焦り(3)
今日は、鬼二十と約束をした日だった。
まだ文化祭の準備期間ではないのに、私たちは数日前から大忙しだ。それは色々とトラブルもあったからで、結果的には早く始めて正解だったけれど。
ともかく自転車・徒歩組は、先生に帰るよう注意されるまで残った。これは私がこの学校に通い始めてから、過去最高に遅い。部活後教室に戻った洋介を、見送ってしまったほどだ。
あまりに下校が遅くなったせいで、家に帰った時にはもう夕飯の時間だった。早く食べなさいと母に言われ、自分の部屋には鞄を置きに戻っただけだ。
私は笑われるほど慌てて食事を済ませる。そこでやっと、まとまった時間を作ることができた。
ふすまを開けると、鬼二十は定位置の一つに腰を下ろしていた。タンスの前、畳へ直に座り片膝を立てている。
さっきだって、姿を見せなかっただけでここにいたに違いない。
「……たくさん待たせて、ごめんね」
それしか言えなかった。
声をかけると彼は一度、私をじっと見つめた。それから少し体の向きを変える。その方向にはベッドと、いつも使うウェットティッシュが置かれている小さなラックがある。
私もご飯を食べたし、鬼二十の空腹も早く満たしてあげよう。着替える時間も惜しんで、私はいそいそとその正面にまわった。
ブレザーを脱いで、シャツの袖を捲くり、縦に軽く拭いていく。初めの頃は真夏で、日焼け止めを取るためにもっと入念にやっていた。それを差し引いても、慣れたものだと思う。
自分の腕を揃えて前に差し出すと、不思議な気持ちになった。
私の目には何も感じられないけれど、これには鬼二十を生かす何らかの力がある。生気だろうとなんだろうと、鬼二十が私を待っていてくれるなら、好きなだけ奪ってくれていい。
さらした両腕には目もくれず、鬼二十は身を乗り出した。急に近づかれたので、角の先端にどきりとして目をつむる。
薄く開けた視界に、赤がかすめたのは分かった。次に唇へ濡れた感触がして、私はくすぐったさに思い切り顔を背ける。
近くにあった気配も距離をとった。驚いて、目を見開く。
「どこ、舐めて……」
そう呟いて、自分の唇に触れる。その箇所はいつも通り、なにも変わらない。
人間や犬が舐めるのと、鬼二十が舌を滑らせるのとではいろいろと異なる。その最中の感触はともかく、舐められても水気が残るようなことは一切ない。だから、いま鬼二十がそこを舐めたのかどうか、触っても分かるわけではなかった。
目の前の人は、困惑する私を見ても面白がる様子がない。前に私を真っ赤にさせたときは、それはもうニヤニヤしていたのだから、何かしたならもう少し反応があっても良さそうだ。
わけもわからず呆けていると、鬼二十は静かに尋ねてくる。
「どうした、何か文句があるか」
「えっ、文句っていうか、今の何」
今まで、唇には触られたこともない。いくら鬼二十でも、唇になにか特別な意味があることくらい知っているだろう。
彼があまりに何事もなかった顔をするので、感触すら私の気のせいだったのかと疑った。一瞬の事だったし目をつむっていたし、どんどん自分の感覚が信じられなくなる。
悶々と考えている間にも、鬼二十は私の隣に手をついて、上半身ごと迫ってきた。今の何、という質問はスルーされてしまったらしい。
無言で近づいてくるその顔に身構える。すると彼は、傾げて私の左頬を舐めた。ちろちろと二度三度、生暖かい気配がくすぐる。
……私はもちろん驚いたけれど、鬼二十がふざけているようには思えず、それを許す。これも一応、食事の範疇だ。
先日抱きしめられたときの様子といい、鬼二十はどこか不安定なときに、いつもと違うことをする。そういう気分なのかは知らないが、これではペットみたいだ。
走り始めた心臓から気を逸らせようと、そんなことを考えた。
頬がとてもくすぐったいのを我慢していると、その反対側の頭に、するりと鬼二十の手指が差し入れられる。肩を揺らした私をなだめるように撫でた後、指が髪を耳にかけた。
一度顔を離して私に視線をくれながら、さっきの手で反対の頬を向かされる。ドキドキしすぎて、息なんて止まりそうだった。
鬼二十が顔を潜り込ませる。案の定、次には耳のふちを舌が撫でた。
恥ずかしくてくすぐったくて、体が勝手に逃げる。鬼二十はそれをやんわりと追いかけてくるように、私の顔周りを舐めるのをやめなかった。
微かな抗議を込めて小さく唸ってみても、全然気にしていない。
次第に触れ方が変わって、食事とは明らかに違う空気を含みはじめる。逃げる分だけ追われるせいか、じりじりと侵食されるようだった。
――唇が首筋に近付くのが見えて、私は慌てて鬼二十の肩を押す。
「やりすぎ」
言い終えて吐いた息が熱かった。
鬼二十は、文字にして一瞬、きょとんとした顔になる。こちらも拍子抜けしたのも束の間、すぐに彼は、ゆっくりと口の端を上げた。
彼らしい表情と言えばそれまでだ。でもなぜだか、胸を高鳴らせている場合じゃないと思った。
今まで少しずつ迫ってきていた分はなんだったのか、鬼二十はすんなり懐に入ってきた。私はのけ反って、背中がベッドに当たる。
これ以上後ろにはいけない。それに気付いて動揺した私を見て、鬼二十はとても機嫌が良さそうだった。
観念する余裕もない。
鬼二十の手が私へ伸びてきて、親指が頬を撫で、流れて耳をつまむ。さっき舌が触れた場所を、思い出させる。
彼が上体を起こすと、ほぼ転がされかけている私からは随分離れたように見えた。脚を動かそうとして初めて、膝のあたりで跨がられていると気付く。いつの間にか、かなり問題のある体勢になっていた。
鬼二十は笑みを浮かべたまま、私を見下ろしてゆっくりと言い聞かせる。
「この程度で、やりすぎか。綾、お前十七だろう。私の生まれた頃なら、とうに夫がいて、子の一人いてもおかしくないぞ」
言いながら視線が下りて、温かい掌がお腹に置かれる。不意のことに体を強張らせると、手は制服の上からぐるりとそこを撫でた。
「子って」
本当に、一体何を言うのか。その言葉のせいで、お腹をさすられた程度のことがすごく意味深に感じられる。顔がカッと熱くなり、火でもつきそうだった。
その顔を見られたくないやら、いよいよからかわれている気になったのやら、自分でもはっきりしないけれど、両手足に力を込める。今にもとにかく暴れてしまいそうな私を、鬼二十は微笑んでから黙らせた。
舌ではなく、唇が重ねられた。
軽い動作で上体ごと近づいたのだと思う。気がついたときには、ちゅ、と小さな音を残して離れたところだった。
まだ数センチ目の前に鬼二十の顔が、唇があって、私のそれに触れたんだと当たり前にわかる。それって要はキスで、今それをしてきたのは鬼二十で……考えても、拾う端から落とすようで形にならなかった。
ほんの少し退いた鬼二十が、口の動きだけで私の名を呼ぶ。
固まっていた思考も体の機能も、一斉に呼び戻された。一度おさまりかけた赤面はぶりかえすし、何かを言いたい口がぱくぱくと動いて、動揺で手が震えだす。
私は完全にキャパシティオーバーでつらいというのに、鬼二十は私が慌てている方が楽しそうだ。
ふっと笑ってから、もう一度近付く気配がする。
「あの、待って、きはっ……」
時間稼ぎのつもりで話そうとした言葉は、鬼二十に唇ごと食まれた。
両頬に添えられた手が、ときどき輪郭を撫ぜたりして私の注意をひく。何度目かの押し当てるキスの後、ぺろりと境目を舐めた舌が隙間にすべり込んだ。
口を閉じるわけにもいかなくなり、かといって舌同士が触れるこそばゆい感触も堪えがたい。気をとられて留守になっていた呼吸をすると、意味をなさない声がもれて泣きそうになる。
頭を多少よじっても、上手く合わせられて休憩にもならない。端から見たら、合意で楽しんでいるようにしか見えないのだろうなと薄ぼんやり思った。
「中々だ」
唇を離して、鬼二十が満足そうに呟く。
今のも生気を食べられていたらしい。普段の食事が終わった後のように、くたりと体が重くなった。
話す間ももたせずに口付けるこのやり口は強引だけれど、別に私はどこも押さえつけられていなかった。強いて言うなら背がベッドの縁に行き当たっているが、触れる手や唇は離れないのに優しい。
私が強く押しさえすれば、中断させることは出来るのだ。その私の手を封じるのは、鬼二十の手ではなく眼差しだった。
この矢継ぎ早なわけの分からない状況が怖くなって、私は一度肩を押した。普段より自分の呼吸が少し荒い。
鬼二十は自分の肩を振り返り、触れる私の手をじっと見つめる。それから私と視線を合わせて、あの力強い瞳で許しを待つ。
結局私は手をおさめ、あらためて頬から始まる次のキスを受け入れていた。
押さえつけたりしないって、約束して。
私が前にそう言ったから、手も取らず、圧し掛かりもせず、頭ごと掻き抱くようなこともしない。器用なものだ。
こんな場合にまで約束を守るなんて、かえってずるいと思ってしまった。あくまで全て、私が許して行われていることになるのだから。
私にとって、舌を入れられるようなものはもちろん、軽いキスすら今日のこれが初めてのことだった。なのにここまでされて少しも不快に感じないのは、私が鬼二十の舌に慣れすぎているからかもしれない。もしくは、恋心の類で頭が痺れてしまっているんだろう。
合間に鬼二十の名を呼ぶと、空気が甘くなるような気がした。彼が口付ける熱が高くなるようで、胸が熱くなった。
よくわからないけど、幸せかもしれない。全身温かいせいか、ふわふわした気分になってくる。
ぼうっとしていたところへ、スカートの裾から手が這わされた。それが太ももの内側を撫でる感覚に体が跳ねる。
大変なことを思い出して、熱くなっていた顔へ一気に冷たい血が流れた。
このまま鬼二十が何をしようとしているか、分からないほど子供ではない。そもそもの私たちの関係の、前提条件を覆すようなことじゃないか。
鬼二十の腕をつかんで制止すると、彼のほうも不思議そうに私の顔を見た。この雰囲気で、いまさら止められるとは思っていなかったのだろう。でも、元はといえばこれを言い出したのは鬼二十なのだ。
「私が、き……生娘だから食事にするって言ったの、鬼二十じゃない」
生娘の肌の表面に流れる生気。それが美味いだとか言って、私が男の子に近付くのを嫌がっていたはずだ。じゃあ鬼二十にとっての私の価値は、生娘だからこそあるものではないのだろうか。
さっきまでとは違う、別のニュアンスで心臓がどきどきした。なのに鬼二十は、しれっとその問いに答える。
「お前がその辺の有象無象相手にその役を降りるのかと考えたら、腹立たしくて敵わん。だったら私が自分の手でそうした方が、まだ収まりがつくというものだ」
「なにそれ……」
それが嫉妬を意味するのか、単なる所有欲なのか、私にはわからなかった。
言いたかったことはそれだけかとばかり、鬼二十はまた顔の周りに口付ける。今度はそのまま首筋にも唇がおりて、私をふるわせた。
触る手つきは丁寧で、本当なら私だって嬉しいはずだった。でも、せっかく鬼二十にとって必要な存在でいられる理由を、彼自身に砕かれるのはやるせない。
鬼二十はシャツの隙間から、胸元へキスを落とす。その頭をそっと抱えて、それ以上進むのを引き留めた。
顔をあげて、彼は少し目を細める。言葉を待ってくれることに内心ほっとして、次にどう言ったら伝わるのかと思考を総動員した。
「私は今のままでいたい……。鬼二十はまた、馬鹿とかあほとか、言うんだろうけど……」
泣くつもりはなかったけれど、口から出た声はやや涙声だった。
「鬼二十が好き、だから誰にも処女はあげないって約束する……。生気は、私から食べてよ」
価値観がヒトと違うかもしれない相手への、私の精一杯の告白だ。
絶対に裏切らないと約束するから、私から鬼二十にとっての価値を奪わないでほしい。そんなお願いだった。
人間の、食事の対象の女に好きと言われて、鬼二十は何を思うだろう。想像するのが、すこし怖い。
胸元から顔をあげた体勢のままだった鬼二十は、ややあって身を起こす。そして、真面目な顔でぽつりと呟いた。
「馬鹿と言う気はなかったが、少し馬鹿だと思ってしまった」
聞こえた言葉に、思わず体を揺らす。もし想いを笑うような言葉を言われたら、さすがに傷つきそうだ。
しかし鬼二十は台詞を続ける前に、少し上へ這い上がって、ますます覆いかぶさる体勢になった。私は、ごくりと唾を飲む。
鬼二十は私の両頬へ手を添えて、真上から覗き込んだ。
彼の長い髪が垂れ、私の顔周りを囲んで、閉じ込められた気持ちになる。赤みがかった狭い世界で、私の鼓動がばくばくと耳についた。やっと、鬼二十の口が開かれる。
「お前を余所へやりたくないと言っている。それを何故、私から離れると考えた」
その声音と表情は……驚くほど優しげだった。
この人はこんな顔ができたのかと、驚きのあまり何も言えない。その間にも鬼二十は、いやらしさのない、猫がするような調子で私の頬を軽く舐めた。
言われた言葉は、捻くれた普段の言い回しを思えば、随分ストレートなものだった。鬼二十は私の傍を離れるつもりがないと、そう言ってくれたのだ。
つまりこれは両想いなんだと思っても、良いんじゃないだろうか。
浮き立っている私に、鬼二十はもう一つ飴を落とした。
「愛しく思っているぞ」
その先鬼二十はほとんど喋らず、私の身体中を慈しんだ。触れられていない、唇の降りていない場所の方が少ないくらいに。
諦めろと言いながら、それでも全てを奪うことはしなかった。