友達(4)
予報された雨は夜に降って、私は朝早くに寒さで目が覚めた。空は真っ白で明るい。寒暖の差が激しすぎて、秋はどこにいったのかと首を傾げる。
昼過ぎには、母達は祖父を見舞いに行くと言い、私は宅配便のために留守番を頼まれた。
暗い木の色をした梁が、古い家の静けさを強めていた。「若い子がいると、家が明るくなるわ」と祖母は言うけれど、自分では雰囲気に飲まれている気しかしない。
古い物には、たぶん癒しのイメージが強い。しかし家に関しては、そこに至るまでを知らなければただ馴染みないだけでしかなかった。私は今でもたまに、そわそわと落ち着かなくなる。誰もいない静かな日は特にそうだ。
鬼二十の定位置へ一巡視線を送ったあと、上着を羽織って外の空気を吸うことにした。
子供の頃は、玄関先の踏み石周りがジャングルみたいに思えたのを覚えている。背が伸びた今では、特別茂っているわけでもない、普通の庭だとしか思わない。そういったことばかりだけれど、外の方が懐かしさは感じられた。
共用のサンダルが石でからころと音を立てる。表に出たついでにと、私は郵便受けに向かう。スロープを下りながら遠くの景色を見るのは、昔から好きだった。
連日の暑さの後では涼しいけれど、ほうと息を吐いてもさすがに白くはならない。錆びた郵便受けもひんやりしていて、背筋に少しの寒気を残した。
「薄着すぎたかな」
ダイレクトメールやチラシの束を抱え、掠れるほど小さく呟く。私の独り言より、裏手の木々が擦れる音の方がよほど元気が良かった。
長居したら風邪をひくかもしれない。そう思いながらも、汗をかく心配がない日の屋外は開放的で、私はもう少しそこに立っていたかった。
そこへ一人分の軽やかな足音がした。その音は長距離走をするような調子で、私はある人物を連想する。
……近所のおじさんという可能性も勿論あるのだけど、そうなら挨拶でもすればいい。鬼二十は私の勘が鈍いと言うけれど、自分では当たりくじに出くわすのは結構多い方だと思っている。私は敷地から覗くようにして、坂道を見下ろした。
当たりだった。
耳にイヤフォンを入れた「ヨウ君」こと芦川洋介が、自身の数歩先へ目線を落としたまま、坂を上っていた。
私はこの坂を駆け上がったことなんて無いけれど、きっと彼ほどしなやかに走ることは出来ないだろう。今日も膝が隠れる程度のジャージに半袖で、手足の長さがよくわかった。
呼び止めるかどうか迷いながら、私は道に一歩踏み出す。動く物を認めた彼の目が、一度私を素通りして戻ってきた。二度見だ。
彼はスピードを落とし、イヤフォンを外す。私の手前で立ち止まると、微かに荒い息を吐いていた。
「この坂道、結構マニアックな道だと思うんだけど、コースなの?」
尋ねると、彼は少し黙った後首を軽く横に振る。
「俺の家、ここからあと一分くらい、坂のぼった所」
首から下へ視線を一瞬感じ、部屋着だったのを思い出して上着を寄せた。汚い格好ではないけれど、堂々と見せて回るものでもない。
田舎だと言われるこの地域の中でも、半分山に含まれるうちよりも山側に住んでいるという。生活するのに贔屓の店だけじゃなく、そこへ向かうまでの道のりもほぼ同じだろう。よく会うわけだ。
都心近くの住宅街と違って家の間隔は疎らだし、これは珍しいことだと思う。
彼はうちの表札にちらりと目を向けた。私を横目に見て、皮肉っぽくそれを読み上げる。
「……佐藤さん?」
そのニュアンスに、この数日間私がした数々の言動をあらためて思い出した。私は、彼に名前を教えず逃げたのだ。
「あ、それはおばあちゃんの苗字……。私は峰岸、綾」
申し訳なさでしおらしくしていると、彼はその態度の唐突さに少し驚いた顔をした。私は意を決して、もう一押し彼に歩み寄る。
「少し、話していかない?」
スロープのすぐ下にある石段を指差してみせる。彼の口から微かに「いいけど」とこぼれるのを聞いた。
「あの、私たぶん八つ当たりしてたの。ごめんなさい」
並んで腰掛けて一番に、私はそう言って頭を下げた。それに対して、彼はただ不思議そうに訊き返す。
「八つ当たり?」
「上手くいかない事で頭がいっぱいで、洋介君に全然関係ないのに、感じ悪くしちゃってたというか」
「ああ」
普通の男の子らしい仕草や話し方に近頃縁遠かった私は、ぶっきらぼうな短い返事を必死に読み取ろうとした。どれくらい怒っているか、今から挽回できるかどうか。今は砂利を見つめている彼の表情にも気をつける。
「ちゃんと話せばよかったって後悔したから、謝りたくて」
きちんと顔を上げて、彼の方を向く。
こちらを向いた彼は、目が合うと気まずそうに視線を泳がせた。それから短いため息をついて、首の後ろをかく。
私はほんの少し身構えて、返事を待った。彼は今度こそ私の目をしっかりと見て、口を開く。
「……さっき俺の事、なんて呼んだ?」
そういったものはあまり意識せずに口にしがちで、確認されると自信はない。今の私が自然に呼ぼうとして、どうなるかに任せた。
「洋介君」
彼はそれを聞いて、一度黙って頷く。
「君はつけなくていいよ。呼ばれ慣れてないから、むず痒い。謝るとかそういうのも、いい。怒ってないから」
その言い方は簡潔なようでいて、最後の一言が優しげだった。まだ彼の表情を窺いがちだった私に、小さく笑顔まで作ってくれる。私はもぞもぞと、自分の上着の端を握った。
「じゃあ、私のことも呼び捨てでどうぞ。綾です」
「さっき聞いたよ」
第一印象の悪さを取り返せるくらいに仲良くなれたらいいと、出来るだけ柔らかく笑む。私の二度目の自己紹介を、彼はおかしそうに笑った。
受け入れようとする気持ちでいると、彼の人当たりの良さはとても居心地がよかった。自分の気の持ちようが、どれだけ周りの見え方を変えるのか思い知る。
最初に「話していかない?」と誘った事もあり、それからお互い簡単に質問をしあった。
彼は一日にどれくらい外を走っているのか、なんて単なるその場の興味に始まり、私がこのままこちらに住むのかどうかなどだ。
当面は祖母の家にいると伝えると、高校はどこに通うのかも尋ねられた。私の答えに、洋介はさらりと自分もその高校だと言う。私だけがすごい偶然だと興奮していたら、自転車で通える圏内の高校はせいぜい二つだと笑っていた。
「縁があるっていうか、あの日話さなくてもいつか知り合いになった気がする」
私がしみじみと呟くと、彼はこちらを見て、軽く首を傾げた。
「……そう?」
「人が良すぎるよ。悪い人に騙されないか心配」
私みたいに逆走したって、こうして普通に話せる仲になるのだから、彼に言わせれば大体の人が許容範囲内なんじゃないだろうか。大きなお世話だとは思うけれど、わりと本心から心配をしている。
「本当に悪いやつくらいは、分かると思うけど」
彼はそういう事を、他の誰かにも言われたのかもしれない。独り言みたいに、ぽつりとそう言った。
私の上着のポケット越しに、中の携帯が光る。ストラップを手繰りよせて開くと手紙のマークが表示されていた。
「メール」
思わず呟いて、その流れのまま受信フォルダを開く。
……差出人は、先週私の頭を占めていた友人だった。メールの内容に目を通すと、顔が勝手に嬉しさを滲ませる。
私の様子に、隣の洋介が少し動揺しているようだった。おいてきぼりにした事に気付いて、ごめんと軽く詫びる。
「八つ当たりした原因、今解決しました」
喜びが顔からひかないまま報告するのは、内輪話すぎて申し訳なく思う。けれど、優しい彼はぎこちなく「ああ、そう、よかったね」と言った。
普通にこちらを見ていた彼の目が、私の背後を映して驚愕で開かれる。あまりにも突然で、えっ、と声を出しかけた。後ろを振り返る前に、洋介が肩を引いて私は抱き留められる。
体勢は崩れたけれど、庇うようにされたことが気になって、首だけでも後ろへ向けようとする。
「近頃遅かったのは、こういう訳か」
聞き覚えのありすぎる、訳を知った風な声がした。
……いや、でも、そんなはずはない。前例がないからそんなはずはないと思うのだけど、付き合いは一ヶ月に満たないので、実はあまり根拠にはならない。外には出てこないのだと、私がそう思いたいだけでしかない。
身を捩ってもう少し後ろを振り返ると、案の定そこにいたのは鬼二十だった。私達が腰掛ける石段を、スロープの上から見下ろしている。
鬼二十の移動可能範囲がいまだに謎だ。下から見上げる口元は、うっすら笑っている。
「き、鬼二十、ここ外っていうか、人前なんだけど」
私は抱き寄せられる肩越しに車道の方も気にしながら、挙動不審な反応をした。どうか、母も宅配便も近所の人も現れませんようにと祈るばかりだった。
ここで一番事情を知らない洋介は、困惑しながら私と鬼二十を交互に見る。
「え、何、知り合い……?」
状況が想定のはるか外で、知り合いだと知れてしまったのが良いのか悪いのかも分からない。
洋介が私を庇っていた腕の力を緩めたことで、私もされるがままくっつきすぎていた事を自覚して、多方面からの混乱で顔が赤くなる。
ごまかさなくちゃと、まずは鬼二十の非人間要素を探したら、全身不審すぎて笑うしかなかった。
言い逃れの難しい、額の角。着古した感じのある怪しい和服。髪は染めなくては出ない色だし、それは男なのに一年伸ばしたくらいでは足りない長さだ。
コスプレと言うしかないのだろうか。正直、意味もなくコスプレで出歩く身内がいますと言う方が恥ずかしい気がする。
私は、この場での言い訳を諦めた。
「えっと、この人の格好とか、すごい込み入った事情があるの! また今度、説明する」
とりあえずは何も訊かないでほしいと、ジェスチャーも交えて訴える。洋介はその間も口元で苦笑いを浮かべながら、ちらちらと鬼二十の角や服を見ていた。
あまり見つめるのも止めてほしい。見るほどに、コスプレと言うにはリアル過ぎるのだ。なにしろ本物の妖怪だから。
また今度話そうね、と懸命に笑顔を作って二人の間に立ちはだかり、視線を遮る。私は急いでスロープを脇から登って、鬼二十の背を押した。
屋内に早く押し込むことで頭がいっぱいの私に、鬼二十は協力しようともせず振り返る。
「綾。お前に必要なのは、男よりは兄だと思っていたが」
突然何を言うのかと、つい品のかけらもなく「はぁ!?」と怒鳴りかけた。その衝動はなんとか抑えて、不満をあらわに答える。
「……どっちも必要ってわけじゃないよ」
その答えを鼻で笑って目で馬鹿にして、相変わらずのステキな性格を味わわされる。文句を言おうとした私に取り合わず、鬼二十は洋介の方を振り返った。
「だ、そうだ」
にやにやと話しかけられると、彼は何か口を開きかけてばつが悪そうにした。私は平謝りをして、今度こそ鬼二十を玄関に押し込んだ。