いまさら(3)
宣言通りに、鬼二十は毎日私の帰りを待って、すぐに食事を要求してきた。
腕以外を勝手に舐められるだとか、最初に身構えたことは起こらなかった。
一回に摂る生気の量を抑えるというのも恐らく本当だ。毎日生気をあげても、やや怠い程度で翌日も寝坊はしない。
なのに、気持ちの上では全く休まる気がしなかった。
この前はふすまの陰で立っていて、私は肩を叩かれて飛び上がった。小さくあげた悲鳴を鬼二十は可笑しそうに笑って、揃えた二本の指で私の腕をとんとん叩く。それから目の高さを合わせて、簡潔に用件を告げた。
即承諾するまでが当然かのような態度だ。私はとにかく早く終わらせようと焦って、それに応える。
今日も帰宅早々、心臓に悪いやり取りがあるんだろう。最後には大きなため息をついた。
クラスの女子に声をかけられる。私が事前に約束をしていた、卓球部の子だった。
まだ放課後になったばかりで、今から部活があるのだ。
鬼二十の機嫌が良いのを、私が気にしすぎるのだろうか。
以前との違いを探すなら、それくらいしかない。手順はごく普通の食事ですら、今は私から平常心を奪った。
そもそも、鬼二十の姿を見つけたり、必要以上に近寄られると怯む。ほんの少しでも間があればまだマシなのに、鬼二十は不意に現れて、心の準備をさせてくれない。
これは先週の悪戯以来続いている。あれをきっかけに、改めて何をするかわからない人だと思ってしまった。
しかし、さすがに週末は例外だと思っていた。
私が部活体験で疲れているから、毎日少しずつ食事をすると鬼二十は言ったのだ。翌日が休みなら、そうする必要はないと思う。
それを伝えたのに、あの人は融通をきかせなかった。
私の腕を軽くすくって「約束だろう」と唇を寄せる。視線を流してくる。
そういう怪しげな雰囲気はもう充分だと、私は腕を取り返しつつ、軽く睨みをきかせた。
「何か、他に企んでるんじゃないの」
ずっと胸中にあった疑問をぶつけたが、鬼二十は動揺しない。薄く笑って、逆に尋ねてくるのだ。
「……何があると思う」
目的が嘘だとして、毎日食事をしようとする理由。あまり理屈の通った考えが浮かばなかったばかりか、自意識過剰みたいな想像がよぎる。鬼二十の笑みがそれを揶揄するようで、私はまた恥ずかしくなってしまった。
以来、追及できないままだ。
距離感が極端すぎると思う。会話もしない日があったかと思えば、今度は腕を舐めさせる毎日だ。
鬼二十の食事というのは、今更ながら、あらゆる点でいかがわしい。ずっと麻痺していただけで、客観的に見ると物凄いシチュエーションだ。
人間ではない存在が、女の子の肌に舌を這わせる。される側が自分で用意までして、大人しく終わるのを待つ。最初は確かに、そんな事を日常にするのはおかしいと思った。
妖怪が生き物かどうかも分からないけれど、その感触は間違いなく私の身に伝わる。こうも連日食事があっては、忘れることの方が難しい。
突然、ひやりとした手が私の腕を引く。
大げさなほど肩を揺らして、私は周囲を見渡した。体育館の一角で、自分はジャージを着て、手には何か持っている。卓球のラケットだ。
「待って待って、綾ちゃんストップ!」
ぼーっとしてた? と首を傾げるのは、同じクラスの子だ。その手が、私の腕を掴んで引きとめていた。
一人だけタイムスリップしてしまったような心地でいたが、落ち着いてみればうっすらと途中の記憶がある。そんなにあやふやだということは、傍目に見ても身が入っていなかったんじゃないだろうか。
咄嗟に謝ると、彼女は小さく首を振った。それから時計を指差す。部活の時間は、ほとんど終わったようなものだった。
「今日、っていうか最近、綾ちゃん疲れてるよね? さっきも平気って言ってたけど、ちゃんと休んだ方が早く治るよ。今日は片付けいいから、って言ったの」
周りに疲れていると思われていたのは気がつかなかった。自分ではそうは思わないけれど、平気と答えた記憶も無いようでは似たようなものだ。
もう一度謝って、今日は先に上がらせてもらうことにした。
体育館の外へ出てすぐに、後ろから名前を呼ばれる。
振り向くと、男子更衣室の方から洋介が笑顔を振り撒いていた。部活後だからか、朝に会うよりテンションが高い。
「久しぶり……一週間振り? 俺も今帰るから、ちょっと待ってて」
そう言って更衣室に入っていったと思ったら、何秒もしないうちに鞄を背負って戻ってきた。ジャージのままで帰るようだ。
間近で見ると、本当に機嫌が良いらしい。彼本来の爽やかさに磨きがかかっていた。
「今日は体育館? 帰りの時間合ったな」
にこにこと話す洋介の顔の位置は、鬼二十より少し高い。見上げると、一緒に登校していた頃が随分前のように思えた。
洋介と部活について話しながら、私はまた他の事に思考が流れるのを感じる。
今日もまた、帰宅の時間になってしまった。帰ればこの数日変わらない、同じ状況に身を置くことになる。
恐らく嫌なのではない。ただ、もやもやするのだ。
不透明なのは鬼二十の思惑だけではない。何より、自分の考えていることが分からなかった。
鬼二十がどういうつもりかなんて、知るには本人に言わせるしかない。それに、単にからかわれているだけの可能性もかなり高い。
意味を求めるのは私だけで、実際は存在しないかもしれない。知れもしない。そんなことを延々と考えるのは既にやめた。
一緒に暮らして、何か思うところあっても結局不思議なほど受け入れる。……私たちの関係って、つまり何なのだろう。
今まで私が餌だからと割り切ってきたけれど、それは鬼二十から見た話だ。じゃあ私から見たら、何なのか。なぜ私は餌になるのか。
近頃はそのもやもやを強く自覚するのに、急かされて整理できないまま日々が過ぎていた。
気がつくともう私や洋介の家に続く、坂道に差し掛かっていた。
何日か前に、あと少しで稲が全て黄色に染まると思ったのを思い出す。それを見ようと坂から視線を下ろすと、稲はいつの間にかすっかり刈り取られて、乾いた茶がのぞいていた。
帰宅時の夕陽が日に日に色濃くなる。元々茶けた古い室内は、とても懐かしい景色になった。
鬼二十は、瞬きする間に部屋へ現れた。驚かされてばかりだったので、これくらいなら慣れてしまった。
この頃むすっとした顔をしなくなった鬼二十は、何も考えなければ優しげな声色で私に語りかける。
「帰ったか。荷物は置いて、そこへ座れ」
そこというのは畳で、ベッドのすぐ脇だ。待ち受けているのは鬼二十なのに、私を部屋の奥側に座らせる。鞄の整理を後回しにさせるのも、最近は日常だ。
落ち着く間もなくウェットティッシュのケースを渡されて、逃げ場は無い。この展開の早さが、また胸を騒がせる。
時間稼ぎのつもりで、私は腕を拭き終わっても、すぐには差し出さなかった。
「あの、鬼二十」
「なんだ」
珍しく聞く態勢になった鬼二十を見て、ほんの少し安堵する。以前もよくしたような、たわい無い雑談をひねり出す。
「今日ね、帰り洋介に偶然会って、それで一緒に……」
私をじっと見つめていたのに、鬼二十はそこまで聞くとふっと笑んで俯いた。次の瞬間には、頬が触れそうなほど顔を近づける。
というか、角が私の額にこつんと触れた。鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤だと分かる。
「どうでもよい」
ゆっくりそう言って、既に支度が終わっていた腕を勝手に持ち上げる。表になっていた手首に軽く口付けられて、驚いているうちに舌が触れた。
身震いが腕まで伝わって、腕を支える鬼二十の手を僅かに揺らした。恥ずかしくて口を結んだ私を意地悪く笑って、そこをもう一度舐める。
「随分と震えているな。今更怖いか」
からかっているのか脅かしているのか、鬼二十は私に囁く。
当然、怖いとは思っていない。ただくすぐったかっただけなのだが、否定したらそれを言う羽目になるだろう。私は黙って黒目を見つめ返した。それを受けて鬼二十は目を細め、食事を再開する。
これは日課にすることじゃないとつくづく思う。心理的なやり取りで気疲れしていると言っても、きっと過言ではない。
ふと近づいた鬼二十の髪から、木みたいな匂いがした。本人のイメージより穏やかだが、考えてみればこの人は木彫りの面なのだ。
しばらく見ていない例の面を思い出して、ついでに腕の感触から意識を逸らす。……なんて考えた段階で、気がそちらに向いてしまっているんだろう。
私は頃合いを見て「そろそろ足りたんじゃない」と、口を挟んだ。今日も充分に恥ずかしい思いをさせられたので、私にしてみれば一区切りついたも同然だ。
鬼二十が反応を返さなかったので、その髪を少し引っ張ってやる。そこまでされて、やっと鬼二十はじろりとこちらを見た。
「お前がいない間、一日中退屈だ。食事くらいは満足にさせろ」
その、とても横柄な物言いに、なぜだか私は動けなくなってしまう。
じわじわと体温が上がるような気までして、慌ててその理由を探した。
今この人は、私がいない間のことを「退屈」だと言った。
ずっと蔵にいたのだから、ただ部屋にいるのを退屈だとは感じないと思っていた。それに、それに私が何か話しても「くだらない」とでも言いそうな顔をする。うるさいのが嫌いみたいだし、挨拶は返してくれないし、用が無ければ話しかけてもこない。
だから私には大した関心もなくて、食事さえ出来れば文句はないのだと、思った。それが、そうでもないかもしれない。
たったこれだけのことで、私は間違いなく、嬉しいと感じていた。体のくすぐったさよりも、ずっと静かに胸が震える。
この感情の波で、さすがに自覚した。
なんだか悔しい気もするが、……私はこの人のことが好きなのだ。
認めてしまえば真実味が増して、結構前からそうだった気もしてきた。ちょっと触れ合った程度で動揺して、その間他の事なんて頭から抜けてしまう。
つまんだままだった鬼二十の髪が指先から滑り落ちる。彼が顔を上げないのが、今はありがたい。
私は内心で、部活に入るのはやめようと決心した。部活なんかして帰ったら、身がもちそうもない。
3章終わりです。
1章から結構特別な存在ではあった鬼二十を、好きだと認める綾。
鬼二十の方は、まだちょっと恋愛ではないのですが「鬼の面」 章でいうと折り返し地点です。読んでくださってる方、ありがとうございます!