学校(2)
この日私は、濡れてしまった靴下を洗面所で脱いでから部屋に戻った。
坂道から私の部屋を何気なく見上げたら、窓辺に人影がある気がした。だから今、鬼二十が既に姿を現していても少しも驚かなかった。
「ただいま」
タンスに背を預ける横顔に声をかけて、机に鞄を置く。鬼二十はいつも通り腕組みをして、ただ私を見つめ返すだけだ。
私の生活習慣は夏休みと随分変わったけれど、鬼二十は良くも悪くも変わらない。基本的に私の部屋で待機して、数日に一度生気を食べる。会話をするのも、変わらず私が話し掛ける時がほとんどだ。
一緒にいる時間が減ったせいか、私は以前より鬼二十に微かな距離を感じていた。
用が無くても挨拶はできる。でも彼はそれに返事をしないのだから、意味はない。会話の始まりが潰れると、なんだか話しかけることも躊躇われた。
鬼二十にとって、部屋の主が外出しようがしまいが、どうでもいいのかもしれない。だとしたら、せっかくの風変わりなルームシェアも味気無くなりそうだと一人思う。
私がふと窓の外を眺めると、視界の端で鬼二十もそちらを見る気配がした。
今日は朝から、残暑を遮って雨が降った。
学校までは、自転車で三十分だ。これには途中の徒歩分も多少含まれている。それでも、最低十五分は自転車に乗っているだろう。だから雨は、とてつもなく朝の予定を左右する。
寝起きでぼやけた頭が、雨音を聞いてゆっくりとそれに気が付いた。――自転車が使えないなら、いつもより早く家を出ないといけない。
慌てて支度を済ませて、私はなんとか五分だけ早く家を出た。学校まで歩いて行ったことはないけれど、恐らくこれでは遅刻ぎりぎりになるだろう。
それなのに、いつも洋介が立っているあたりに傘は見えない。車道に出て坂を見上げると、焦る様子もなく彼が下りてくる所だった。
挨拶をしてから、私は時計を確認する。いつもとほとんど変わらない時間だ。
「雨の日って、いつもの道を歩きで行くんだよね」
間に合うんだろうか、とそわそわする私とは対照的に、洋介は落ち着いていた。彼は傘の下でこちらを見て、歩き出しながら話す。
「別に俺は歩きでもいいけど、今日はバス停案内するよ」
洋介の余裕のわけを知って、私は当たり前に驚いた。
事前に調べたつもりだったので、それは初めて聞く情報だった。たしか大通りに出ても、バスは駅方面行きしかなかったはずだ。私は首を傾げる。
「バスあるの?」
「ちょっと道それるけど、そこからは学校まで十分あれば着く」
彼が言う通り、バス停は大きな十字路を学校とは反対方向に曲がって二分ほどの所にあった。バス停までの徒歩の時間を考えると、晴れの日は自転車の方が便利だろう。
男子生徒の中には、雨でも自転車に乗る人が結構いるらしい。私は大人しく、今後も雨の日はバスに乗ろうと思った。
バス停には数人が雨をしのげそうな屋根がある。今朝は、ここには私と洋介の二人きりだ。
それぞれが傘の水滴を飛ばし、畳み終えると辺りは静かになる。屋根を打つ雨と、前を車が通る音だけがやけに大きく聞こえた。
なんとも言い難い無言の時間が続く。
「……あのさ、聞いていいのかわからないけど」
その中で洋介がぽつりとこぼした言葉を、私はすぐさま拾った。知り合ってからそう長い仲ではないので、何でもいいから会話を続けたかったのだ。
今思えば、そんな前置きを聞いたら、少しは何か想像すべきだったのかもしれない。
「この間の、ツノ生やした奴ってさ」
私はあからさまに動揺して、体がひくりと揺らいだ。
生える、なんて言い方をされると、正体がバレたのかと焦る。もし今お茶でも飲んでいたら、きっとむせてしまっただろう。
しかし今は考える余裕がある。私の知らないところで鬼二十の情報が洩れるわけがないので、確信は無いはずだ。
一応用意しておいた言い訳を、私は精一杯の平常心で口にする。
「ああ、イトコの、演劇部のお兄さん?」
「お前、嘘下手だな……」
洋介は驚きすら混じった様子で、一秒もそれを真実だとは思ってくれなかった。
同居と服を同時にごまかすにはこれしかないと思ったのだが、見抜かれてしまうなら茶番でしかない。
逆にどんな設定ならリアリティがあるんだろう、と私は困り切って隣の洋介を見上げた。彼はほんの少し私の顔を覗き込んで、真面目な顔で二、三秒見つめてくる。
「人間じゃ、ない?」
心臓がギュッと締め上げられる感じがした。
思わず洋介の方を見て、私はまばたきを繰り返す。確かに鬼二十の格好は普通ではないけれど、人間じゃない存在なんて、いないと考える人がほとんどじゃないだろうか。見た目だって、人間らしくないパーツより同じ部分の方が多いのに、彼はなぜ鬼二十を人外だと思うんだろう。
「……あの、なんで人間じゃないって、思ったの?」
私はぐるぐると渦巻く考えを抑えて、かなりの覚悟をして洋介にそう尋ねた。しかしそれは、すぐに覆される。
「え、マジで?」
彼の顔に表れたのは、困惑と少しの焦りに、苦笑い。……本気で言った訳ではなかったのだ。
私って結構バカなのかもしれない、と軽く落ち込む。その間も洋介は、本当にそうなのかとしきりに確認していた。
一度実際に対面しているだけに、私が何も言えなくなっている様子すら、この場では肯定になった。
「妖怪? ……やおよろずの神、みたいなやつ?」
洋介は言葉にも顔にも疑問符を浮かべて、私に尋ねる。
私だって鬼二十と出会ったのは一ヶ月前だし、にわか知識しか無い。一度首を傾げてから、間違いではなさそうな事だけを話した。
「本人は九十九神だって言ってる。消えたりできるし、本物だと思う」
それっきり、私たちはまたしばらく無言になった。
洋介は今聞いた話を反芻しているようだったし、私は私で、今後は絶対にこんな状況を招かないと固く誓っていた。
下手をしたら妖怪がどうとか言っただけで、私が危ない子だと思われかねない。
そうでなくても、聞かされた相手にも迷惑だろう。現に洋介のことも、随分困らせている。
黙っているうちにバスがやってきて、私は彼に続いて奥の座席に座った。
バスが走り出した頃、そっか……と洋介は独り言のように言う。私は一応それをうけて、他の乗客には聞こえないよう、小声で返した。
「信じてもらえると、私も楽だけどね。そうとしか説明できないし……」
実際に鬼二十に妖怪っぽいことをしてもらうとか、証明方法はあると言えばある。ただしこの場では、私のいい加減な説明が限界だ。
これに対して洋介は、嘘だとは思っていないことを伝えてくれた。
降りるバス停は、学校が見える場所にあった。広い歩道には大勢の生徒が歩いていて、傘がカラフルだ。
「それって、家にいさせて大丈夫なもの?」
不意に洋介が私に尋ねる。それというのが鬼二十のことだと思い至るのに、数秒かかった。
あの人がそういう危惧の対象だったことを、私はしばらく忘れていた気がする。最初の一週間こそ謎が多かったけれど、もう目的は知っているのだ。鬼二十は生気を奪う以外、乱暴はしない。
真剣に心配してくれているらしい洋介に、私はなるべく明るく頷いてみせた。
そうして今朝は、先送りにしていた洋介への説明をなんとか終えた。
私が神経を擦り減らしたのも知らないで、鬼二十はベッドに腰を下ろす。座りたかった場所を取られてしまったので、私は勉強机の椅子に座って、くるりと向きを変えた。
「今日はね、踊りをやってきたよ」
相変わらず、球蹴り以外のスポーツの説明は思いつかない。なので、ダンス部なら言い表せるぞ、と私は得意顔だった。
バレー部は、はっきり言って無理そうだという結論になった。混じるなら一年生の方になるだろうが、かなり練習熱心な部活で、一学年下も大会に向けて忙しそうなのだ。
ただ、一度見学に行ったのをきっかけに、日奈ちゃんが良くしてくれるようになった。
彼女は特定の人と一緒にいないタイプだったみたいだけれど、クラスの子達と広く話せる。更にバレー部の副部長で、会議を通して他の部活の事情にも詳しかった。
今日は日奈ちゃんを介して、ギャルの子達が入っているダンス部を体験してきたのだ。お喋りが多かったけれど、なかなか楽しかった。
鬼二十は踊りと聞いて何を想像したんだろうか、訝しげな顔をして「楽しそうだな」と全然楽しくなさそうに呟く。
「すごく、楽しくなりそう」
私はその様子をあまり気にかけず、椅子をもう一度回した。