがあるっていうの。
冷静に考えると、私は思ったよりも混乱しているということがわかった。気にするべきことは、他にもあるだろう。
「あのね、うち二階建てで、下には人がいるんだよ。お母さんはそのうち、寝るのに上がってくるし」
気付かれるのは論外として、不審に思われるのも困る。鬼二十の存在が知られるかどうかにかかわらず。
鬼二十だって、私の家族に姿を見せないことには徹底してきたのだ。でもその割に、私がとなえた懸念に少しも動じない。自分を好きか、明日は休みか、と尋ねたときの方がまだ関心を持っていたように思えた。問題にならないと言わんばかり、返事はすぐに返される。
「いざとなったら布団をかけてやるから、枕で息を殺せ。最中は気にするな、何も聞こえはしない」
最中という言葉の露骨さに、私は言葉をなくす。内容は、ぼんやりとした概要しか頭に入ってこなかった。
わかった気でいたけれど、鬼二十は本当にそういうつもりでいるのだ。脇腹にそう手のひらからは、意図がありありと伝わってくる。肌がそれを意識して、身が竦んだ。
すっかり説得モードになっている彼は、やけに色っぽい動作で私の傍らに腕をつく。
「お前のその反応にまだ上があると思うと、気になって仕方がない。私だけには見せると、綾、お前たしかに言ったな」
切り札のごとく鬼二十が言った内容は、なんだか誤解を招きそうなものだった。
そんな大胆なことを、私が言うだろうか。いくら今が非常時だからって、言っていないことをそうと頷くつもりはない。
否定しようとして鬼二十をキッと見据えたら、忘れていたかった記憶が蘇った。お互いに告白した日、わけも分からない状態で、尋ねられるまま頷いた……ような気がする。
あんな状況で言ったこと、覚えているというだけでも正直勘弁してほしい。その上証拠品みたいに提示されて、私はわなわなと両手を固く握る。
「似たようなこと、言わされた気はするけど! こんな風に持ち出されるとなんだかすっごくイヤ!」
恐らく赤くなってわめく私を見て、やはり鬼二十は楽しそうだった。髪が私の胸元へすべり落ちるのも気にせず、ずいと覗き込んでくる。
「そうつれないことを言うな」
な、と促す瞳と視線がかち合う。逸らせなくて、私たちは縫いとめられたように見つめ合った。
笑む口元と軽い口調はいつも通りで、からかいと甘い状況がちょっと度を越した。そんな印象に、不思議な違和感がある。
なんとなく身動きの取りづらい体勢。肩に置かれた手が、じんわりと強く私を押さえつける。軽く身じろいでも、彼がそれに気が付く気配がない。
鬼二十は、どこか急いでいるような感じがした。態度は茶化すようなのに、目の奥に真剣さがちらつく。
私はこの、彼が感情を仕舞うあやうさに弱い。
何か思いがあるなら、言ってくれれば私は共感して楽にしてあげたいと思うだろう。でも鬼二十は、何がどうつらいだとかを、私に向けて言葉にしない。いつも通りに結論の許可だけを求める。
鬼二十を好きな私が、彼の不安を放っておく訳がない。彼だって、私がそういう考えだと察せそうなものだ。なのに、情に訴えてほだすことをあえて避けている。
あくまで、じゃれあいの延長としての誘いかけ。恋人同士が決める、絶対に今でなくても、いつかすればいい選択。
きっと私がダメだと言えば、彼は手を引くのだ。何かの思いを抱えていても、私にそれを伝えずにこの場を普段通り収める。
私の希望を大事にしてくれている彼は、自分の都合を押し通そうとはしない。……優しいけれど、なんだか切なくなる。
それを理由に今この先を許していいのか、すごく難しい。もうちょっと考えて決めた方がいいんじゃないかと思う部分も、ないわけではない。
でも、なんだか私にも、彼の不安と似たものが巣食っているように思えた。
まだその全体像は見えないから、言葉にはできない。ただ先を急ぐ鬼二十の様子を見て、驚くのではなく腑に落ちてしまうのだ。
それに、私の中にある鬼二十への想いも無視できない。応えたいし、許される限り近くに行きたい。
私だって、知らない鬼二十をもっと知りたかった。
「…………いいよ」
たっぷり間を開けて返した答えに、鬼二十はわずかに目を見張る。この距離ならもちろん聞こえるはずの、でもずいぶん小さな声で言ったのだ。
鬼二十がぽつりと、私の名前を呟く。今の体勢ではうつむいたってあまり意味はないけれど、目が合わせられない。正面を向かせるでもなく、彼は頬を撫でる。
せめて竦めた肩をひらくように、ベッドに身を沈めた。