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鬼の面  作者: 有川
1章
2/38

蔵(2)

 すぐに鬼だと分かったのは、面の輪郭から出る角が真っ先に目に入ったからだ。額から頭上の方へ反るようにして、十センチほどの大きな角が彫られている。

 そしてその面の顔は左右非対称に歪み、凄まじい形相をしていた。


 一目見た瞬間に総毛立ったというのに、どくどく打つ心臓を抱えたまま、私はいま鬼の面を細部まで見つめている。

 粗削りというか、いわゆる能面のイメージであるオカメのように、滑らかな表面ではない。絵に例えるなら、荒々しい筆のタッチが残っているようだ。

 何か塗ってあるのか、先程の竹箒と違って崩れそうな印象はない。ほんの少し飴色になっている。


 怖いはずのものを観察してしまうのは、恐怖を取り払うための人間の本能かもしれない。ともあれ、一分二分と経てば気持ちは相当落ち着いた。

 面をそっと手に取る。裏側には赤い塗料が厚く塗られて、表面よりつるつるしていた。右下に小さく「二十」と書かれている。


 私は何の気なしに、面の穴から蔵の外を覗いた。こんな小さな穴では見えづらいし、視界が暗い。身につけるものではなく、鑑賞用なんだろうか。


「おっ、と」


 面を箱に戻すと、目の前が強い光を見た後みたいに赤暗くなって、膝から力が抜けた。立ちくらみだ。

 棚の埃っぽさも忘れて、咄嗟にもたれ掛かる。それでも意識が朦朧として、私は結局しゃがみ込んでしまった。


 何秒か目を閉じたまま深呼吸をして、立ちくらみの原因を考える。睡眠時間、栄養、どれも祖父母の家に来てからの方が充実しているし、すぐには思い当たらなかった。

 薄く目を開け、荷物の隙間から差し込む外の光をぼうっと眺める。すると、その微かな光がゆらいだ気がした。


 はっとして顔を上げた視線の先で、蔵の扉が閉まり始めていた。


「えっ、ちょっ、やだ……!」


 慌てて荷物を支えに立ち上がったが、急に動いたせいでまた、頭がくらくら重くなる。風で扉が動いたのかな、と反射的に考えた。それと同時に、少しも揺れない庭の木と、妙にゆっくり閉まる扉に気づいて怖くなる。


 重たい音を立て、ついに蔵の中は真っ暗になった。


 ぴたりと停止した私の耳には、紙マスクにこもる自分の浅い呼吸しか聞こえない。扉が閉まったくらいで、セミの声は聞こえなくなるだろうか、と考えると余計に恐ろしくなる。私がもし息を止めたら、蔵は無音になってしまう。

 さっきから震える足を動かそうとしているのだが、根拠の無い「動いたら扉を閉めた誰かに見つかる」という脅迫じみた考えが拭えなかった。

 暗闇と張り詰めた神経は、感覚を普段より鋭くする。


 ウエストゴムに挟んだはたきの先に、何かが触れたような気がした。



 それで堰を切ったように、すくんでいた感情が爆発した。

 正直詳しくは思い出せないが、私は絶叫して手探りで狭い蔵の奥から抜けだし、蔵の扉を叩いたらしい。何故か開かなかったことそのものへ疑問を感じることもなく、がむしゃらに叩いた。その辺りだけはよく覚えている。

 自分が騒いでいるので、蔵に近寄る足音には全く気が付かなかった。突然明るくなって、体を預けていた扉が前に動き、へたりこむ。


「綾、何してるの……」


 私を蔵から助け出したのは、買い物から帰った母だった。母の顔は困惑や不審でいっぱいだ。決して穏やかではない表情だったが、私は安堵のあまり口をぱくぱくさせる。私が涙で顔中濡れていたので、とにかく深く追及せず、抱きしめてくれた。


 母の手には、私が蔵の奥で見つけたボロボロの竹箒が握られていた。その箒で、蔵の扉の取っ手に外から(かんぬき)がされていたらしい。

 箒は確かに、私の後ろに、戸が閉まる少し前まで、置いてあったのにだ。



 今日一番の鳥肌を忘れたくて、私はすぐにシャワーを浴びた。洗面所を出ると声をかけられ、二人から居間で甘やかされることになった。

 母は近所の子供がいたずらしたに違いないと言って、ずっと怒ってくれていたし、祖母は美味しいお茶を煎れてくれた。


 竹箒の件は不気味だったけれど、落ち着いてみると、閉じ込められたくらいで泣きすぎたかもしれない。他には何も怖いことはなかったじゃないか。恥ずかしくて、抱えた膝に口元を隠す。


「綾、ずいぶん、奥まで入ったのねぇ」


 独特なイントネーションで、祖母が首を傾げた。祖母は元々おっとりした性格で、ゆっくり喋るのは歳と関係がない。癒し系で可愛い人だ。

 みんなに醜態をさらしてしまった私は、とりあえず苦笑いを返した。


「うん。奥の棚を整理して、物を詰めたかったんだ」


 祖母はにこにこして私を見つめる。この件に関して、あまりの悲鳴に近所の人が数名様子を見に来たらしい。その対応を祖母がしてくれたわけだが、私を責めも笑いもしなかった。

 さすがに閂は私のせいじゃないし、それだけなら怯えることでもない。被害にあったという意味では、私にとって事故だ。そう結論づけて忘れようと頷く私に、祖母が優しく言葉をかける。


「あの箒は、お寺で供養してもらおうね。大丈夫、大丈夫」


 ただでさえボロボロの竹箒は、閂にされたことで柄が折れかかっていた。

 ……自然にアレが霊的現象だと言われたようで、かえって寒気が振り返したのは黙っておいた。そういえば私はあの箒が蔵の中にあったことを話していないし、重ねて怖い。

 しかし、私はもうあの竹箒が母の手の中にあるだけでゾッとしてしまうようになったので、供養するという話はありがたかった。



 今日はもう十分疲れていたけれど、なんとまだ昼の三時だ。

 祖母はさっそく帽子と日傘を準備して、竹箒の供養に行くと言った。うちの前の坂から山道に入り、頂上付近にある寺へ向かうという。

 真夏の炎天下に老人の一人歩きはどうなんだと、おずおずと同行を申し出たら「綾はついてきちゃダメ」とにこやかにキッパリ言われてしまい、ニュアンスが怖くて大人しく受け入れた。



 母が家事をするなか、私だけ居間で一人手持ち無沙汰だ。頭にちらつくのは、竹箒に施されていた紐飾りの朱色や、蔵のことばかり。


 蔵といえば、私は奥から脱出するとき、かなりの数ダンボールを落下させたんじゃないだろうか。というか、はたきも掃除用具も恐らく全部蔵の中だ。

 掃除を任されたのに、かえって中を荒らしてしまった。

 そのうち取りに行かなくてはいけない。今日はまだ明るいし、あの箒ももうない。


 もう一度蔵へ、と自然に考えた。しかし、一時間前に騒ぎを起こしたばかりでまた蔵に入ったとあっては、次は変な虫を見たって悲鳴をあげるわけにいかない。でもたぶん、それは無理だ。サイズによって程度はあるけど虫は無理だ。日を改めたい。

 今日はもういいんだと唱えて、居間の畳に仰向けになる。蛍光灯を直視して、なんとなく左手で目を覆った。


 あの鬼の面はどうなっただろう。手で覆った時の視界、というか感覚で、ふと面のことを思い出した。

 間違いなく、箱には仕舞えていない。紐を結んだ記憶がない。立ちくらみがして、扉が閉まって……私はいつまで箱を持っていただろう。

 脱出がなりふり構わずで、あちこち体当たりした覚えがあるだけに不安だ。木彫りの古い面なんて、落としたら割れてしまうかもしれない。


 今まで数年に一度会うだけだった祖母には、まだ多少遠慮がある。それだけでも心苦しいのに、優しさに対して何も返せていないのが嫌だった。

 私が今一番怖いのはあの箒だ。それはもう無いんだから、大きくて古い物置をまた掃除するだけ。



 そうして自分に言い聞かせて、私はまた蔵の前に立っていた。


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