待たせている人(1)
久しぶりに帰宅が夕方になってしまった今日、私は気持ち力をこめて自転車を走らせる。
一応、待っているかもしれない人が家にいるのだ。遅くなるとは言わなかったので、下手をすると機嫌を損ねる。
どうしたものか、私は一緒に暮らしている人……ではないものを好きになってしまった。
一つ屋根の下でどうしよう、なんて言う前に、妖怪なんだけどどうしよう。恋愛経験もろくに無いのに、相手が人間じゃない場合なんて前例を聞いたこともない。あえて挙げるなら、おとぎ話くらいだ。
妖怪がどうとかを抜きに見れば、私の立場はなんて安定しているんだろう、と我ながら思う。
鬼二十に食事を提供する立場で、かつ他の人にあまり姿を見せないように言ってあるのだ。無理に頑張らなくても、現状維持するだけで充分傍にいられる。
ちょっと卑怯だと思わなくもないけれど、この状況を作った頃の私はまだ鬼二十を好きだった訳ではない。彼を独占されて泣くライバルもいないのだから、許してほしいところだ。
ちなみに部活へ入るのをやめたことは報告済みだ。それを理由に、食事は以前のサイクルに戻してもらった。
普通、関わる機会は多いほど嬉しいものなのかもしれない。でも私たちの場合は、そんな風に可愛く形容していられないだろう。
鬼二十にとって、あれはある種の不機嫌の表現だったのだ。元の平和な過ごし方の方が、お互いに良いはずだ。私はとにかくそう主張する。
坂も急ぎがちに上って、家に着くまでの最後の数分でどっと疲れた。部屋を開けるなり大きく一息ついて、小さくただいまと呟く。誰もいない部屋の中を横切っていくと、途中でタンスに寄りかかる姿が現れた。
「部活はやめたと言っていたが、今日は寄り道でもしたか」
私を見ておかえりと言うでもなく、鬼二十は開口一番に責めるような声を出す。
早く会いたかったような気がしていたけれど、勘違いだったかもしれない。そう思うくらい、急いだ帰路の疲れが増した気がした。
嫌味を言ったというより、本当に質問をしているようだ。小さくため息をついてから、それに答える。
「委員会だよ……」
実は初登校のあの日に、私は文化祭委員をやることになっていた。
文化祭委員と聞いて、私は編入したばかりだから向かないんじゃないかと先生に伝えた。けれど説明を聞くと、前の学校とは文化祭委員の仕事が違うらしい。
クラスから意見を集めたり、皆をまとめるような仕事はクラスの文化祭係がするもの。委員は、決まった内容を他学年・クラスの委員と話し合い、数や予算の調整をする雑用だった。
どのクラスが暗幕を借りるか、お化け屋敷は二クラスまで。飲食店の衛生管理指導を受けたりと、面倒で地味なことばかりだ。
日奈ちゃんと話すようになってすぐに言われたのは、委員のことだった。「綾ちゃん、森先生にやられたね」そう言う彼女いわく、皆一年目でそれが名前より華のないものだと知っているのだそうだ。
学校に慣れるためぜひやってほしいと先生に言われた私と、誰もやらないから仕方なく、といった様子で手をあげたクラスの男子生徒。名前をたしか佐塚君といった。
文化祭準備の一ヶ月前に入って、今日初めて委員会があった。
新しい単語を聞かされ、鬼二十は不愉快そうに眉をひそめる。つい最近、現代高校生の時間を拘束する「学校」「部活」というものを教えたばかりなのだ。
畳にぺしゃんと座っていた私の視界に、影がかかる。目の前にいた鬼二十が膝をついて、上から威圧するように私の顔を覗いた。
「それは、やめられないのか」
……この人絶対に、顔近付けたら私が言うこと聞くと思ってる。
そう思わせてしまったのは、今までの私の態度が理由だろう。実際すごく焦るから、早く状況打開しようと頷いてしまいがちだ。
しかし、何でも思い通りになると思われては困る。委員会は、私の都合だけでやめるようなものではない。
ただ頭は先日の煽りをうけて、このわがままな要望を「早く帰ってきてほしい」と訳してしまうのだから救えない。ちょっとドキドキしてしまったところに、温度の無い手が私の顔を軽く上向かせる。堪えていたのに、そのせいでまた平静を乱された。
「や、やめられない! でも毎日じゃないし、部活よりは早く帰れるよ」
私は思いきりうつむいて顔を背け、鬼二十を視界から外した。なんとか言い切ると、前にいる気配は一瞬遅れて吹き出すように笑い、肩を震わせる。
顔を上げてみると、今度は鬼二十の方がうつむいていた。無表情、かと思いきや、目元に笑ったであろう名残が読み取れる。
「なんで笑うの」
からかわれたのだと思って、私は拗ねるような声をあげた。鬼二十はこちらを横目に見て、ばれたのなら隠さなくていいかとばかり口の端を上げる。それなのに口では「いや」と笑ったことを否定して、私の顔をじろじろと眺めた。
なにかもう一言「はっきり言えばいいでしょ」とでも言おうとした時、控えめなノックの音がふすまを鳴らした。
私は久しぶりに、別の意味でどきりとした。
母か祖母だ。鬼二十と話していて、階段を上がる音に気がつかなかった。
私は慌てて携帯をつかんで、開いて耳にあてる。鬼二十もいつの間にか、姿が見えなくなっていた。
しらじらしく架空の電話相手に相槌をうつふりをしていると、ふすまが開かれる。顔をのぞかせたのは母だった。「あっ、ちょっとごめんね」なんて通話を切る真似までしてから、私は母の方へ向き直る。
「どうしたの? 電話してたんだけど、うるさかったかな」
慣れない嘘をつくのは緊張する。返事が返ってくる前に自分が言った台詞を頭で復唱すると、あまりの大根役者ぶりに冷や汗をかきそうだ。
黙ってこちらを見ていた母は、かたい表情を少しずつ和らげて首を横に振った。
「ううん……。綾、越してきてから部屋で随分静かにしてるから気になって」
その返事は、私にはいまいち納得できないものだった。
もちろん、今までも部屋に人が近づく気配がしたら、鬼二十には姿を消してもらっていた。でも正直に言って、それ以外のときは結構声を出してしまっている。鬼二十は悪ふざけをして私を驚かせるし、もう話し声に関しては多少開き直っていたのだ。
今回のように電話をしていたとか、鼻歌を歌っていたとか、言いようはあると思っていた。特別うるさくしたわけではないけれど、そんな心配をされるほど静かではなかったはずだ。
「……そうかな? 私、静か?」
どう反応していいか分からないものの、その態度がかえって無自覚に見えたのかもしれない。母は首を傾げながら、少しだけ笑んでみせた。
「この家古いけど、案外音って響かないものなのかしらね」
それだけ言って満足したのか、母は一階に戻っていった。下で台所の引き戸がゴトゴトと引かれるのを聞き届けてから、私は後ろを振り返る。さっきいたのと同じ場所で、鬼二十は胡坐をかいていた。
「普通に、下の音よく聞こえるんだけどな」
「そういうものだ」
私のこぼした疑問に答えるようで実際は不親切な返しをして、鬼二十はベッドに寄りかかる。まるで分からないことを表情で訴えると、呆れたような顔をされた。
鬼二十と話していると、自分が無知みたいに思えてくる。でも実際、普通に生きている人はこんな事知らなくてもおかしくないはずだ。
不満そうにする私を一瞥して、鬼二十は静かに呟く。
「お前に縁が無かったのか、この時代にはあやかしの類が起こらないのか」
その言い方が独り言みたいで、私は何を言っていいか分からずに鬼二十を見つめた。私の視線をどう解釈したのか、彼は少し身を乗り出して、楽しげに口を開く。
「私が人のような姿をとって、こうして目に映るここが現し世だと思うか」
にやにやと笑う彼と対面していると、空気が微かに張り詰めた。気まずいくらいに部屋は静かで、私は黙って唾を飲み込む。
どういう意味か尋ねると、鬼二十はわざとらしく小首を傾げ「さあなぁ」とはぐらかした。