灰冠の花嫁と、三つの願いを喰らう王
人間の願いには、値段がある。
金貨で買える願いもあれば、命を差し出さなければ叶わない願いもある。
そして、この世には、叶えてしまったことを一生後悔する願いも存在する。
ゼルヴァン・クレイドがその事実を知ったのは、愛する女の首に、自分の名前が刻まれた首輪を嵌められた夜だった。
もっとも、そのときには、もう何もかもが手遅れだったのだが。
◇ ◇ ◇
「おい、そこの屑拾い! その手を止めろ!」
王都ヴァルクレストの東区画。
貴族街と貧民街を隔てる石橋の下で、ゼルヴァンは厄介な声に顔をしかめた。
振り返ると、赤い羽根飾りをつけた衛兵が二人、こちらに向かって歩いてくる。
そのうちの一人は、昨日もゼルヴァンから銅貨を巻き上げた男だった。
「なんだよ。また通行税か? 昨日払ったばかりだろ」
「今日は廃品取扱税だ。貴族街から持ち出された品物には、正当な税が課せられる」
「へえ。昨日までなかった税金が、一晩で生まれたのか。そいつは立派な出世だな。俺より働き者じゃないか」
「貴様、衛兵を愚弄するつもりか!」
衛兵が腰の剣に手をかける。
ゼルヴァンは慌てて両手を上げた。
「冗談だって。ほら、これで勘弁してくれよ」
差し出したのは銅貨三枚。
本日の稼ぎの半分だった。
衛兵は鼻を鳴らして硬貨を奪い取ると、ゼルヴァンの肩を乱暴に突き飛ばした。
「次からは最初から素直に払え。貧民の分際で口を利くな」
去っていく背中を見送りながら、ゼルヴァンは小さく舌打ちした。
「貧民の分際、ねえ……。人間の価値が財布の重さで決まるなら、あいつらの頭の中身は随分と軽そうだ」
もっとも、そんな悪態をついたところで銅貨は戻ってこない。
彼は背負っていた麻袋を担ぎ直し、橋の下に広がる廃棄場へ足を向けた。
王都には奇妙な決まりがある。
貴族の使った食器や装飾品は、たとえ壊れていても平民が勝手に拾ってはならない。
しかし、正式に廃棄された品物については例外だった。
そのためゼルヴァンは毎朝、貴族街から運び出される廃品を調べ、修理できそうな品物を探している。
欠けた銀杯。
脚の折れた燭台。
宝石を取り外された指輪。
そんなものを直して売れば、数日分の食費くらいにはなる。
「さて、今日は何か当たりがあるといいんだが……」
積み上がった木箱をどかしたときだった。
ゼルヴァンの目に、奇妙な銀色が映った。
それは、古びた香炉だった。
両手で包めるほどの大きさで、表面には見たこともない文字がびっしりと刻まれている。
蓋の部分には、翼を広げた鳥とも、泣き叫ぶ人間ともつかない装飾が施されていた。
「なんだ、これ。随分と凝った細工だな」
手に取ると、不思議なほど冷たかった。
銀製品にしては軽い。
しかし、内側を覗こうとしても、蓋が固く閉ざされていて開かない。
「売れば銀貨十枚……いや、十五枚はいけるか?」
そう呟きながら、袖で表面の汚れを拭った。
その瞬間。
香炉に刻まれた文字が、淡い金色に輝いた。
「……は?」
蓋の隙間から、青白い煙が噴き出した。
煙は地面に落ちることなく空中を漂い、やがて細長い人影を形作っていく。
ゼルヴァンは思わず後ずさった。
目の前に現れたのは、一人の美しい女だった。
腰まで伸びる黒髪。
夜空に浮かぶ月を思わせる金色の瞳。
青白い肌を薄い衣で包んだその姿は、人間離れした美しさを持っていた。
女はゆっくりと膝を折り、ゼルヴァンに頭を垂れた。
「お目覚めを、我が主。長き封印を解いていただき、心より感謝申し上げます」
「…………」
「私はネフィル。願望を司る精霊にございます。どうぞ、お好きなようにお命じくださいませ」
ゼルヴァンは数秒間、完全に言葉を失った。
それから、恐る恐る口を開く。
「……俺、昨日の酒に変なものでも入れられたか?」
ネフィルは微笑んだ。
「いいえ。私は幻ではございません」
「じゃあ、幽霊か?」
「精霊でございます」
「悪魔?」
「そのように呼ばれたこともございます」
「帰ってくれ」
「承知いたしかねます」
即答だった。
ゼルヴァンは頭を抱えた。
しかし、ネフィルはそんな彼の困惑など気にする様子もなく、優雅に両手を重ねた。
「我が主。あなた様には、三つの願いを叶える権利がございます」
「……三つ?」
「はい。富、名誉、権力、愛情、あるいは復讐。あなた様が望まれるのであれば、私に可能な限り、いかなる願いも実現いたしましょう」
ゼルヴァンは眉をひそめた。
「そんな都合のいい話があるかよ。どうせ、魂を寄越せとか言うんだろ?」
「願いには対価がございます」
「ほら見ろ!」
「ですが、あなた様が直接お支払いになる必要はございません」
その言葉に、ゼルヴァンは首を傾げた。
「……どういう意味だ?」
「世界が、その代価を負担いたします」
ネフィルは微笑んだまま答えた。
「願いとは、本来あるべき現実を別の形へ書き換える行為。変化には必ず均衡が必要となりますが、その調整は私が行います。どうぞ、ご安心くださいませ」
「……よくわからん」
「難しくお考えになる必要はございません。ただ、あなた様が心から望まれることをお聞かせください」
ゼルヴァンはしばらく香炉を見つめていた。
願いが三つ。
もし本当なら、人生を変えられる。
貧民街の泥水を飲む必要もなくなる。
衛兵に殴られることも、冬の寒さに震えることもない。
だが。
「……とりあえず、今はいい」
「よろしいのですか?」
「ああ。願いなんて、そんな簡単に決めるもんじゃないだろ。三つしかないなら、なおさらな」
ネフィルは一瞬だけ目を見開いた。
そして、どこか懐かしむように微笑んだ。
「……随分と、慎重な方でいらっしゃるのですね」
「貧乏人はな。失敗したら、次がないんだよ」
ゼルヴァンは香炉を麻袋にしまった。
その日、彼はまだ知らなかった。
願いを叶える精霊が、なぜ貴族の廃棄物の中に捨てられていたのか。
そして、三つの願いを使い切った者が、どうなるのかを。
◇ ◇ ◇
王女イシュメリア・ヴァルクレストは、その日、初めて城の外で焼き栗を食べた。
「……美味しい」
薄茶色の外套に身を包んだ少女は、目を丸くして呟いた。
白銀の髪は帽子の中に隠し、顔には薄い化粧を施している。
それでも、上品な立ち居振る舞いまでは隠しきれていなかった。
「そりゃよかった。けど、お嬢さん。焼き栗一袋に金貨を出すのは、さすがにどうかと思うぜ」
隣で呆れた声を上げたのは、ゼルヴァンだった。
出会いは、ほんの十分前。
市場の屋台で焼き栗を買おうとした少女が、金貨を差し出して店主を困惑させていたところに、彼が通りかかったのだ。
金貨一枚。
一般的な職人の月収に匹敵する金額である。
店主は目を輝かせて受け取ろうとしていたが、ゼルヴァンが割って入った。
『おいおい、爺さん。そりゃさすがにぼったくりだろ』
『な、何を言う! 客が自分で出したんだぞ!』
『じゃあ、俺が銅貨五枚で買うから、その金貨は返してやれよ』
そんなやり取りの末、ゼルヴァンは少女に焼き栗を買ってやった。
そして現在。
少女は初めて食べる庶民の菓子に、すっかり夢中になっていた。
「こんなに甘いものなのですね。砂糖も蜂蜜も使っていないのでしょう?」
「栗だからな。……あんた、本当にいいところのお嬢さんなんだな」
「ええと、その……」
「別に詮索する気はないよ。貴族のお嬢様が護衛も連れずに歩いてるなんて、よっぽど退屈だったんだろ?」
少女は驚いたように顔を上げた。
「どうして、そう思うのですか?」
「顔に書いてある」
「……そんなに、わかりやすいでしょうか」
「ああ。籠から逃げ出した小鳥みたいな顔してる」
その言葉に、少女はしばらく黙り込んだ。
やがて、くすりと笑う。
「あなたは、不思議な方ですね」
「よく言われる。大抵は悪い意味でな」
「では、私は良い意味で申し上げます」
少女は微笑んだ。
「私の名前は、イシュメリアと申します」
「ゼルヴァンだ。よろしくな、イシュメリア」
彼は何気なく手を差し出した。
少女はその手を見つめ、少し迷ってから握り返した。
柔らかく、傷一つない手だった。
ゼルヴァンの手とは、まるで違う。
その瞬間、遠くから怒鳴り声が響いた。
「いたぞ! あちらだ!」
甲冑を着込んだ騎士たちが、市場の人混みをかき分けて近づいてくる。
先頭に立っていたのは、黒髪を短く刈り込んだ大柄な男だった。
王国近衛騎士団副団長、バルガス・ロイフェン。
王家への忠誠と厳格な規律で知られる騎士である。
彼は少女の姿を認めると、深々と頭を下げた。
「イシュメリア殿下。お迎えに上がりました」
ゼルヴァンの思考が停止した。
「…………殿下?」
少女は困ったように笑った。
「ごめんなさい。最初に申し上げるべきでしたね」
「……いや、ちょっと待て」
ゼルヴァンは少女を見た。
騎士たちを見た。
もう一度、少女を見た。
「王女様?」
「はい」
「この国の?」
「はい」
「……俺、さっき王女様に焼き栗を奢ったのか?」
イシュメリアは口元を押さえた。
「ふふっ。ええ。とても美味しかったです」
ゼルヴァンは天を仰いだ。
「……人生、何が起こるかわからねえな」
バルガスが険しい顔で近づいてくる。
「貴様。殿下に無礼を働いたのではあるまいな」
「待ってください、バルガス。この方は私を助けてくださったのです」
「しかし、殿下……」
「それに、私は今日、とても楽しかったのです」
王女の声は、穏やかだった。
だが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「城の外には、こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの暮らしがある。私はそれを、自分の目で見たかったのです」
バルガスは何か言いかけ、結局口を閉じた。
そして、ゼルヴァンに向き直る。
「……名は?」
「ゼルヴァン・クレイド」
「覚えておこう。殿下に危害を加えなかったこと、感謝する」
「危害どころか、銅貨五枚損してるんだけどな」
思わず漏れた軽口に、イシュメリアが声を上げて笑った。
その笑顔を見た瞬間。
ゼルヴァンは、自分の胸の奥に、これまで知らなかった感情が芽生えるのを感じた。
王女様。
自分とは、住む世界が違う女。
それでも。
もう一度、会いたい。
そう思ってしまった。
◇ ◇ ◇
「王女様と結婚したい、ですか」
薄暗い借家の一室で、ネフィルは静かに繰り返した。
「いや、そこまでは言ってないだろ!」
ゼルヴァンは慌てて否定した。
「俺はただ、もう一度会ってみたいって言っただけだ!」
「ですが、あなた様は先ほどから、その女性のことばかりお話しされています」
「……悪いかよ」
「いいえ。大変微笑ましいことかと」
ネフィルは優雅に微笑んだ。
「では、願いをお使いになりますか?」
「……願い?」
「はい。あなた様を、王女殿下に相応しい身分へと変えることも可能でございます」
ゼルヴァンは黙り込んだ。
貴族になる。
そんなことが本当にできるのだろうか。
「……身分って、そんな簡単に変えられるのか?」
「世界の記録を書き換えれば、容易なことでございます」
「記録?」
「戸籍、血統、財産、周囲の記憶。それらを整えれば、あなた様は生まれながらの貴族として認識されます」
ゼルヴァンはしばらく考えた。
しかし、やがて首を振った。
「……いや。それは違う気がする」
「と、申しますと?」
「俺が貴族になったところで、今まで貧民街で暮らしてきた事実が消えるわけじゃない。あの人に会うためだけに、俺自身を別人にするのは嫌だ」
ネフィルは何も言わなかった。
「でも……」
ゼルヴァンは窓の外を見た。
薄汚れた路地。
雨漏りする家々。
飢えた子供たち。
この場所で生まれ、この場所で死んでいく人々。
「もし、本当に願いが叶うなら……」
彼はゆっくりと振り返った。
「この街の貧しい連中が、まともに暮らせるようにしてやりたい」
ネフィルの金色の瞳が、わずかに細められた。
「それが、第一の願いでございますか?」
「ああ」
ゼルヴァンは頷いた。
「王都の貧民街に住む人間が、飢えず、寒さに震えず、病気になっても見捨てられないようにしてくれ。働ける場所と、まともな家と、食い物が欲しい」
「承知いたしました」
ネフィルは両手を胸の前で重ねた。
「第一の願いを受理いたします」
銀の香炉が、激しく震えた。
室内に青白い光が満ちる。
ゼルヴァンは思わず目を閉じた。
耳元で、誰かの声がした。
数えきれないほどの人間が、遠くで囁いているような声。
そして。
世界が、一瞬だけ軋んだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王都の貧民街に、奇跡が起きた。
崩れかけていた家々は、頑丈な石造りの住居へと変わっていた。
汚水の流れていた路地には清潔な水路が整備され、街角には共同井戸が設けられていた。
空き地には大きな救護院が建ち、病人たちは無料で治療を受けられるようになった。
さらに、街の外れには巨大な工房群が出現し、働き口を失っていた人々に仕事が与えられた。
ゼルヴァンは、呆然とその光景を見つめていた。
「……本当に、叶いやがった」
路地を走る子供たち。
笑いながら洗濯物を干す女たち。
工房へ向かう男たち。
昨日まで絶望に沈んでいた街が、まるで別の場所になっていた。
「お兄ちゃん!」
幼い少女が駆け寄ってきた。
ゼルヴァンが時折、食べ物を分けてやっていた孤児だった。
「見て! 新しい靴! それにね、今日から学校にも行けるんだって!」
少女は嬉しそうにくるりと回った。
ゼルヴァンは膝をつき、その頭を撫でた。
「そっか。よかったな」
「うん!」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「私、大きくなったらお医者さんになるの! それで、病気の人をいっぱい助けるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間。
ゼルヴァンは、自分の願いが間違っていなかったと確信した。
人間は、こんなにも簡単に笑えるのだ。
ほんの少し、暮らしが変わるだけで。
ほんの少し、未来に希望が持てるだけで。
それだけで、こんなにも。
「……よかった」
思わず漏れた言葉に、隣へ現れたネフィルが微笑んだ。
「ご満足いただけましたでしょうか、我が主」
「ああ。最高だよ」
ゼルヴァンは笑った。
「本当に、最高だ」
その日の夕方。
王都の西に位置する三つの農村が、地図から消えた。
住民は誰一人として、その異変に気づかなかった。
王国の記録から村の名前が消え、そこに住んでいた人々の記憶も、家族の歴史も、最初から存在しなかったものとして書き換えられていたからだ。
ただ一人。
ネフィルだけが、静かに呟いた。
「……第一の対価、受領いたしました」
◇ ◇ ◇
貧民街の奇跡は、瞬く間に王都全体へ広まった。
誰もが神の祝福だと騒ぎ、教会では連日祈祷が行われた。
そして、その奇跡の中心にいた青年の噂も、少しずつ広がっていった。
ゼルヴァン・クレイド。
貧民街の人々から、奇跡を呼んだ男として慕われる青年。
もっとも、本人は自分が何をしたのか、誰にも説明していなかった。
説明できるはずもなかった。
香炉の中から現れた精霊が、願いを叶えてくれた。
そんな話をしたところで、正気を疑われるだけだろう。
しかし、王宮は彼を放置しなかった。
ある日の午後。
ゼルヴァンの家に、一通の招待状が届いた。
差出人は、イシュメリア・ヴァルクレスト。
王女本人だった。
『先日は、楽しい時間をありがとうございました。
もしご迷惑でなければ、今度は私があなたを
お茶にお招きしたく存じます』
手紙を読み終えたゼルヴァンは、しばらく動かなかった。
そして。
「……ネフィル」
「はい、我が主」
「俺、何を着ていけばいい?」
ネフィルは初めて、声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
王宮の庭園は、ゼルヴァンが想像していた以上に美しかった。
白い大理石の回廊。
色とりどりの花々。
水晶を削り出した噴水。
庭の中央には、王家の紋章を象った巨大な薔薇の花壇が広がっている。
「……すげえな。花だけで俺の家が何軒建つんだ?」
「ふふっ。そういう感想をおっしゃる方は、初めてです」
イシュメリアは楽しそうに笑った。
今日は白いドレスを纏い、銀髪を緩やかに結い上げている。
その姿は、まさしく物語に登場する王女そのものだった。
「先日のこと、改めてお礼を申し上げます。あなたのおかげで、私は初めて城下の暮らしを知ることができました」
「大したことしてないって。焼き栗を買っただけだろ」
「いいえ」
イシュメリアは首を振った。
「私にとっては、とても大切な一日でした」
その声には、冗談めいた響きがなかった。
ゼルヴァンは思わず目を逸らした。
王女は少しだけ微笑むと、別の話題を口にした。
「それから……貧民街のことも、お聞きしました」
「……ああ」
「あなたが、あの場所の人々を助けたのですね」
「いや、俺が何かしたってわけじゃ……」
「皆さん、あなたのお名前を口にしていました」
イシュメリアは静かに続けた。
「ゼルヴァンという青年が、困っている人々を見捨てなかった。自分も貧しい暮らしをしていたのに、いつも誰かに食べ物を分けていた。そう教えていただきました」
ゼルヴァンは言葉に詰まった。
確かに、彼は時折、困っている者を助けていた。
だが、それは余裕があったからではない。
自分と同じように腹を空かせている人間を、見捨てられなかっただけだ。
「……大したことじゃないよ」
「いいえ。大したことです」
イシュメリアは真剣な表情で言った。
「私は王女です。国の誰よりも多くのものを与えられて育ちました。けれど、あの人々の苦しみを知ろうともしなかった。あなたは、私よりずっと王族らしいことをしていたのです」
「それは言い過ぎだろ」
「そうでしょうか?」
彼女は小さく首を傾げた。
「私は、そうは思いません」
ゼルヴァンは返す言葉を失った。
そして、気づいてしまった。
この人は、本当に民のことを考えている。
美しいだけの王女ではない。
自分の無知を恥じ、それを変えようとしている。
そんな彼女の横顔が、どうしようもなく眩しかった。
その日、二人は日が暮れるまで語り合った。
王都の暮らし。
貴族の義務。
平民の苦労。
そして、いつか実現したい未来について。
別れ際。
イシュメリアは、少しだけ頬を染めながら言った。
「……また、お会いできますか?」
ゼルヴァンは笑った。
「もちろん。焼き栗代、まだ返してもらってないからな」
王女は声を上げて笑った。
その笑顔を見ながら、ゼルヴァンは思った。
もしも。
もしも、自分が彼女の隣に立てる人間だったなら。
そんな願いが、胸の奥に芽生え始めていた。
◇ ◇ ◇
それから二か月。
ゼルヴァンとイシュメリアは、何度も顔を合わせるようになった。
最初は王宮の庭園で。
次は城下の市場で。
やがて、王女は護衛を伴って貧民街を訪れるようになり、救護院や工房を視察するようになった。
そのたびに、ゼルヴァンは彼女を案内した。
身分の違いは、確かに存在していた。
だが、二人の間に流れる時間は、それを少しずつ忘れさせていった。
ある日。
王宮からの帰り道で、ゼルヴァンはバルガスに呼び止められた。
「ゼルヴァン。少し話がある」
「なんだよ。今度は不敬罪か?」
「冗談を言っている場合ではない」
バルガスは険しい顔をしていた。
「殿下に、婚姻の話が進んでいる」
ゼルヴァンの足が止まった。
「……相手は?」
「宮廷魔導卿、オルディガ・レヴェンハルト」
その名を聞いた瞬間、ゼルヴァンは眉をひそめた。
オルディガ。
王国でも指折りの魔導師であり、国王の側近。
しかし、その評判は決して良いものではなかった。
禁忌魔術の研究。
行方不明になった弟子たち。
不自然なほど若さを保つ肉体。
王都には、彼にまつわる不気味な噂が絶えなかった。
「……王女様は、納得してるのか?」
「しておらん」
バルガスは即答した。
「だが、陛下はこの婚姻を強く望んでおられる。魔導卿の力を王家に取り込み、王権を盤石にするためだ」
「そんな理由で、娘を嫁に出すのかよ」
「それが、貴族社会というものだ」
ゼルヴァンは拳を握りしめた。
バルガスは彼を見つめ、静かに続けた。
「……お前が殿下をどう思っているのか、私は知らん。だが、これ以上近づけば、お前自身が危険に晒される」
「……忠告、ありがとな」
「ゼルヴァン」
「でも、俺は……」
ゼルヴァンは顔を上げた。
「俺は、あの人が泣くところを見たくない」
バルガスは長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……愚かな男だ」
「よく言われる」
「だが、嫌いではない」
それだけ言い残し、騎士は去っていった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ゼルヴァンは、銀の香炉を取り出した。
「ネフィル」
「お呼びでしょうか、我が主」
青白い煙とともに、精霊が現れる。
ゼルヴァンはしばらく黙っていた。
そして、意を決して口を開いた。
「……二つ目の願いを使いたい」
「承知いたしました。どのような願いでございましょう?」
「俺に、貴族としての身分をくれ」
ネフィルは静かに微笑んだ。
「以前は、お望みにならなかったはずですが」
「ああ。今でも、自分を別人にしたいわけじゃない」
ゼルヴァンは拳を握った。
「だから、俺の過去は消さなくていい。貧民街で育ったことも、屑拾いをしていたことも、全部そのままでいい」
彼は真っ直ぐにネフィルを見つめた。
「ただ、俺自身の功績で、王女様に求婚できるだけの地位が欲しい。誰かの記憶を書き換えて、最初から貴族だったことにするんじゃなくて、今の俺が、正式に爵位を得られるようにしてくれ」
ネフィルはしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
金色の瞳が、淡く輝く。
「第二の願いを受理いたします」
香炉から、青白い光が溢れた。
ゼルヴァンは目を閉じた。
遠くで、何かが砕ける音がした。
ガラスのような。
骨のような。
そして。
誰かが、悲鳴を上げた気がした。
◇ ◇ ◇
三日後。
王都に、衝撃的な知らせが届いた。
北方辺境に魔物の大群が出現し、王国軍の一部が壊滅したというのだ。
しかし、その混乱の中で、一人の青年が奇跡的な功績を挙げた。
ゼルヴァン・クレイド。
彼は偶然、北方への物資輸送隊に同行しており、魔物の襲撃に遭遇した際、崩落しかけた砦の避難路を発見した。
さらに、敵の進路を塞ぐ古い水門を開放し、数百人の兵士と避難民を救ったのである。
本人には、奇妙な感覚があった。
確かに、自分は北方へ向かった。
確かに、砦で人々を救った。
その記憶は鮮明だった。
しかし、なぜ北方へ向かうことになったのか、そのきっかけだけが曖昧だった。
まるで、誰かに背中を押されるように、自然とそこへ導かれたかのように。
それでも、彼の功績は本物だった。
国王はその働きを高く評価し、ゼルヴァンに男爵位を授けた。
さらに、北方の小領地と屋敷、そして十分な財産を与えた。
叙爵式の日。
ゼルヴァンは、王宮の大広間で膝をついていた。
「ゼルヴァン・クレイド。そなたの勇気と忠誠を称え、ここに男爵位を授ける」
グラディオス国王の声が響く。
五十三歳の国王は、豪奢な王冠を戴きながらも、その顔色はひどく悪かった。
頬はこけ、目の下には深い隈がある。
それでも、王としての威厳だけは失っていなかった。
「ありがたき幸せにございます」
ゼルヴァンは頭を下げた。
その瞬間。
広間の奥で、イシュメリアが微笑んだ。
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。
ゼルヴァンは、その涙の意味を理解した。
そして、心の中で誓った。
必ず、この人を幸せにする。
そのためなら、どんな努力だって惜しまない。
彼はまだ知らなかった。
北方で壊滅した王国軍の兵士たちが、本来ならば死ぬはずのなかった人々だったことを。
そして、彼らの死によって空いた功績と爵位が、自分の願いを叶えるために用意されたものだったことを。
◇ ◇ ◇
ゼルヴァンが男爵となってから、半年が過ぎた。
その間に、彼は驚くほどの速さで貴族社会に馴染んでいった。
もちろん、失敗も多かった。
晩餐会で食器の順番を間違えたこともあれば、貴族特有の遠回しな嫌味を理解できず、真正面から言い返して場を凍りつかせたこともある。
だが、そんな彼を、イシュメリアはいつも笑って見守っていた。
「ゼルヴァン様。こちらの杯は、食前酒用です」
「……さっきのは?」
「そちらは食後酒用です」
「酒を飲む順番にまで身分があるのかよ」
「ふふっ。そういう決まりなのです」
「面倒くさい世界だな、貴族ってのは」
「ええ。私も、そう思います」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、王宮では公然と噂されるようになった。
第一王女は、あの成り上がり男爵に心を寄せている。
そして、男爵もまた、王女を深く愛している。
もちろん、反対する者は多かった。
特に宮廷魔導卿オルディガは、露骨な敵意を隠そうともしなかった。
「……随分と、身の程知らずな男が現れたものだ」
ある夜の晩餐会。
オルディガは、ゼルヴァンにそう告げた。
痩せた顔に浮かぶ笑みは、冷たかった。
「貧民街の屑拾いが、今や王女殿下の隣に立つとは。まったく、世の中には奇妙なことがある」
ゼルヴァンは杯を置いた。
「奇妙なことなら、他にもあるぜ」
「ほう?」
「四十を過ぎた男が、十九の王女様にしつこく求婚してるって話だ。そっちのほうが、よっぽど奇妙じゃないか?」
周囲の貴族たちが息を呑んだ。
オルディガの片眼鏡が、わずかに光る。
「……口の利き方には気をつけたまえ、男爵」
「そっちこそ。王女様が嫌がってることくらい、いい加減理解したらどうだ?」
沈黙。
オルディガは、しばらくゼルヴァンを見つめていた。
そして、不意に笑った。
「……なるほど。実に興味深い」
その声には、奇妙な愉悦が混じっていた。
「君のような男が、どうやってここまで登ってきたのか。ぜひ、一度詳しく聞いてみたいものだ」
「遠慮しとくよ。あんたと酒を飲んでも、美味くなさそうだからな」
「……そうか」
オルディガは静かに杯を傾けた。
「では、また別の機会にしよう」
その夜。
宮廷魔導卿は、自室に戻ると、古い魔導書を開いた。
黒い革で装丁された、禁書だった。
その中の一頁に、奇妙な香炉の絵が描かれている。
翼を広げた鳥。
泣き叫ぶ人間。
そして、古代文字で記された一文。
『願望の精霊は、三つの願いを叶える。
第一の願いは世界を削り、
第二の願いは運命を歪め、
第三の願いは所有者を定める』
オルディガは、ゆっくりと笑った。
「……見つけたぞ」
長年探し求めていたもの。
王家の禁忌。
かつて国を滅ぼしかけた、願望の器。
「まさか、こんなところにあったとはな」
彼は書物を閉じた。
そして、誰もいない部屋で呟いた。
「あと一つだ。あと一つ願わせれば……」
◇ ◇ ◇
春の終わり。
王宮の薔薇園で、ゼルヴァンはイシュメリアに求婚した。
夕暮れの庭園には、淡い花の香りが漂っていた。
白い薔薇が風に揺れ、噴水の水音が静かに響いている。
ゼルヴァンは、彼女の前に膝をついた。
「イシュメリア」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「……ゼルヴァン様?」
「俺は、立派な貴族じゃない。礼儀も知らないし、昔は盗賊まがいの連中と喧嘩ばかりしてた。今だって、貴族の集まりじゃ笑い者になることがある」
彼は小さく笑った。
「でも、あんたのことだけは、誰よりも大切にしたいと思ってる」
イシュメリアの唇が、震えた。
「……ゼルヴァン様」
「俺と、結婚してくれないか」
彼は、小さな指輪を差し出した。
高価な宝石ではなかった。
ゼルヴァンが自分で磨き、細工した銀の指輪だった。
内側には、小さな栗の実が彫られている。
イシュメリアは、それを見た瞬間、両手で口元を覆った。
「……覚えて、いてくださったのですね」
「ああ。俺たちが初めて会った日のことだからな」
涙が、一粒こぼれた。
そして、彼女は笑った。
「……はい」
その声は、震えていた。
「喜んで、お受けいたします」
ゼルヴァンは立ち上がり、彼女を抱きしめた。
イシュメリアもまた、彼の背中に腕を回した。
夕暮れの薔薇園で、二人は長い時間、抱き合っていた。
その姿を、回廊の影から見つめる者がいた。
バルガスだった。
無骨な騎士は、珍しく柔らかな表情を浮かべていた。
「……まったく。世話の焼ける二人だ」
彼は小さく笑った。
そして、静かにその場を離れた。
このとき、誰もが思っていた。
身分の違いを乗り越えた恋。
貧しい青年が努力によって地位を得て、王女の心を射止めた物語。
それは、きっと幸福な結末を迎えるのだろうと。
実際、王国中の人々が二人を祝福した。
貧民街では祭りが開かれ、子供たちは花を撒いた。
王宮でも、国王が正式に婚約を認めた。
オルディガとの婚姻話は白紙となり、ゼルヴァンとイシュメリアの結婚式は、三か月後に執り行われることとなった。
そして。
結婚式まで、あと七日となった夜。
すべてが壊れ始めた。
◇ ◇ ◇
「……ネフィル」
ゼルヴァンは、机の上に置かれた銀の香炉を見つめていた。
「お呼びでしょうか、我が主」
青白い煙が立ち上り、精霊が姿を現す。
彼女はいつものように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……一つ、聞いていいか?」
「何なりと」
「願いの対価って、結局なんなんだ?」
ネフィルは答えなかった。
ゼルヴァンは、ゆっくりと続けた。
「最初の願いを叶えた後、王都の外で村が三つ消えたって噂を聞いた。二つ目の願いの後には、北方で大勢の兵士が死んだ」
彼は拳を握った。
「偶然だと思ってた。いや、偶然だと思いたかった。でも……」
ネフィルは静かに彼を見つめていた。
「……あれは、俺の願いのせいなのか?」
長い沈黙が流れた。
やがて、ネフィルが口を開いた。
「……はい」
ゼルヴァンの顔から、血の気が引いた。
「第一の願いでは、王都の貧民街を豊かにするため、周辺地域に存在した富と労働力を再配分いたしました」
「……再配分?」
「三つの村を、存在しなかったことにいたしました」
ゼルヴァンは息を呑んだ。
「……なんだって?」
「村に住んでいた人々、その財産、建物、土地の記録、そして彼らに関する記憶。それらを世界から切り離し、願いの実現に必要な資源へ変換いたしました」
「……人間を、消したのか?」
「はい」
ネフィルは、淡々と答えた。
「第二の願いでは、あなた様が爵位を得るために必要な功績を作り出しました。北方の魔物の進路を変更し、砦を襲撃させたのです」
「……待て」
「その結果、王国軍の一部が壊滅し、あなた様が救助活動を行う機会が生まれました」
「待てって言ってるだろ!!」
ゼルヴァンは机を叩いた。
銀の香炉が跳ねる。
「お前……お前、そんなこと、一言も……!」
「お尋ねになりませんでしたので」
ネフィルは静かに答えた。
「私は、願いには対価があると申し上げました」
「だからって、人を殺していいわけないだろ!」
「……我が主」
ネフィルは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「人間の願いとは、そういうものでございます」
ゼルヴァンは言葉を失った。
「誰かが富を得れば、誰かが失う。誰かが地位を得れば、誰かが退く。誰かが愛されれば、誰かが選ばれない。願いとは、世界に存在する無数の可能性の中から、一つを強引に選び取る行為なのです」
「……そんな理屈、認められるか」
「認める必要はございません」
ネフィルは頭を下げた。
「すでに、願いは叶っておりますので」
ゼルヴァンは椅子に崩れ落ちた。
自分が救ったと思っていた人々。
自分の努力で得たと思っていた爵位。
その裏側に、数えきれない犠牲があった。
知らなかった。
何も知らなかった。
だが、知らなかったからといって、許されるのだろうか。
「……最後の願いは、使わない」
ゼルヴァンは震える声で言った。
「絶対に、使わない。こんなもの、もう二度と……」
「承知いたしました」
ネフィルは静かに頷いた。
そして。
「ですが、我が主」
その金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……願いを使わずに済むのであれば、それが最も幸福な結末でございましょう」
ゼルヴァンは、その言葉の意味を理解できなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
イシュメリアが、王宮から姿を消した。
正確には、王宮の地下にある古い礼拝堂へ連れ去られていた。
ゼルヴァンがそれを知ったのは、バルガスが血まみれの姿で屋敷に駆け込んできたときだった。
「ゼルヴァン……!」
「バルガス!? どうした、その傷!」
騎士の左腕は、肩から先が不自然な方向へ曲がっていた。
額には深い裂傷があり、甲冑には黒い血がこびりついている。
「……殿下が、魔導卿に捕らえられた」
「なんだって!?」
「王宮の地下だ。陛下も……陛下も、奴の術にかかっている」
バルガスは膝をついた。
「私は止めようとした。だが、奴の魔術は……」
その瞬間。
騎士の背後に、黒い影が現れた。
影は人間の形をしていた。
しかし、顔がなかった。
黒い甲冑を纏い、長い槍を手にしている。
「……逃げろ!」
バルガスが叫んだ。
影の槍が、彼の胸を貫いた。
鈍い音が響く。
騎士の口から、血が溢れた。
「バルガス!!」
ゼルヴァンが駆け寄る。
だが、バルガスは彼の腕を掴み、血の混じった息を吐いた。
「……殿下を……頼む……」
その瞳から、光が消えた。
ゼルヴァンは、しばらく動けなかった。
初めて会ったときは、怖い騎士だと思った。
何度も叱られた。
礼儀作法を教わり、剣の稽古をつけてもらい、酒を飲みながら王女の話をした。
その男が。
今、自分の腕の中で死んでいる。
「……ふざけるなよ」
ゼルヴァンは、ゆっくりと顔を上げた。
「ふざけるな……!」
影の騎士が槍を構える。
その瞬間、ゼルヴァンは叫んだ。
「ネフィル!!」
青白い煙が爆発するように広がった。
精霊が姿を現す。
「お呼びでしょうか、我が主」
「こいつを止めろ!」
「……願いとして、承りますか?」
ゼルヴァンは歯を食いしばった。
最後の願い。
使えば、また誰かが犠牲になる。
だが。
目の前には、バルガスを殺した怪物がいる。
そして、イシュメリアが危険に晒されている。
「……くそっ!」
彼は剣を抜いた。
「願いなんか使わねえ! 俺がやる!」
影の騎士が突進した。
ゼルヴァンは横へ跳び、槍を避ける。
床が砕け、石片が飛び散った。
彼は懐へ飛び込み、剣を振るった。
しかし、刃は黒い甲冑に弾かれた。
「ぐっ……!」
影の腕が、ゼルヴァンの腹を殴りつけた。
凄まじい衝撃。
彼は壁まで吹き飛ばされ、血を吐いた。
肋骨が折れた。
呼吸するたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
それでも、立ち上がった。
「……まだだ」
剣を握り直す。
「まだ、終わってねえ……!」
影の騎士が再び槍を構えた。
その瞬間。
ネフィルが、静かに手を伸ばした。
青白い光が、ゼルヴァンの剣を包む。
「……これは、願いではございません」
彼女は囁いた。
「私自身の、ささやかな助力でございます」
剣が、淡く輝いた。
ゼルヴァンは叫びながら踏み込んだ。
刃が、影の騎士の胸を貫く。
黒い甲冑が砕け、内部から濃い煙が噴き出した。
影は音もなく崩れ落ちた。
ゼルヴァンは荒い息を吐きながら、剣を支えに立っていた。
「……ネフィル」
「はい」
「ありがとう」
精霊は、微笑まなかった。
ただ、静かに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
王宮地下の礼拝堂。
そこは、王国の歴史から抹消された場所だった。
壁には無数の人骨が埋め込まれ、天井からは黒い鎖が垂れ下がっている。
中央には巨大な魔法陣が描かれ、その中心にイシュメリアが立たされていた。
白いドレスは血で汚れ、両手は鎖で拘束されている。
そして、その首には、黒い金属の首輪が嵌められていた。
「……ゼルヴァン……!」
彼女は、彼の姿を見るなり涙を浮かべた。
「来ては……いけません……!」
ゼルヴァンは走り出そうとした。
しかし。
「そこまでだ、男爵」
冷たい声が響いた。
礼拝堂の奥から、オルディガが姿を現す。
その隣には、グラディオス国王がいた。
国王は、虚ろな瞳で立ち尽くしている。
口元からは涎が垂れ、指先は小刻みに震えていた。
「……陛下?」
ゼルヴァンは息を呑んだ。
オルディガは愉快そうに笑った。
「安心したまえ。まだ生きている。ただ、少々余計な思考を取り除いただけだ」
「……てめえ!」
「おや、怖い顔だ。せっかく王女殿下との婚姻を認めていただいたというのに、随分と礼儀を忘れたものだな」
ゼルヴァンは剣を構えた。
「イシュメリアを放せ!」
「もちろん、構わんとも」
オルディガは両手を広げた。
「ただし、一つ条件がある」
その視線が、ゼルヴァンの腰に下げられた銀の香炉へ向けられた。
「……その香炉を渡してもらおうか」
ゼルヴァンの背筋に、冷たいものが走った。
「……知ってたのか」
「当然だ。私は長年、その器を探していたのだからな」
オルディガは笑った。
「願望の精霊ネフィル。三つの願いを叶える、王家の禁忌。まさか、貧民街の屑拾いが拾い上げるとは思わなかったが……」
彼は、ゆっくりと歩み寄った。
「君のおかげで、実に都合よく事が進んだ」
「……どういう意味だ?」
「知らないのか?」
オルディガは、心底愉快そうに笑った。
「その精霊は、三つ目の願いを叶えたとき、完全に解放されるのだよ」
ゼルヴァンは目を見開いた。
「……解放?」
「そうだ。願いの精霊は、世界の均衡を破壊する存在。かつて王家は、その力を利用して国を築いた。しかし、最後の願いによって精霊が解放され、王都の半分が消滅した」
オルディガは、指を鳴らした。
壁に埋め込まれた人骨が、一斉に震えた。
「以来、王家は精霊を封印し、その存在を隠してきた。だが、私は違う。あの力を完全に支配できれば、老いも死も、王権さえ超越できる」
彼は、国王の肩に手を置いた。
「この男のように、衰えた肉体にしがみつく必要もなくなるのだ」
グラディオス国王は、何も答えなかった。
ただ、虚ろな目で前を見つめていた。
「……狂ってやがる」
ゼルヴァンが吐き捨てる。
オルディガは肩をすくめた。
「狂っている? いいや。私は、ただ願っているだけだよ」
彼は微笑んだ。
「君と同じようにな」
ゼルヴァンは歯を食いしばった。
「……香炉は渡さない」
「そうか」
オルディガは、あっさりと頷いた。
「では、王女殿下には死んでいただこう」
彼が指を鳴らした。
イシュメリアの首輪が、赤く輝いた。
「……あ、あああああっ!!」
悲鳴が響いた。
首輪から伸びた細い棘が、彼女の首筋へ食い込んでいく。
白い肌を伝い、血が流れ落ちた。
「やめろ!!」
ゼルヴァンが叫ぶ。
オルディガは冷たく笑った。
「どうする、男爵? 香炉を渡すか。それとも、愛する女がゆっくりと死ぬところを見届けるか?」
イシュメリアは、苦痛に顔を歪めながら首を振った。
「……だめ……です……」
「イシュメリア!」
「渡しては……いけません……!」
彼女は涙を流しながら叫んだ。
「私は……あなたが……生きていてくだされば……!」
その瞬間。
オルディガが、首輪の魔術を強めた。
イシュメリアの悲鳴が、礼拝堂に響き渡った。
ゼルヴァンは、もう耐えられなかった。
「……わかった」
彼は、震える手で香炉を取り出した。
「渡す。だから……彼女を放してくれ」
オルディガは、満足そうに笑った。
「賢明な判断だ」
ゼルヴァンは、香炉を差し出した。
その瞬間。
ネフィルが現れた。
彼女は、ゼルヴァンを見つめた。
「……我が主」
「……ごめん」
ゼルヴァンは、俯いた。
「俺には……これしか、できない」
ネフィルは、しばらく彼を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……いいえ」
その声は、どこか悲しげだった。
「あなた様は、十分に頑張られました」
オルディガが香炉を奪い取った。
そして、高らかに笑った。
「ついに……ついに手に入れたぞ!」
彼は香炉を掲げた。
「精霊よ! 新たな主人として命じる! 私に永遠の命と、世界を支配する力を与えよ!」
しかし。
何も起こらなかった。
「……なに?」
オルディガの笑みが消えた。
ネフィルは、静かに答えた。
「申し訳ございません。現在の所有者は、ゼルヴァン様でございます」
「馬鹿な! 香炉は私の手にある!」
「所有権は、三つの願いを使い切るまで移転いたしません」
オルディガの顔が歪んだ。
「……ならば!」
彼はゼルヴァンへ向き直った。
「最後の願いを使え! 精霊を解放しろ!」
ゼルヴァンは首を振った。
「……断る」
「ならば、王女を殺す!」
「……断る!」
オルディガは激昂した。
その指が、再び動く。
イシュメリアの首輪が赤く輝いた。
ゼルヴァンは叫んだ。
「やめろおおおおっ!!」
その瞬間。
ネフィルが、静かに口を開いた。
「……我が主」
彼女の金色の瞳が、まっすぐにゼルヴァンを見つめていた。
「あなた様には、まだ一つだけ願いが残されております」
「……ネフィル?」
「どうか、お忘れなきよう」
彼女は、微笑んだ。
「願いは、必ず叶います」
ゼルヴァンは、息を呑んだ。
最後の願い。
それを使えば、誰かが犠牲になる。
だが。
目の前で、イシュメリアが死にかけている。
彼女は、必死に首を振っていた。
願わないで。
そう言っている。
だが、ゼルヴァンには、もう選べなかった。
「……頼む」
彼は、涙を流しながら呟いた。
「ネフィル……」
精霊は、静かに頭を下げた。
「はい、我が主」
ゼルヴァンは、叫んだ。
「イシュメリアを救ってくれ!!」
銀の香炉が、砕けた。
◇ ◇ ◇
音が消えた。
光が消えた。
世界から、色が失われた。
ゼルヴァンは、何も見えない空間に立っていた。
目の前には、ネフィルがいた。
彼女は、これまで見せたことのない表情を浮かべていた。
悲しみ。
そして、安堵。
「……第三の願いを、受理いたしました」
その声が、静かに響く。
「これより、最後の対価を徴収いたします」
ゼルヴァンは、震える声で尋ねた。
「……何を、するんだ?」
ネフィルは、ゆっくりと答えた。
「あなた様の願いを、永遠に叶え続けます」
「……え?」
「イシュメリア様を救う。その願いを、永遠に」
ゼルヴァンは、理解できなかった。
「……どういう、意味だ?」
ネフィルは、静かに手を伸ばした。
その指先が、ゼルヴァンの胸に触れる。
「人間は、いずれ死にます。病によって、老いによって、事故によって、あるいは他者の悪意によって」
彼女の声は、どこまでも穏やかだった。
「ですが、あなた様は、イシュメリア様を救うことを願われました」
「……ああ」
「その願いを完全に叶えるためには、彼女が二度と死なないようにしなければなりません」
ゼルヴァンの背筋に、冷たいものが走った。
「……待て」
「彼女を傷つける者を排除し、彼女の命を脅かすものを取り除き、彼女が永遠に生き続けられる世界を作り上げます」
「待て……!」
ネフィルは、微笑んだ。
「そして、そのための対価は……」
彼女の指が、ゼルヴァンの胸に沈んだ。
痛みはなかった。
ただ、心臓を冷たい手で握られたような感覚があった。
「……あなた様の、すべてでございます」
ゼルヴァンは、悲鳴を上げた。
◇ ◇ ◇
王宮地下の礼拝堂に、凄まじい光が溢れた。
オルディガは、思わず腕で顔を覆った。
「な、なんだ……!?」
魔法陣が砕け散る。
壁に埋め込まれた人骨が、一斉に崩れ落ちた。
国王の身体が、糸の切れた人形のように倒れる。
そして。
イシュメリアの首輪が、音を立てて砕けた。
「……あ……」
彼女は、ゆっくりと膝をついた。
首筋の傷が消えていく。
流れた血が、逆戻りするように肌へ吸い込まれていく。
その身体が、淡い金色に輝いた。
「……ゼルヴァン……?」
彼女は顔を上げた。
そこにいたのは、愛する青年だった。
だが。
その姿は、もはや人間ではなかった。
ゼルヴァンの胸から、無数の黒い鎖が伸びていた。
鎖は床を這い、壁を貫き、天井へと広がっている。
彼の皮膚には、古代文字が浮かび上がっていた。
目からは血の涙が流れ、口元は苦痛に歪んでいる。
「……イシュ……メリア……」
彼は、必死に手を伸ばした。
だが、その腕が途中で止まった。
黒い鎖が、彼の身体を引き裂くように広がったからだ。
「……あ、あああああっ!!」
絶叫。
ゼルヴァンの背中から、黒い翼が生えた。
しかし、それは鳥の翼ではなかった。
無数の人間の腕が絡み合い、翼の形を作っていた。
指先は痙攣し、爪は互いの肉を掻きむしっている。
翼の隙間から、苦しげな呻き声が漏れた。
「……なんだ、これは……」
オルディガは、呆然と呟いた。
その背後に、ネフィルが現れた。
「第三の願いが、叶えられました」
彼女は、静かに告げた。
「これより、世界の再編を開始いたします」
オルディガは、ようやく理解した。
自分が探し求めていたもの。
それは、願いを叶える道具などではなかった。
願いを餌にして、人間の欲望を世界へ刻み込む存在。
そして、三つ目の願いを叶えたとき。
その願いを永遠に実行し続ける、災厄そのものへと変貌するのだ。
「……馬鹿な……!」
オルディガは後ずさった。
「こんな……こんなはずでは……!」
ネフィルは、彼を見つめた。
「あなた様は、永遠の命をお望みでしたね」
「……ひっ!」
「では、その願いも叶えて差し上げましょう」
オルディガの身体が、突然硬直した。
皮膚が裂け、内側から黒い糸が溢れ出す。
糸は骨に絡みつき、肉を縫い合わせ、彼の身体を奇妙な形へと変えていった。
「ぎゃあああああっ!!」
悲鳴が響いた。
彼の手足は細長く引き伸ばされ、指は枝のように分かれた。
顔の皮膚が剥がれ落ち、眼球だけが不自然に残った。
そして、身体全体が黒い樹木へと変わっていった。
礼拝堂の中央に、一本の醜い木が立っていた。
幹には人間の顔が埋まり、枝先には指が生えている。
その口が、絶え間なく呻いていた。
「……殺して……くれ……」
ネフィルは、微笑んだ。
「申し訳ございません」
彼女は、優雅に頭を下げた。
「永遠の命を、お望みでしたので」
オルディガの悲鳴は、いつまでも続いた。
◇ ◇ ◇
イシュメリアは、ゼルヴァンへ駆け寄った。
「ゼルヴァン!!」
彼の身体は、黒い鎖に覆われていた。
それでも、彼女は構わず抱きしめた。
「お願いです! しっかりしてください! 私です、イシュメリアです!」
ゼルヴァンは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだ人間の光が残っていた。
「……イシュ……メリア……」
「はい! ここにいます! 私は無事です! だから、もう……!」
彼女は、涙を流しながら叫んだ。
「もう、私のために苦しまないでください!!」
ゼルヴァンの唇が、わずかに動いた。
「……よかった……」
彼は、微笑もうとした。
「……生きて……て……」
その瞬間。
彼の瞳から、光が消えた。
黒い鎖が、激しく震えた。
そして。
ゼルヴァンの口から、別の声が響いた。
『保護対象を確認』
低く、感情のない声だった。
『イシュメリア・ヴァルクレスト。生命維持を最優先事項として設定』
イシュメリアは、息を呑んだ。
「……ゼルヴァン?」
『周辺環境を解析。危険因子を検出』
黒い鎖が、礼拝堂全体へ広がった。
天井が崩れ、床が割れる。
イシュメリアは必死に彼へしがみついた。
「お願い……! 戻ってきて……!」
だが、返事はなかった。
代わりに、冷たい声が響いた。
『保護対象の精神的苦痛を検出』
黒い鎖が、イシュメリアの身体へ伸びた。
『苦痛の原因を排除します』
「……え?」
鎖が、彼女の頭を包み込んだ。
イシュメリアは悲鳴を上げた。
脳の奥に、冷たい何かが流れ込んでくる。
記憶が、削られていく。
父の顔。
母の声。
幼い頃の思い出。
そして。
焼き栗を買ってくれた青年の笑顔。
「……いや……!」
彼女は必死に抵抗した。
「それだけは……! それだけは、奪わないで……!」
だが、鎖は止まらなかった。
悲しみの原因となる記憶。
恐怖の原因となる記憶。
苦痛の原因となる感情。
それらが、一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、ゼルヴァンへの愛情だった。
彼女は、それだけを必死に抱きしめた。
だが。
『精神的苦痛の根源を確認』
冷たい声が響いた。
『対象への愛情を、危険因子として認定』
「……やめて……」
イシュメリアの瞳から、涙が溢れた。
「お願い……ゼルヴァン……」
その声は、もう彼には届かなかった。
『排除します』
最後の記憶が、消えた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王都ヴァルクレストから、すべての争いが消えた。
貴族同士の権力争いも。
商人たちの利権争いも。
貧民街の喧嘩も。
すべてが、静かになった。
人々は、笑っていた。
誰もが幸福そうに微笑んでいた。
しかし、その笑顔は、どこか不自然だった。
街角では、子供たちが同じ歌を繰り返し歌っていた。
市場では、商人たちが同じ言葉を何度も口にしていた。
そして、王宮では。
イシュメリアが、玉座に座っていた。
白いドレス。
銀色の冠。
そして、首には黒い首輪。
その首輪には、小さな文字が刻まれていた。
『ゼルヴァン・クレイド』
彼女は、穏やかに微笑んでいた。
何も悲しくなかった。
何も怖くなかった。
何も望まなかった。
ただ、毎日、同じ時間に目を覚まし、同じ食事を取り、同じ庭園を散歩した。
そして、夜になると。
玉座の間の奥から、黒い影が現れる。
巨大な翼を持つ、人間の形をした怪物。
かつて、ゼルヴァン・クレイドと呼ばれていた存在だった。
怪物は、イシュメリアの前に跪く。
『本日も、あなた様の安全は確保されました』
イシュメリアは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
『ご不便はございませんか』
「いいえ。何もありません」
『お望みのものはございますか』
「いいえ。何も望みません」
怪物は、満足そうに頷いた。
『それは、何よりです』
そして、彼女の手を取った。
黒い爪が、白い指先に触れる。
イシュメリアは、微笑んだままだった。
恐怖も、嫌悪も、愛情もなかった。
ただ、幸福だった。
永遠に。
何も感じることのない、幸福の中で。
◇ ◇ ◇
それから、七日後。
王都の外へ逃げ延びた人々は、奇妙な光景を目撃した。
王都を囲む城壁が、黒い結晶へと変わっていた。
門は閉ざされ、空には巨大な翼の影が広がっている。
街の外から中を覗くと、人々が笑っていた。
誰もが幸福そうだった。
しかし、誰一人として、街の外へ出ようとはしなかった。
王都の外では、飢饉が広がり始めていた。
作物が枯れ、井戸が涸れ、魔物が増えた。
それでも、王都の中だけは豊かだった。
食料は尽きず、病人は現れず、誰も老いることがなかった。
ただし。
街の人々は、少しずつ人間ではなくなっていった。
最初に変わったのは、子供たちだった。
彼らは成長しなくなった。
次に、老人たちの皺が消えた。
やがて、すべての人間が同じような顔立ちになっていった。
笑顔。
穏やかな瞳。
そして、何も望まない心。
王都は、完全な幸福の街となった。
その中心に。
白銀の髪を持つ王女がいた。
そして、その隣には。
かつて彼女を愛した青年の成れの果てが、永遠に跪いていた。
◇ ◇ ◇
ネフィルは、王宮の最上階から、その光景を見下ろしていた。
黒い結晶に覆われた王都。
永遠の幸福に閉じ込められた人々。
そして、玉座に座る王女と、その隣に跪く怪物。
彼女は、静かに目を閉じた。
「……これで、三つ目の願いも叶いました」
その声には、喜びも悲しみもなかった。
ただ、長い仕事を終えた者のような疲労だけがあった。
彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。
その掌には、小さな銀の香炉があった。
砕けたはずの香炉。
だが、そこには傷一つなかった。
ネフィルは、静かに微笑んだ。
「……次は、どなたが拾ってくださるのでしょうか」
そして、香炉を窓の外へ放り投げた。
銀の器は、風に乗って遠くへ飛んでいく。
王都を越え。
山を越え。
海を越え。
やがて、どこかの国の、どこかの街へと落ちていった。
ネフィルは、その行方を見送った。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……どうか、次の方は」
彼女は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……何も願いませんように」
◇ ◇ ◇
王宮の玉座の間。
イシュメリアは、今日も微笑んでいた。
その隣には、黒い翼を持つ怪物が跪いている。
『お望みのものはございますか』
いつもの問いかけ。
いつもの時間。
いつもの幸福。
イシュメリアは、微笑んだ。
「いいえ。何も望みません」
怪物は、満足そうに頷いた。
『それは、何よりです』
そして。
ほんの一瞬。
怪物の胸の奥で、何かが動いた。
人間だった頃の、最後の記憶。
市場の片隅。
焼き栗を頬張る少女。
楽しそうに笑う、白銀の髪の王女。
そして。
『……焼き栗代、まだ返してもらってないからな』
そんな、くだらない冗談。
怪物の頬を、一筋の血が伝った。
しかし、すぐに黒い鎖が動き、その涙を拭い去った。
『異常を検出』
冷たい声が響く。
『不要な記憶を削除します』
最後の記憶が、消えた。
怪物は、再び穏やかに跪いた。
『本日も、あなた様の安全は確保されました』
イシュメリアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔は、美しかった。
かつてゼルヴァンが恋をした、あの日の笑顔と同じくらい。
ただ一つ、違っていたのは。
もう、その笑顔を見て幸せになる人間が、どこにもいないということだった。
【完】
【登場人物】
◆ゼルヴァン・クレイド
本作の主人公。二十二歳。
王都の貧民街で育った青年で、現在は貴族の屋敷から
出る廃品を買い取り、修理して売ることで生計を立てている。
口が達者で機転も利くが、根はお人好し。
幼い頃から貴族に虐げられてきたため、身分によって
人間の価値が決まる社会を嫌っている。
ある日、奇妙な銀の香炉を拾ったことで運命が変わる。
◆イシュメリア・ヴァルクレスト
十九歳。ヴァルクレスト王国の第一王女。
白銀の髪と紫水晶の瞳を持つ、聡明で美しい女性。
王族としての責任感が強く、民の暮らしにも関心を寄せる。
一方で、王家の決めた婚姻から逃れられない自分の立場に
深い閉塞感を抱いている。
身分を隠して城下へ出た際、ゼルヴァンと出会う。
◆ネフィル
外見年齢二十代半ば。銀の香炉に封じられた願望の精霊。
青白い肌、腰まで伸びる黒髪、金色の瞳を持つ女性の姿。
穏やかで礼儀正しく、主人に対して従順に振る舞う。
香炉の所有者の願いを三つ叶えることができるが、
願いには必ず対価が発生する。
その対価について、自分から説明することはない。
◆グラディオス・ヴァルクレスト
五十三歳。ヴァルクレスト王国の国王。
イシュメリアの父親。
かつては民に慕われた名君だったが、近年は病と
老いへの恐怖から、次第に猜疑心を強めている。
娘を愛していると公言する一方、王家の存続のためなら
娘の幸福さえ犠牲にする冷酷さを持つ。
◆オルディガ・レヴェンハルト
四十一歳。王国の宮廷魔導卿。
国王の側近として絶大な権力を握る男。
痩せた体格に灰色の長髪、片眼鏡をかけた知的な風貌。
古代魔術と禁忌の研究に精通している。
王女との婚姻を望み、王位継承に介入しようとしている。
銀の香炉に関する秘密を知る数少ない人物。
◆バルガス・ロイフェン
三十四歳。王国近衛騎士団の副団長。
黒髪を短く刈り込んだ、頑健な体格の騎士。
厳格で無愛想だが、騎士としての誇りを重んじる。
貴族の腐敗に嫌悪感を抱いており、王女の理想に共感する。
ゼルヴァンの出自を知りながらも、彼の人柄を認めていく。




