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鬼の面  作者: 有川
3章
19/38

いまさら(2)

 忙しさに流される間は忘れていたというのに、着替えて鞄を持った瞬間、私は家で待つ存在を思い出した。


 頭の中に描かれる姿は、胡座をかいて俯いている。私に気付くと顔をあげ、爽やかとは遠い笑みを浮かべる――そこまで想像してから、私はそのイメージを振り払った。


 感情が色々な方向に散らばって、複雑な感覚がお腹に留まる。

 鬼二十が悪いのだ。

 私は昨日のセクハラじみた食事を、だいぶ根に持っていた。思い出すと顔が赤くなってしまいそうでそれも不満だし、急かされるような心地になる。この気持ちが表れた変な表情を人に見られたくなくて、私は急いで自転車を走らせた。



 せっかくこちらが鬼二十の事を真剣に考えたというのに、決意の軸を根元から蹴り倒されたようだった。衝撃で真面目に考えた何かが飛ばされて、更にそれがどう大事な事だったのか分からなくなる。


 鬼二十に誠意を見せてあげようとか、そういった事を考えていたはずなのだ。……その必要は、本当にあったんだろうか?

 たしか、鬼二十は空腹で不安になるんじゃないかと想像して、それは私が防いであげられると思ったのだ。彼は、私に守られるような人だろうか?

 一度抱いた考えに疑問を持ったものの、答えは出ない。



 家に続く坂を、自転車を押しながら登る。力の入れ方もなかなか慣れてきたので、最初に比べて息はあがらなかった。

 中ほどまで来て、いかにも農村らしい景色を坂から見下ろす。

 少し前まで青かったはずの田は、夕陽で黄色に光る。まだ微かに緑が混じっているが、いつの間にか景色は秋になろうとしていた。




 しんと静かな自分の部屋に、そっと足を踏み入れる。帰宅しただけで私は何をどきどきしているんだろう、と頭の片隅で思った。

 その空間へ降って湧くように、背後から声がかかる。


「綾」


 声を聞いて、私は彼を半目で睨みつけた。ついでに、背中を向けないようにする。


 人が隙を見せる瞬間というのは、悪戯させるためにある訳ではない。ある程度の信頼があって、気を張らなくてもいい仲である証拠のようなものだ。

 それをこの人はなんだと思っているのか。

 鬼二十の歳がいくつかなんて知らないけれど、外見年齢でも私よりは上だろう。冗談で女子高生の首を舐めるだなんて、人間だったら警察から厳重注意ものだ。つまり鬼二十は私の隙をついて、そんなありえない悪戯をやったのだ。


 私がどれだけ驚いて、どれだけ恥ずかしかったか一度考えてほしい。

 こうして警戒を前面に出すくらい、仕返しとしては可愛いものだと思う。失った信頼は大きいのだと、分からせてやりたかった。



 何、とつっけんどんな返事をしても、目の前の妖怪は妙に機嫌が良かった。


 普段ほとんど仏頂面で過ごしている人が、無意味にニコニコするとは思えない。

 はっきり言って、裏がありそうで不気味だ。私はこっそりと、背後を机ではなく逃げ場がある方に向ける。


 もっとも、鬼二十は今ニコニコしているわけじゃない。正確に言えば、口角が微かに上がっていて、目の奥に楽しげな感情が見え隠れするのだ。

 その表情から連想される状況は、経験上私に利益があったためしがない。


 そんな彼が、昨日の夕方から現在進行形で上機嫌なのだ。先の悪戯が無かったとしても、今身構えるのは自然な事かもしれない。


「綾。私に案がある」


 だからその台詞を聞いて、私はますます警戒を強めた。

 なのに鬼二十はあっさりと間合いを詰め、顔を間近に寄せてくる。その目に気圧されて、つい数歩後ずさった。

 案なんて、募集した覚えはない。疑問符をつけて返すが、鬼二十は答えずに、後ずさった分だけにじり寄る。


 鬼二十の視線が下に落ちたので追うと、私が無意識に体の前で構えていた腕だった。

 その手首を取って、ゆっくりと私の顔の高さまで上げていく。握るというより、引っ掛ける程度だ。

 引き寄せた私の手で口元を隠して、鬼二十は意味ありげに目を細める。この状況に、私の心臓は悲鳴をあげそうだった。


 鬼二十の口と私の手が近付くことに、食事のイメージしかない。はっとして、私は腕を彼から奪い返す。


「昨日あげたばっかりじゃない!」


 掴まれていたわけでもないので、手は何の抵抗感も無く引っ込めることができた。


「騒ぐ前に話を聞け」


 鬼二十は軽く鼻で笑って、明らかに無理があるのに一歩詰めてくる。膝裏が背後のベッドにぶつかって、私は体勢を崩しそうになった。それは鬼二十が両肩を支えてくれたので防がれて、すとんと腰掛ける形になる。

 目の前に鬼二十がいるので、立ち上がれない。立ち上がったら、密着するほかないからだ。

 上手く誘導されて座らされたとしか思えない状態だった。


 どうにも動けない私に、鬼二十は上体を折って視線を合わせてくる。逃げようもなく、私はその黒目を見つめ返した。まばたきをしないので、髪と同色の睫毛はひくりとも動かない。

 観念したのを見て取ったのか、彼は満足そうにして口を開く。


「お前は毎日疲れきって帰ってくる。それで数日分の食事を済ませたら、言う通り次の朝起きられなくなるだろう」


 鬼二十は言い聞かせるようにゆっくりと話すが、先の内容がさっぱり読めないので、私はただ眉を寄せる。それはそうだけど、何だと言うのだろう。

 思ったまま尋ねようとした私は、ぴたりと硬直した。膝に置いていた手に鬼二十の手が重なり、かたい指先でほんの少し撫ぜる。至近距離でスキンシップをされると、途端に鬼二十が男の人であることを意識させられた。

 私が固まっているのを愉快そうに見て、鬼二十は話を続ける。


「だから、小分けにする。毎日、少しずつだ」


 一瞬、その前になんと言われたか頭から飛んでしまっていたので、思い起こす方に意識を向けた。


 数日分では次の日つらいから、毎日その日の分を与える。

 そう言ったんだろうか。つまり、今までのあの「食事」を帰宅後毎日やれと言っている?


 私たちが八月からやっていた食事自体は、事務的といっても違和感のないものだ。すぐに済ませて、それについて特に話すこともない。

 ……昨日のように、不意打ちでくすぐったい場所を舐められて変な声を出してしまったとか、そういう事がなければ何の心配もなかったというのに。どうも態度がおかしい鬼二十を相手に、そんなことを了承するのは少し不安だった。

 私は疑うような声音で、黙って流されまいと口を挟む。


「そんなこと、調整できるの」


「昨日も控えた。現に今朝は、別に目覚めも悪くなかっただろう」


 鬼二十は事も無げに即答して、首を傾けた。

 確かに今朝、私は普通に目覚ましで起きた。でもそれが、鬼二十が食事の量を抑えたからなのかどうかは、私にはわからない。生気がどれくらい持っていかれているのかなんて、後の体の感覚で推し量るだけだ。


 しかし、鬼二十の言う事が本当であれば、これは私にも都合が良いはずだ。鬼二十に空腹を我慢させることもないし、寝坊の可能性も低くなる。

 意外だと思ったのは、私が寝坊したら困るというのを、彼がしっかり理解していたことだ。私の生活になんか、ほとんど興味が無いのだとばかり思っていた。

 先日寝坊した時も、携帯が私の下敷きになっていて、アラームがうるさくなかったから起こさなかったらしい。学校に遅刻してはいけないという事も、恐らく知らないだろう。

 それでも、今のこの提案に至ったのだ。


「構わないな」


 そう確認してくる鬼二十に、私はいまいち判断しきれない気持ちのまま、首を傾げ半分に頷いた。それを見て、鬼二十は「よし」と笑む。


 では早速とでも言うように、彼はベッド脇の台からウェットティッシュを取り、私に手渡した。結局、日焼け止めが嫌なのは変わらないらしい。

 私がため息をついて支度を始めると、鬼二十は片膝をついて私の顔を下から覗き込んだ。ちょっと不満げな私を見て、微かに口の端を上げる。


 ところで、鬼二十は私が困る時ばかり笑顔を見せて、私が楽しい時は退屈そうなんじゃないか?

 それに気付いてみると、つくづく厄介な人だと思った。

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