存在の温度(1)
ほんの一瞬、鼻歌のようにこぼれた音を隣の洋介が拾う。
「機嫌いいな、最近ずっと」
そう言われて、すぐに思い当たる理由があった。でもそれはわざわざ人に話すような事でもないので、押し止める。にやけそうになり、私は洋介より一歩先に出た。
「……文化祭が終わったからじゃない?」
答えたそれも嘘ではない。毎日の雑務が無くなって、気楽に登校できている。でも、気楽を通り越して楽しそうに見えるのなら、その理由は間違いなく鬼二十だ。
今の私たちは、これまでと違った関係だった。
どうとっていいか分からなかった距離が、自然と定まる。普段通り向かいに座れば、ときには鬼二十の方から近くへやってきた。そうして話を聞きながら、私に触れたりする。
照れくさいといえばそうなんだけれど、鬼二十が満足気なので黙って受け入れた。好きな相手にそんな風に扱われたら、嬉しいに決まっている。今だって、思い出してドキドキしているくらいだ。
それでも文化祭の件は、あれから否応なく準備期間に入り目まぐるしくなった。
学校に出れば他のことを考える余裕はなく、帰れば鬼二十が全て頭から追い出す。忙しさと恋愛事が一日に詰め込まれて、日付の感覚がめちゃくちゃだった。
その時期を抜けたいま、気が緩むのもきっと仕方ない。
考えてみると、越してきてまだ半年も経っていないのだ。鬼二十と初めて会ったのは、さらに一ヶ月が過ぎた頃だ。
状況に追い立てられたとはいえ、この進展の早さに驚く。今までの私だったら、たとえ一年間好きでも告白したかどうかはあやしい。
同じ部屋で暮らしていると、もう随分長い間一緒にいる気がした。
「あのさ」
この数ヶ月を振り返っている最中に、後ろから呼びかけられる。
最近髪を切ったらしい洋介は、前と少し雰囲気が違う。学ランを着ているせいかもしれない。もう衣替えの移行期間はとっくに過ぎて、登下校では制服を着ないと校則違反になるのだ。夏の頃の髪型に、ジャージ以外の服。印象が違って当たり前だ。
こうしてぼんやり観察できるだけの間をあけて、洋介はやっと続きを口にした。
「鬼二十のこと、どう思ってる?」
「どうって」
私は思わず言葉を繰り返す。
すごくアバウトな上に、突っ込んだ質問だ。何事かと洋介を見ると、なかなか真面目な顔をしていた。
彼は、鬼二十の事を知る唯一の人だ。存在をオープンにして話すことができる相手は彼しかいない。でも今となっては、鬼二十の話をするというのは一部恋愛に関わる。
……これは答えるべきなのか。悩んでもう一度窺うと、洋介は私の答えを待っている。空気に逆らえず、私はのろのろと口を開いた。
「……えーっと。……好き、っていうか、いま付き合ってるみたいな状態」
静かな田舎道は、小さな声すらはっきりと伝える。響いた「好き」が妙に恥ずかしい。
我ながら、はっきり答えろよとは思う。現代の「好きです。付き合ってください」形式をとっていないから、人に伝えづらいのだ。
でもたぶん、私達は恋人関係になったんだと思う。お互いに特別な意味で好きだと確認して、そのうえ色々しておいて、そんなつもりはないとはさすがに言わせない。
「驚いたよね。幽霊と付き合ってるようなものだし」
「……いや、別に。やっぱりなって感じ」
一人で照れている私を呆れたように眺めて、洋介が小さく息を吐いた。いたたまれず、下を向く。予測できましたと言われるのも、結局は恥ずかしかった。
「訊くけど、どこが好きなの」
なんだか取り調べでもするような語気で、洋介はさらに立ち入った質問を続ける。う、とひるみそうになるのを我慢して、横目で隣に来た彼をうかがった。表情から、この妙なテンションの理由は読めない。
洋介は初対面から気さくではあるけれど、代わりにあけすけだ。急に私のことばかり明るみにされて、不公平だと思った。
「それ言わなきゃダメ?」
「じゃあダメ」
少し強気に出るも、つめたく即答されて諦めがついてくる。女の子だけではなく、男の子も案外こういう話が好きみたいだ。もう根掘り葉掘りききたい気分なんだろう。
諦めが恥じらいをすうっと冷ます。それでも残るこの言わされている感覚を、軽いため息で清算した。
「一緒にいて安心するっていうか。全然優しくないのに優しいところとか」
突然訊かれたことなのに、思ったよりも答えは自然に出てきた。それに自分で驚いて、きちんとまとめる前に口をつぐんでしまう。
言葉にしたことがなかっただけで、好きなところは他にもたくさんありそうだ。輪郭のはっきりしない気持ちに、形を与えられた気分だった。
もしかすると、私ほど鬼二十と過ごしていない洋介から見て、長所といったら顔くらいしか浮かばなかったのかもしれない。そう思うと、この呆れたような、責めるような口ぶりも「この面食い!」で説明がつく。
見た目も今では好きだけれど、最初はそれもかえって怖かったような気がする。
きれいな顔をしているのは確かだ。好みに左右される部分も、私は全く問題なかった。だからこそ、見つめてはいけないのに視線を奪われるような、判断力が霞んで言いなりになってしまうような気がしたのだ。
これは惚気とかではなく本当に、知らないうちに化かされるような気がして怖かった。あの瞳が持つ謎の引力も手伝って、良くも悪くもどきどきする。きっと、本能的な反応だ。
私が言った省略しすぎの「好きなところ」へ、洋介がぼそりとツッコミを入れる。
「矛盾……」
「してないんだ、それが」
優しくないけど、たしかに優しい。
自分勝手なようで、私が頷くという過程を抜かない。きっと嫌だと言えば押し切らない。態度は意地悪でも、触れる手はどこまでも優しい。そういうひとだ。
話していると、頭に次々鬼二十のことが浮かぶ。やきもちを焼くときの機嫌の悪そうな顔や、ごく稀に見せる穏やかな笑み、ついでに良からぬことを考えるときのニヤニヤ顔も、ちょっと好きだ。いろいろと思い浮かべては頬がゆるむ。
……やきもち。
はたと気がつく。洋介と喋りながら帰ってきて、私たちは少し前からとっくに家の前に着いていた。
男の子との関わりに対して、鬼二十は本当にとても鼻が利く。それを思い出してぎくりと硬直後、二階の窓を見やった私に、洋介が目聡く気がついた。
「もしかして、他の男と話すなとか言われてる?」
ほとんど図星だったので、一瞬笑顔がひきつった。それでも、洋介の口ぶりが鬼二十を非難するように聞こえて、慌ててフォローにまわる。
「ううん、そこまでじゃ」
「そこまでじゃってことは、それに近いんだ」
ちょっとしたニュアンスまで、火に油を注いでしまった。そんなの普通に生活してたら無理だろ、と洋介が続ける。鬼二十がわがままだと怒っているようだ。
元はといえば、うっかり忘れていた私が悪い。でもなぜ忘れていたか、言い訳をさせてほしい。
この二週間、準備や文化祭で必然的に佐塚くんと一緒にいることも多かったけれど、鬼二十の機嫌はむしろ良かったのだ。思い返すけれど、一言もそれらしいことは言われていない。
鬼二十も私同様浮かれていて、気にならなかったんだろうか。この解釈にはなんだか首を傾げたくなる。
どういっていいのか分からないが、鬼二十の気配がこの場に加わった気がした。
「綾」
振り向いたそばから、鬼二十が私の頭を両側からわしわしと撫でる。ここまで出迎えにきたのは彼なのに、なんだかフリスビーを取ってきた犬の気分になった。
名前を呼ぶ声は穏やかで、やっぱり見たところ特に怒っていない。鬼二十は、後ろの洋介を流し見る。
「こんな所で話していないで、上がったらどうだ」
そして自分の部屋へ招くようなこの口ぶりだ。本当に普段通りみたいで、何よりです。
明らかに、以前私に言い聞かせたことを自分で破っている。どういうつもりかと、私は鬼二十の顔をじっと見つめる。視線に気がついて、鬼二十は「あれはいい」と小声で答えた。
体の向きを前に戻して、洋介を見る。
「どうする?」
鬼二十を眺めてぽかんとしていた彼は、私に話しかけられてはっとした顔をした。彼にしてはめずらしく、えっと、だとか場つなぎの言葉を二言三言つぶやく。一度目が合ったけれど、視線はふいとすぐにそれた。
「いいよ、もう話すことは話したし」
「そっか、じゃあまた明日」
ひらひらと小さく手を振ると、洋介は踵をかえして足早に坂道へ戻っていった。
玄関でいつのまにか姿を消した鬼二十は、部屋に行ったらちゃんと背後についてきていた。
それを確認するのに振り返っただけなのだが、案外近くにいた鬼二十は、私の顔を捉えて口付けようとする。ぎょっとしてほんの少し退きながら、慌てて気になったことを尋ねた。
「なるべく家に男の人呼ぶなって言ったの鬼二十なのに、さっきはなんで良いって言ったの」
家の前でだらだら話を続けてしまったのは私なんだけれど、迎えに来た鬼二十は解散させようとしたわけではなかった。洋介が頷けば、今頃この部屋で話していたかもしれない。
話を逸らされて気分が萎えたのか、いつでも口を塞ぎそうな距離は解消された。
「洋介だったら良いってこと?」
たしか、あいつだったらいいみたいな事を下で言っていた。聞いたままを尋ねたのに、鬼二十は私をじろりと見て目を細める。
「当然、私もその場にいるが」
もちろん、家に上げて二人だけで話すつもりなんかない。なのにわざわざ釘をさす鬼二十を、可愛いなぁと思った。全然気にならないというわけでもないらしい。
二人とも入り口で立ったままだったので、とりあえず机に鞄を置きにいく。
「てっきり、もう私が男の人と話しても気にならなくなったのかと思った」
そうは言ってない、と鬼二十が後ろで呟いて、しばらく静かになる。
空にした鞄を机の横にかけたら、鬼二十は私をひょいと抱えてベッドに腰掛けさせた。さっきよりもむすっとした顔をしているところを見ると、私の言い方が気に入らなかったのかもしれない。
「私は我慢というものが嫌いだ」
「……それ誰でも一緒なんだけど」
「いっそ、私を学校に連れていけと言ってもいいんだぞ」
「お面持ち歩く女子高生とか、何者なの」
鬼二十は座る私と目の高さをあわせて、軽口をかわす。わざとらしい口ぶりではあるけれど、その内容は、いかに自分が譲歩しているかだ。
本当は気になるけど口出しは多少控えます、でも我慢していることを忘れてくれるな。そういう感じだろうか。
冗談の延長で、お互いに軽くにらみ合う。すると鬼二十は離れ際ちょんと軽く、私の唇を奪っていく。
びっくりして口から短く困惑の声が出た。二拍置いて、今度は何故? という疑問をこめたものが出てくる。それまで無表情ぶっていた鬼二十が、にやりと笑った。
「いまどきの娘は、これしきでよく騒ぐ。それとも、お前に限ってか」
不機嫌らしい様子も、まさか陽動作戦だったのか。冷やかすような台詞に口をぐっと結ぶと、はは、と珍しく笑い声まであげた。私をからかうと途端に上機嫌のこのひとは、本当にいじめっ子気質だ。
……でも、そういうところも結構好きなのだから、なお困る。楽しそうにしている鬼二十を見ていると、まぁいいかと思えてしまうのだ。
「今そういう雰囲気じゃなかったでしょ。だから驚いたの」
「お前が照れたほうが面白いから、不意を狙っている」
悔しさ半分、照れ隠し半分、私はつい強い口調で返す。それにそんな即答をして、鬼二十はその場にあぐらをかいた。つまり、今のは狙い通りうまくいったということだ。
私が照れているうちは、こうして海外ドラマ並みの頻度でキスを仕掛けてくるらしい。当然、したくないわけではないけれど、少しは慣れた雰囲気を出せるようになりたいと思った。