友達(3)
鬼二十に生気を食べさせると、少し疲れて寝入りが早くなる。その疲れを今までの経験と比較するなら「そういえば、昼は体育で頑張ったな」程度だった。
与えている最中に自覚はない。後で意識するとちょっと体が重くて、気だるい気分になっているのだ。
疲労感は確かにあるが、私はこれをたいした被害だとは感じていなかった。夜更かしする気にならないのは、今後困る日があるかもしれないけれど。
予報では今日、雨が降ったら冷え込んで一足早い秋になると言っていた。ところがその雨が降らない。だから涼しくもならなくて、じっとりとした暑さが和室に充満している。
昼には祖母が部屋を訪ねてきて、週末にエアコンを買いましょうと言った。夏はもう終わるよと返せば、祖母は身振りをつけて「冬は寒いのよ」と脅かしてみせる。
改めて窓を見ると、確かにその厚さは頼りない感じがした。風が強い日は枠がカタカタと鳴るのだが、今日はそれも無く、部屋の空気は留まり続ける。
暑い、と一人呟いたが反応はかえらない。
始業日寸前まで手をつけなかった勉強は、なんとか勘を取り戻しつつあった。
今日の私はわりと無心でやるべきことをこなしている。しかし、この不快指数の高い空気が何度も集中力を乱した。
もう過去形にしてしまって良いだろう。友達からのメールの返事は、結局来なかった。
何日来なかったのか、一日ずつ思い出しながら遡るのも一苦労する。恐らく、六日くらいだ。彼女の携帯の受信フォルダ内でも、かなり下の方へ流れてしまったに違いない。
テレビがつまらない、友達と話さない、部屋には鬼二十がいる。これだけ条件が揃えば、部屋で自主的に予習復習をするなどという、優等生らしい毎日が実現した。
完全に吹っ切れたと言えば嘘になる。でも、時間と慣れは確実に不安を薄めていった。
携帯を開いて彼女の名前を見つけないことに慣れ、メールを待つことにも慣れた。そこで負の感情が湧く前に「それがいつも通りだ」と感覚が話を終わらせる。
この段階になって初めて、顔を合わせない事がプラスに働いた。メールが途絶えても、会わなければ気まずい思いをすることは無いのだ。
会えないから不安になって、会えないからそれ以上えぐられることがない。数日前より穏やかでいることが皮肉に思えて、私は意味もなく指先をいじった。
気にすることが億劫になったというのも、否定は出来ない。
これが離れるという事だ。距離に心も引きずられる。高校卒業を機に迎えただろう経験を、私はたまたま少し早く体験しただけ。
移り変わらないものは無い。友達だけでなく、私もだ。そう考えるようになった。
心なしか、鬼二十の食事でぐったり疲れてよく眠ったら一山越えた気もする。褒める相手を間違えずに言う。睡眠は偉大だ。
そこで鬼二十の事が気になって、部屋をきょろきょろと見回す。姿が見えないので、私は定位置の一つである押し入れの前を凝視して、語りかけてみた。
「鬼二十、そこにいる?」
しんと数秒の間が流れる。呼び掛けて応えがなかったことはあまり無い。部屋にいるとは思うのだが、見えないのでこればかりは鬼二十任せだ。
「お前は本当に勘が鈍いな」
呆れた声がしたのは反対側、ベッドの方で、振り向いた時には赤茶髪が私の後ろをなびいていくところだった。
鬼二十は私が予測を立てた方向へわざわざ移動して、どかりと座る。「これでいいのか」とでも言いそうな眼差しで、椅子に座る私を見上げた。
実際のところ、場所にこだわりがあった訳では無いんだけど。
呼び出していざ前にすると、勝手とは思うが今日も暑苦しい身なりだと思った。鬼二十が後ろを通った時ですら、そよ風も起こらない。髪はなびいていたのに。
やはり、暑苦しさの最大の要因は放置された長髪だと思う。私は髪を結っているけれど、鬼二十を見ていたら結う前のうなじを蒸す感覚がよみがえった。
私が立ち上がると目の高さが変わり、鬼二十のつむじまでよく見える。
「……頭、貸して」
机にあったシュシュを一つ掴んで、答えを待たずに後ろへ回り込む。鬼二十は眉間にしわを寄せて私を振り返ったけれど、髪を二、三度手で梳くと諦めて前を向いた。
思ったより引っ掛からないが、鬼二十の髪はどうもぼさぼさと量が多く見える。長髪といっても、先までしっかり伸ばしているわけじゃないからだ。あちこちから毛先がはねて、束ねても滑らかにはならない。
シュシュを片手に纏める位置はあえて高めにして口元でこっそりと笑む。男のポニーテールという、恥ずかしい髪型にしてやるのだ。
現代の男の子なら途中で察して嫌がりそうなものだけど、鬼二十はさっき諦めたきり邪魔をする気は無いらしい。ふんわり流れるポニーテールをぽんと叩いて、私はにやにやしながら正面に戻った。
鬼二十がじろりと睨みあげてくる。可愛いシュシュと鬼二十の顔を並べて見るのは一瞬笑えたが、残念なことに美形は髪型を選ばなかった。
顎のラインと耳があらわになると、小さな驚きと妙なときめきに一瞬押し黙る。
ある日クラスメートが髪を切ってきたみたいな、目新しさに対するドキドキ感だとは思う。でも、男子生徒が芸能人のポニーテールを褒め称えていた気持ちが分かったような気にもなってしまった。別に鬼二十は可愛くはないけど、顔周りがすっきりすると人は色気が出るものらしい。
悪戯のつもりでやったのに、何で馴染んでるんだ。しかも本人はノーリアクションで、相変わらず目だけが雄弁に「何がしたいのかわからん」と訴える。
私はぎこちなく、当初の理由である「見ていて暑そうだったから」という言葉を言い訳みたいに伝えた。
鬼二十は結われた自分の髪を見ようとしたのか、右と左に一回ずつ首を振った。ポニーテールは揺れて、視界には入っていなさそうだ。
しかし首を倒しても後ろ髪が邪魔にならないことに気が付くと、無表情ながらに感心していたようだった。そういえば以前、髪を角に引っ掛けて嫌そうにしていた。
鬼二十が取ろうとしないので、その可愛らしいシュシュは今日一日男の髪を束ねることになりそうだ。自分でやっておきながら、私は苦笑いをする。
思えば、頭に触れたのは初めてだった。鬼二十の頭といえば、くすぶるような赤髪だけが特徴ではない。鬼でもないのに額から生える角は、なにより存在感がある。
意識を向けたら、つい手をそこへ伸ばしそうになった。途中で気が付いて急停止をかけたが、何をしようとしたかは指先の向きで一目瞭然だろう。
反射的に、まずいことをしたかなと不安になって角の主の顔色を窺う。畳に座る鬼二十は私を見上げるだけで、何も言わないし表情も普段通りだった。
それを見て、おそるおそる、止めていた手をまた角の片方へ伸ばす。
止められることなく、私の右手は鬼二十の角に触れた。根元が額にあるだけに、引っ張ったら痛そうで強くは触れない。想像よりざらざらとしていて、見た目とは違う、木のような感触だった。
今の私の気持ちを例えると、初めてペットが頭を撫でさせてくれた状況に近いものがある。ペットみたいだと言いたいのではない、鬼二十は拒否するだろうと思っていたのだ。
凄いことを許された気がして、私は内心かなり感動していた。
基本的に鬼二十は私に踏み込む側であって、こちらはどこまで近寄っていいのか分からない。もしそのラインが分かったとして、自分がどれくらい踏み込みたいのかも、私には分からないのだけれど。
三十秒近く触っていたら、鬼二十の視線が私の腕と顔を交互に見つめた。やっと私はそれに気付いて、手を少し離して鬼二十を観察する。眉がごくわずか、顰められている。
文句は言わないが、よく見れば嫌そうに見えなくも……ない。分かりづらいから、嫌ならそうと言ってくれて構わないのに、と言葉には出さず考える。
言われなきゃ分からない。
私には正に最近、はっきりと拒絶するでもなく、うじうじとした態度を向けてしまった相手がいる。
関わらないようにした理由だって、今になってみればくだらなくて意味も無い。もっと自然に、正直に接することが出来たら良かった。
たぶん、また会えるはずだ。初めて聞いた時の声ごと、名前ははっきり覚えている。
芦川洋介。彼に謝りたい。
まずは目の前の人にごめんと謝ると、鬼二十はふんと鼻を鳴らした。