焦り(2)
綾が見聞きしない話は、今後も綾視点ではなくなります。
家の外から自身へ意識を向ける存在に気がつき、鬼二十は薄く目を開いた。
確認するまでもなく、それが綾でないことは感じている。そうとなると、綾以外にこの妖怪を訪ねる者は一人だ。
大部分では億劫に思っているのに、鬼二十はなぜだか苛立ち窓辺に立った。
坂道から、自転車を引く洋介が強い眼差しを向けている。光の加減で室内が見えていなかったらしい。凝らすようにしてようやく、窓越しに見下ろす鬼二十と目を合わせた。
話がある。口をその形に動かすのを認め、鬼二十は眉をひそめて、外にひらりと降り立った。
「すごいな、人の心でも読めるのか。本当に気付くと思わなかった」
洋介の感心するような台詞も、口調がやけに落ち着いていて褒めそやすようには聞こえない。鬼二十は何も言わずに洋介の正面に立つ。
やがて、どちらともなく脇の砂利道へ入っていった。二人とも人目を避けた方がいいのは承知だ。使われていないだろう廃屋の裏で、二人は再び向かい合う。
「あいつ今日、予定より遅くなるってさ。最近そういう日が多かっただろうけど、今日は特にだって」
呼び出した側、洋介が先に口を開いた。
しかし鬼二十はその報告に意味を感じなかった。それを聞かされたところで、綾の帰宅時間が早くなる訳ではない。家で待っていても同じことである。
「わざわざその言伝にきたのか」
不機嫌を隠さず、かつひどく静かに鬼二十が呟いた。
洋介はすぐに首を横に振る。
「伝言を頼まれたわけじゃない。たまたま今日も、部活帰りに会って話しただけ」
たしかに今日は、部活体験をしていた頃よりも綾の帰りが遅かった。走り回るのと違い疲れきっていることはないが、近頃は薄暗くなる頃にようやく帰るのだ。
「いつ見たって、なんていうか急いでる。この間聞いたけど……お前を待たせてるって、気にしてるんだ」
自身が見ていない所で、綾が鬼二十を気にかけている。本来なら鬼二十をいい気分にさせただろう情報も、洋介を介したことで煽りにしかならなかった。
一日の大半、鬼二十が綾と離れている間、洋介は目の届く場所にいる。綾が洋介を部屋に連れてきた際、鬼二十は遠まわしにそれを追及していた。
学校で、これは何をしている。その質問と一緒に、けして逸らさない視線を送り、暗に「お前は知っているんだろう」と決め付けてみせた。
本当に綾の学校生活のエピソードを聞かされたとしたら、鬼二十は内容から洋介との距離を推し量るつもりでいた。あまりに綾と近いようなら、洋介は充分警戒の対象になる男だ。
鬼二十は初対面のときから、洋介が綾に向ける微かな好意を嗅ぎとっている。自分のいない所で日々言い寄られたら、綾の気持ちを動かしかねないと考えていた。
しかし洋介は鬼二十の警戒を感じ取り、綾との接点は少ないことを伝えた。
それはある意味で「自分にそんなつもりはない」と舞台から降りるようなものだった。最初に会ったときより色濃く好意を持っておきながら、これまで陰で出し抜くことはしなかったらしい。鬼二十はそこに好感を持って、自分の気持ちに疎いこの青年を放っておくことにしていた。
だが、洋介がいま彼を訪ねたのはタイミングとして完全に失敗である。元々不機嫌だったところに、綾を理由に男が訪ねてきたのだ。
日中は何もできず、帰りを待つしかないというだけでも、鬼二十は充分鬱屈した気分だった。それでも受け入れていたのは、綾が自分のために色々と心配りをしているのが分かるからだ。
鬼二十は、漠然と感情を知ることができた。思考が読めるというわけではなく、喜びや悲しみ、不安などの心の動きに限る。
その才で、綾が鬼二十を想っていることを、事実として知っていた。
綾が優先するのは自分だと思えばこそ、学校で異性と多少関わるくらい見過ごすことができた。
ところが、鬼二十が明言されていない綾の思いを、洋介は聞いている。
会話の中で「恐らく綾はこういうつもりだ」と推察するのと、綾本人の口から語られるのと、例えばどちらがより信頼されているのか――
くだらない考えだと思いながら、見せ付けられているようで鬼二十は苛立ちがつのる。
鬼二十が何も言わず、表情もとくに変えないため、洋介はそれに気がつかない。洋介はただ、綾を気にかけていた。
「お前もあいつが努力してるの分かってやって。早く帰れって急かしたり、待ちくたびれてイライラしたりとか、しないように意識してほしい」
理解者じみた洋介の口ぶりは、ますます鬼二十を逆撫でした。
つい鼻で笑った鬼二十に、洋介はムッとして少し語気を強くする。
「……部活だって、綾は楽しそうにあちこち見て回ってたのに、突然入部やめるって言い出した。お前の影響なんじゃないか? あいつにも、自分の生活があるのに」
語る内容はどれもこれも、鬼二十にも分かっていることばかりだった。
綾に鬼二十を優先する義務はない。そのうえで努力している綾を責めるような態度は、するものではない。鬼二十がそうして抑えてもにじむ焦燥が、綾にも焦りを植えつけた。
自覚していたことを他者に触れられ、鬼二十の態度に棘が混じる。
「綾が決めたことだ。部活より私を選んだ。……なぜ、お前が口を出す」
言葉に詰まった洋介を見て、鬼二十は頭の隅が冷えるのを感じた。
洋介は、自分が綾にとっての何なのか、それをはっきり言えないでいるのだ。ここまで踏み込んでいながら、まだ自分の感情を認めていない。鬼二十はそこに付け込んで、追い討ちをかけた。
「なぜ綾に直接言わない」
鬼二十の言いなりになる必要はないのではないか。そう訴えかけるなら、相手は綾本人のはずだ。無意識にそれを避けていた自分に気がつき、洋介は視線を落とした。
「……そうだな。最後のは余計だった」
洋介を帰らせて、鬼二十は綾の部屋に戻る。少し意地の悪い言い方をしたと鬼二十自身思っていた。
そもそも綾は、鬼二十をいつまでも安心させない娘だった。
警戒が解かれ、好意を感じとったからこそ、鬼二十は食事の話を持ち掛けようとした。それが途端に逃げられ、無理があったかと思えば傍にいろと言う。
理由はどうあれ、食事の約束は交わされた。これで存在を保つのに心配はいらない。しかし綾は学校に通い始め、鬼二十を傍に置く理由をなくしてしまった。
約束だから守ると意気込む様子は、鬼二十のことが眼中に無いように感じられた。
少しは意識すればいいと、鬼二十は軽くちょっかいをかける。すると綾の反応は予想以上のもので、畳み掛ければ簡単に手中に落ちた。
当初の予定通り、娘を自分に惚れさせて食事の関係を結べば、鬼二十の暮らしは安泰のはずである。ところが、綾が協力的でも今度はその周囲が気にかかった。
対象の娘がまとう気の流れは、注目する分特に子細が分かる。なかでも、男が綾に寄せる関心や好意に鬼二十は敏感だった。
せっかくの上質な生気を汚されるようで、もしくは未来、実際に汚されるようで、それが焦りを生む。注意を促し、綾の心をひきつけようと鬼二十は意図的に彼女に触れた。
しかし、綾がその男に興味を持っているならまだしも、そうではない。既に心が鬼二十に寄っているなら、塗り替えることに意味はないのだ。
綾を抱き込んだ時には、鬼二十はそのことに薄々気がついていた。
そうなると、家で待つ鬼二十に出来ることは何もない。ただ綾に任せて、他の男にはなびかないと信じるのみだ。
想われていると知っているのに、何を不安に思うのかと鬼二十は自分が分からなかった。綾の気持ちがよそへ傾きかけたら、その時に引き戻せば良いだけのことだ。鬼二十には、それが出来るはずだった。
その場面を想像すると、鬼二十の表情は険しくなる。
たとえ一時でも、綾が他の男に心惹かれるのは、面白くない。更に言えば綾が惹かれなくとも、好意を浴びて帰ってくるだけで鬼二十は不愉快だった。
いつの間にか、鬼二十の執着の対象は「娘」から「綾」にすり替わっていた。
ふと鬼二十は自分を客観視する。
当初は綾と誰かが恋仲になり、生気提供の役割を捨てることを危惧したはずだ。それが今は、余計なものを一掃して囲い込みたいと思うことがある。
綾に抱く感情が特別なのだと理解して、鬼二十は微かに笑いを漏らした。
そうと分かってしまえば、思い悩む理由はなくなった。惚れた相手を独占したがるなど、はるか昔からありふれた話だ。
他人に取られるのが嫌ならば、先に得ればいい。事がなんともシンプルに落ちつき、鬼二十は気持ちに余裕を取り戻し始めた。
自分を慕う娘に手を伸ばしたところで、何も問題はないだろうと。