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灰冠の花嫁と、三つの願いを喰らう王

掲載日:2026/11/04


 人間の願いには、値段がある。


 金貨で買える願いもあれば、命を差し出さなければ叶わない願いもある。


 そして、この世には、叶えてしまったことを一生後悔する願いも存在する。


 ゼルヴァン・クレイドがその事実を知ったのは、愛する女の首に、自分の名前が刻まれた首輪を嵌められた夜だった。


 もっとも、そのときには、もう何もかもが手遅れだったのだが。



     ◇ ◇ ◇



「おい、そこの屑拾い! その手を止めろ!」


 王都ヴァルクレストの東区画。


 貴族街と貧民街を隔てる石橋の下で、ゼルヴァンは厄介な声に顔をしかめた。


 振り返ると、赤い羽根飾りをつけた衛兵が二人、こちらに向かって歩いてくる。


 そのうちの一人は、昨日もゼルヴァンから銅貨を巻き上げた男だった。


「なんだよ。また通行税か? 昨日払ったばかりだろ」


「今日は廃品取扱税だ。貴族街から持ち出された品物には、正当な税が課せられる」


「へえ。昨日までなかった税金が、一晩で生まれたのか。そいつは立派な出世だな。俺より働き者じゃないか」


「貴様、衛兵を愚弄するつもりか!」


 衛兵が腰の剣に手をかける。


 ゼルヴァンは慌てて両手を上げた。


「冗談だって。ほら、これで勘弁してくれよ」


 差し出したのは銅貨三枚。


 本日の稼ぎの半分だった。


 衛兵は鼻を鳴らして硬貨を奪い取ると、ゼルヴァンの肩を乱暴に突き飛ばした。


「次からは最初から素直に払え。貧民の分際で口を利くな」


 去っていく背中を見送りながら、ゼルヴァンは小さく舌打ちした。


「貧民の分際、ねえ……。人間の価値が財布の重さで決まるなら、あいつらの頭の中身は随分と軽そうだ」


 もっとも、そんな悪態をついたところで銅貨は戻ってこない。


 彼は背負っていた麻袋を担ぎ直し、橋の下に広がる廃棄場へ足を向けた。


 王都には奇妙な決まりがある。


 貴族の使った食器や装飾品は、たとえ壊れていても平民が勝手に拾ってはならない。


 しかし、正式に廃棄された品物については例外だった。


 そのためゼルヴァンは毎朝、貴族街から運び出される廃品を調べ、修理できそうな品物を探している。


 欠けた銀杯。


 脚の折れた燭台。


 宝石を取り外された指輪。


 そんなものを直して売れば、数日分の食費くらいにはなる。


「さて、今日は何か当たりがあるといいんだが……」


 積み上がった木箱をどかしたときだった。


 ゼルヴァンの目に、奇妙な銀色が映った。


 それは、古びた香炉だった。


 両手で包めるほどの大きさで、表面には見たこともない文字がびっしりと刻まれている。


 蓋の部分には、翼を広げた鳥とも、泣き叫ぶ人間ともつかない装飾が施されていた。


「なんだ、これ。随分と凝った細工だな」


 手に取ると、不思議なほど冷たかった。


 銀製品にしては軽い。


 しかし、内側を覗こうとしても、蓋が固く閉ざされていて開かない。


「売れば銀貨十枚……いや、十五枚はいけるか?」


 そう呟きながら、袖で表面の汚れを拭った。


 その瞬間。


 香炉に刻まれた文字が、淡い金色に輝いた。


「……は?」


 蓋の隙間から、青白い煙が噴き出した。


 煙は地面に落ちることなく空中を漂い、やがて細長い人影を形作っていく。


 ゼルヴァンは思わず後ずさった。


 目の前に現れたのは、一人の美しい女だった。


 腰まで伸びる黒髪。


 夜空に浮かぶ月を思わせる金色の瞳。


 青白い肌を薄い衣で包んだその姿は、人間離れした美しさを持っていた。


 女はゆっくりと膝を折り、ゼルヴァンに頭を垂れた。


「お目覚めを、我が主。長き封印を解いていただき、心より感謝申し上げます」


「…………」


「私はネフィル。願望を司る精霊にございます。どうぞ、お好きなようにお命じくださいませ」


 ゼルヴァンは数秒間、完全に言葉を失った。


 それから、恐る恐る口を開く。


「……俺、昨日の酒に変なものでも入れられたか?」


 ネフィルは微笑んだ。


「いいえ。私は幻ではございません」


「じゃあ、幽霊か?」


「精霊でございます」


「悪魔?」


「そのように呼ばれたこともございます」


「帰ってくれ」


「承知いたしかねます」


 即答だった。


 ゼルヴァンは頭を抱えた。


 しかし、ネフィルはそんな彼の困惑など気にする様子もなく、優雅に両手を重ねた。


「我が主。あなた様には、三つの願いを叶える権利がございます」


「……三つ?」


「はい。富、名誉、権力、愛情、あるいは復讐。あなた様が望まれるのであれば、私に可能な限り、いかなる願いも実現いたしましょう」


 ゼルヴァンは眉をひそめた。


「そんな都合のいい話があるかよ。どうせ、魂を寄越せとか言うんだろ?」


「願いには対価がございます」


「ほら見ろ!」


「ですが、あなた様が直接お支払いになる必要はございません」


 その言葉に、ゼルヴァンは首を傾げた。


「……どういう意味だ?」


「世界が、その代価を負担いたします」


 ネフィルは微笑んだまま答えた。


「願いとは、本来あるべき現実を別の形へ書き換える行為。変化には必ず均衡が必要となりますが、その調整は私が行います。どうぞ、ご安心くださいませ」


「……よくわからん」


「難しくお考えになる必要はございません。ただ、あなた様が心から望まれることをお聞かせください」


 ゼルヴァンはしばらく香炉を見つめていた。


 願いが三つ。


 もし本当なら、人生を変えられる。


 貧民街の泥水を飲む必要もなくなる。


 衛兵に殴られることも、冬の寒さに震えることもない。


 だが。


「……とりあえず、今はいい」


「よろしいのですか?」


「ああ。願いなんて、そんな簡単に決めるもんじゃないだろ。三つしかないなら、なおさらな」


 ネフィルは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、どこか懐かしむように微笑んだ。


「……随分と、慎重な方でいらっしゃるのですね」


「貧乏人はな。失敗したら、次がないんだよ」


 ゼルヴァンは香炉を麻袋にしまった。


 その日、彼はまだ知らなかった。


 願いを叶える精霊が、なぜ貴族の廃棄物の中に捨てられていたのか。


 そして、三つの願いを使い切った者が、どうなるのかを。



     ◇ ◇ ◇



 王女イシュメリア・ヴァルクレストは、その日、初めて城の外で焼き栗を食べた。


「……美味しい」


 薄茶色の外套に身を包んだ少女は、目を丸くして呟いた。


 白銀の髪は帽子の中に隠し、顔には薄い化粧を施している。


 それでも、上品な立ち居振る舞いまでは隠しきれていなかった。


「そりゃよかった。けど、お嬢さん。焼き栗一袋に金貨を出すのは、さすがにどうかと思うぜ」


 隣で呆れた声を上げたのは、ゼルヴァンだった。


 出会いは、ほんの十分前。


 市場の屋台で焼き栗を買おうとした少女が、金貨を差し出して店主を困惑させていたところに、彼が通りかかったのだ。


 金貨一枚。


 一般的な職人の月収に匹敵する金額である。


 店主は目を輝かせて受け取ろうとしていたが、ゼルヴァンが割って入った。


『おいおい、爺さん。そりゃさすがにぼったくりだろ』


『な、何を言う! 客が自分で出したんだぞ!』


『じゃあ、俺が銅貨五枚で買うから、その金貨は返してやれよ』


 そんなやり取りの末、ゼルヴァンは少女に焼き栗を買ってやった。


 そして現在。


 少女は初めて食べる庶民の菓子に、すっかり夢中になっていた。


「こんなに甘いものなのですね。砂糖も蜂蜜も使っていないのでしょう?」


「栗だからな。……あんた、本当にいいところのお嬢さんなんだな」


「ええと、その……」


「別に詮索する気はないよ。貴族のお嬢様が護衛も連れずに歩いてるなんて、よっぽど退屈だったんだろ?」


 少女は驚いたように顔を上げた。


「どうして、そう思うのですか?」


「顔に書いてある」


「……そんなに、わかりやすいでしょうか」


「ああ。籠から逃げ出した小鳥みたいな顔してる」


 その言葉に、少女はしばらく黙り込んだ。


 やがて、くすりと笑う。


「あなたは、不思議な方ですね」


「よく言われる。大抵は悪い意味でな」


「では、私は良い意味で申し上げます」


 少女は微笑んだ。


「私の名前は、イシュメリアと申します」


「ゼルヴァンだ。よろしくな、イシュメリア」


 彼は何気なく手を差し出した。


 少女はその手を見つめ、少し迷ってから握り返した。


 柔らかく、傷一つない手だった。


 ゼルヴァンの手とは、まるで違う。


 その瞬間、遠くから怒鳴り声が響いた。


「いたぞ! あちらだ!」


 甲冑を着込んだ騎士たちが、市場の人混みをかき分けて近づいてくる。


 先頭に立っていたのは、黒髪を短く刈り込んだ大柄な男だった。


 王国近衛騎士団副団長、バルガス・ロイフェン。


 王家への忠誠と厳格な規律で知られる騎士である。


 彼は少女の姿を認めると、深々と頭を下げた。


「イシュメリア殿下。お迎えに上がりました」


 ゼルヴァンの思考が停止した。


「…………殿下?」


 少女は困ったように笑った。


「ごめんなさい。最初に申し上げるべきでしたね」


「……いや、ちょっと待て」


 ゼルヴァンは少女を見た。


 騎士たちを見た。


 もう一度、少女を見た。


「王女様?」


「はい」


「この国の?」


「はい」


「……俺、さっき王女様に焼き栗を奢ったのか?」


 イシュメリアは口元を押さえた。


「ふふっ。ええ。とても美味しかったです」


 ゼルヴァンは天を仰いだ。


「……人生、何が起こるかわからねえな」


 バルガスが険しい顔で近づいてくる。


「貴様。殿下に無礼を働いたのではあるまいな」


「待ってください、バルガス。この方は私を助けてくださったのです」


「しかし、殿下……」


「それに、私は今日、とても楽しかったのです」


 王女の声は、穏やかだった。


 だが、その瞳には強い意志が宿っていた。


「城の外には、こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの暮らしがある。私はそれを、自分の目で見たかったのです」


 バルガスは何か言いかけ、結局口を閉じた。


 そして、ゼルヴァンに向き直る。


「……名は?」


「ゼルヴァン・クレイド」


「覚えておこう。殿下に危害を加えなかったこと、感謝する」


「危害どころか、銅貨五枚損してるんだけどな」


 思わず漏れた軽口に、イシュメリアが声を上げて笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 ゼルヴァンは、自分の胸の奥に、これまで知らなかった感情が芽生えるのを感じた。


 王女様。


 自分とは、住む世界が違う女。


 それでも。


 もう一度、会いたい。


 そう思ってしまった。



     ◇ ◇ ◇



「王女様と結婚したい、ですか」


 薄暗い借家の一室で、ネフィルは静かに繰り返した。


「いや、そこまでは言ってないだろ!」


 ゼルヴァンは慌てて否定した。


「俺はただ、もう一度会ってみたいって言っただけだ!」


「ですが、あなた様は先ほどから、その女性のことばかりお話しされています」


「……悪いかよ」


「いいえ。大変微笑ましいことかと」


 ネフィルは優雅に微笑んだ。


「では、願いをお使いになりますか?」


「……願い?」


「はい。あなた様を、王女殿下に相応しい身分へと変えることも可能でございます」


 ゼルヴァンは黙り込んだ。


 貴族になる。


 そんなことが本当にできるのだろうか。


「……身分って、そんな簡単に変えられるのか?」


「世界の記録を書き換えれば、容易なことでございます」


「記録?」


「戸籍、血統、財産、周囲の記憶。それらを整えれば、あなた様は生まれながらの貴族として認識されます」


 ゼルヴァンはしばらく考えた。


 しかし、やがて首を振った。


「……いや。それは違う気がする」


「と、申しますと?」


「俺が貴族になったところで、今まで貧民街で暮らしてきた事実が消えるわけじゃない。あの人に会うためだけに、俺自身を別人にするのは嫌だ」


 ネフィルは何も言わなかった。


「でも……」


 ゼルヴァンは窓の外を見た。


 薄汚れた路地。


 雨漏りする家々。


 飢えた子供たち。


 この場所で生まれ、この場所で死んでいく人々。


「もし、本当に願いが叶うなら……」


 彼はゆっくりと振り返った。


「この街の貧しい連中が、まともに暮らせるようにしてやりたい」


 ネフィルの金色の瞳が、わずかに細められた。


「それが、第一の願いでございますか?」


「ああ」


 ゼルヴァンは頷いた。


「王都の貧民街に住む人間が、飢えず、寒さに震えず、病気になっても見捨てられないようにしてくれ。働ける場所と、まともな家と、食い物が欲しい」


「承知いたしました」


 ネフィルは両手を胸の前で重ねた。


「第一の願いを受理いたします」


 銀の香炉が、激しく震えた。


 室内に青白い光が満ちる。


 ゼルヴァンは思わず目を閉じた。


 耳元で、誰かの声がした。


 数えきれないほどの人間が、遠くで囁いているような声。


 そして。


 世界が、一瞬だけ軋んだ。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 王都の貧民街に、奇跡が起きた。


 崩れかけていた家々は、頑丈な石造りの住居へと変わっていた。


 汚水の流れていた路地には清潔な水路が整備され、街角には共同井戸が設けられていた。


 空き地には大きな救護院が建ち、病人たちは無料で治療を受けられるようになった。


 さらに、街の外れには巨大な工房群が出現し、働き口を失っていた人々に仕事が与えられた。


 ゼルヴァンは、呆然とその光景を見つめていた。


「……本当に、叶いやがった」


 路地を走る子供たち。


 笑いながら洗濯物を干す女たち。


 工房へ向かう男たち。


 昨日まで絶望に沈んでいた街が、まるで別の場所になっていた。


「お兄ちゃん!」


 幼い少女が駆け寄ってきた。


 ゼルヴァンが時折、食べ物を分けてやっていた孤児だった。


「見て! 新しい靴! それにね、今日から学校にも行けるんだって!」


 少女は嬉しそうにくるりと回った。


 ゼルヴァンは膝をつき、その頭を撫でた。


「そっか。よかったな」


「うん!」


 少女は満面の笑みを浮かべた。


「私、大きくなったらお医者さんになるの! それで、病気の人をいっぱい助けるんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ゼルヴァンは、自分の願いが間違っていなかったと確信した。


 人間は、こんなにも簡単に笑えるのだ。


 ほんの少し、暮らしが変わるだけで。


 ほんの少し、未来に希望が持てるだけで。


 それだけで、こんなにも。


「……よかった」


 思わず漏れた言葉に、隣へ現れたネフィルが微笑んだ。


「ご満足いただけましたでしょうか、我が主」


「ああ。最高だよ」


 ゼルヴァンは笑った。


「本当に、最高だ」


 その日の夕方。


 王都の西に位置する三つの農村が、地図から消えた。


 住民は誰一人として、その異変に気づかなかった。


 王国の記録から村の名前が消え、そこに住んでいた人々の記憶も、家族の歴史も、最初から存在しなかったものとして書き換えられていたからだ。


 ただ一人。


 ネフィルだけが、静かに呟いた。


「……第一の対価、受領いたしました」



     ◇ ◇ ◇



 貧民街の奇跡は、瞬く間に王都全体へ広まった。


 誰もが神の祝福だと騒ぎ、教会では連日祈祷が行われた。


 そして、その奇跡の中心にいた青年の噂も、少しずつ広がっていった。


 ゼルヴァン・クレイド。


 貧民街の人々から、奇跡を呼んだ男として慕われる青年。


 もっとも、本人は自分が何をしたのか、誰にも説明していなかった。


 説明できるはずもなかった。


 香炉の中から現れた精霊が、願いを叶えてくれた。


 そんな話をしたところで、正気を疑われるだけだろう。


 しかし、王宮は彼を放置しなかった。


 ある日の午後。


 ゼルヴァンの家に、一通の招待状が届いた。


 差出人は、イシュメリア・ヴァルクレスト。


 王女本人だった。


『先日は、楽しい時間をありがとうございました。

 もしご迷惑でなければ、今度は私があなたを

 お茶にお招きしたく存じます』


 手紙を読み終えたゼルヴァンは、しばらく動かなかった。


 そして。


「……ネフィル」


「はい、我が主」


「俺、何を着ていけばいい?」


 ネフィルは初めて、声を立てて笑った。



     ◇ ◇ ◇



 王宮の庭園は、ゼルヴァンが想像していた以上に美しかった。


 白い大理石の回廊。


 色とりどりの花々。


 水晶を削り出した噴水。


 庭の中央には、王家の紋章を象った巨大な薔薇の花壇が広がっている。


「……すげえな。花だけで俺の家が何軒建つんだ?」


「ふふっ。そういう感想をおっしゃる方は、初めてです」


 イシュメリアは楽しそうに笑った。


 今日は白いドレスを纏い、銀髪を緩やかに結い上げている。


 その姿は、まさしく物語に登場する王女そのものだった。


「先日のこと、改めてお礼を申し上げます。あなたのおかげで、私は初めて城下の暮らしを知ることができました」


「大したことしてないって。焼き栗を買っただけだろ」


「いいえ」


 イシュメリアは首を振った。


「私にとっては、とても大切な一日でした」


 その声には、冗談めいた響きがなかった。


 ゼルヴァンは思わず目を逸らした。


 王女は少しだけ微笑むと、別の話題を口にした。


「それから……貧民街のことも、お聞きしました」


「……ああ」


「あなたが、あの場所の人々を助けたのですね」


「いや、俺が何かしたってわけじゃ……」


「皆さん、あなたのお名前を口にしていました」


 イシュメリアは静かに続けた。


「ゼルヴァンという青年が、困っている人々を見捨てなかった。自分も貧しい暮らしをしていたのに、いつも誰かに食べ物を分けていた。そう教えていただきました」


 ゼルヴァンは言葉に詰まった。


 確かに、彼は時折、困っている者を助けていた。


 だが、それは余裕があったからではない。


 自分と同じように腹を空かせている人間を、見捨てられなかっただけだ。


「……大したことじゃないよ」


「いいえ。大したことです」


 イシュメリアは真剣な表情で言った。


「私は王女です。国の誰よりも多くのものを与えられて育ちました。けれど、あの人々の苦しみを知ろうともしなかった。あなたは、私よりずっと王族らしいことをしていたのです」


「それは言い過ぎだろ」


「そうでしょうか?」


 彼女は小さく首を傾げた。


「私は、そうは思いません」


 ゼルヴァンは返す言葉を失った。


 そして、気づいてしまった。


 この人は、本当に民のことを考えている。


 美しいだけの王女ではない。


 自分の無知を恥じ、それを変えようとしている。


 そんな彼女の横顔が、どうしようもなく眩しかった。


 その日、二人は日が暮れるまで語り合った。


 王都の暮らし。


 貴族の義務。


 平民の苦労。


 そして、いつか実現したい未来について。


 別れ際。


 イシュメリアは、少しだけ頬を染めながら言った。


「……また、お会いできますか?」


 ゼルヴァンは笑った。


「もちろん。焼き栗代、まだ返してもらってないからな」


 王女は声を上げて笑った。


 その笑顔を見ながら、ゼルヴァンは思った。


 もしも。


 もしも、自分が彼女の隣に立てる人間だったなら。


 そんな願いが、胸の奥に芽生え始めていた。



     ◇ ◇ ◇



 それから二か月。


 ゼルヴァンとイシュメリアは、何度も顔を合わせるようになった。


 最初は王宮の庭園で。


 次は城下の市場で。


 やがて、王女は護衛を伴って貧民街を訪れるようになり、救護院や工房を視察するようになった。


 そのたびに、ゼルヴァンは彼女を案内した。


 身分の違いは、確かに存在していた。


 だが、二人の間に流れる時間は、それを少しずつ忘れさせていった。


 ある日。


 王宮からの帰り道で、ゼルヴァンはバルガスに呼び止められた。


「ゼルヴァン。少し話がある」


「なんだよ。今度は不敬罪か?」


「冗談を言っている場合ではない」


 バルガスは険しい顔をしていた。


「殿下に、婚姻の話が進んでいる」


 ゼルヴァンの足が止まった。


「……相手は?」


「宮廷魔導卿、オルディガ・レヴェンハルト」


 その名を聞いた瞬間、ゼルヴァンは眉をひそめた。


 オルディガ。


 王国でも指折りの魔導師であり、国王の側近。


 しかし、その評判は決して良いものではなかった。


 禁忌魔術の研究。


 行方不明になった弟子たち。


 不自然なほど若さを保つ肉体。


 王都には、彼にまつわる不気味な噂が絶えなかった。


「……王女様は、納得してるのか?」


「しておらん」


 バルガスは即答した。


「だが、陛下はこの婚姻を強く望んでおられる。魔導卿の力を王家に取り込み、王権を盤石にするためだ」


「そんな理由で、娘を嫁に出すのかよ」


「それが、貴族社会というものだ」


 ゼルヴァンは拳を握りしめた。


 バルガスは彼を見つめ、静かに続けた。


「……お前が殿下をどう思っているのか、私は知らん。だが、これ以上近づけば、お前自身が危険に晒される」


「……忠告、ありがとな」


「ゼルヴァン」


「でも、俺は……」


 ゼルヴァンは顔を上げた。


「俺は、あの人が泣くところを見たくない」


 バルガスは長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……愚かな男だ」


「よく言われる」


「だが、嫌いではない」


 それだけ言い残し、騎士は去っていった。



     ◇ ◇ ◇



 その夜。


 ゼルヴァンは、銀の香炉を取り出した。


「ネフィル」


「お呼びでしょうか、我が主」


 青白い煙とともに、精霊が現れる。


 ゼルヴァンはしばらく黙っていた。


 そして、意を決して口を開いた。


「……二つ目の願いを使いたい」


「承知いたしました。どのような願いでございましょう?」


「俺に、貴族としての身分をくれ」


 ネフィルは静かに微笑んだ。


「以前は、お望みにならなかったはずですが」


「ああ。今でも、自分を別人にしたいわけじゃない」


 ゼルヴァンは拳を握った。


「だから、俺の過去は消さなくていい。貧民街で育ったことも、屑拾いをしていたことも、全部そのままでいい」


 彼は真っ直ぐにネフィルを見つめた。


「ただ、俺自身の功績で、王女様に求婚できるだけの地位が欲しい。誰かの記憶を書き換えて、最初から貴族だったことにするんじゃなくて、今の俺が、正式に爵位を得られるようにしてくれ」


 ネフィルはしばらく沈黙した。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……承知いたしました」


 金色の瞳が、淡く輝く。


「第二の願いを受理いたします」


 香炉から、青白い光が溢れた。


 ゼルヴァンは目を閉じた。


 遠くで、何かが砕ける音がした。


 ガラスのような。


 骨のような。


 そして。


 誰かが、悲鳴を上げた気がした。



     ◇ ◇ ◇



 三日後。


 王都に、衝撃的な知らせが届いた。


 北方辺境に魔物の大群が出現し、王国軍の一部が壊滅したというのだ。


 しかし、その混乱の中で、一人の青年が奇跡的な功績を挙げた。


 ゼルヴァン・クレイド。


 彼は偶然、北方への物資輸送隊に同行しており、魔物の襲撃に遭遇した際、崩落しかけた砦の避難路を発見した。


 さらに、敵の進路を塞ぐ古い水門を開放し、数百人の兵士と避難民を救ったのである。


 本人には、奇妙な感覚があった。


 確かに、自分は北方へ向かった。


 確かに、砦で人々を救った。


 その記憶は鮮明だった。


 しかし、なぜ北方へ向かうことになったのか、そのきっかけだけが曖昧だった。


 まるで、誰かに背中を押されるように、自然とそこへ導かれたかのように。


 それでも、彼の功績は本物だった。


 国王はその働きを高く評価し、ゼルヴァンに男爵位を授けた。


 さらに、北方の小領地と屋敷、そして十分な財産を与えた。


 叙爵式の日。


 ゼルヴァンは、王宮の大広間で膝をついていた。


「ゼルヴァン・クレイド。そなたの勇気と忠誠を称え、ここに男爵位を授ける」


 グラディオス国王の声が響く。


 五十三歳の国王は、豪奢な王冠を戴きながらも、その顔色はひどく悪かった。


 頬はこけ、目の下には深い隈がある。


 それでも、王としての威厳だけは失っていなかった。


「ありがたき幸せにございます」


 ゼルヴァンは頭を下げた。


 その瞬間。


 広間の奥で、イシュメリアが微笑んだ。


 彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。


 ゼルヴァンは、その涙の意味を理解した。


 そして、心の中で誓った。


 必ず、この人を幸せにする。


 そのためなら、どんな努力だって惜しまない。


 彼はまだ知らなかった。


 北方で壊滅した王国軍の兵士たちが、本来ならば死ぬはずのなかった人々だったことを。


 そして、彼らの死によって空いた功績と爵位が、自分の願いを叶えるために用意されたものだったことを。



     ◇ ◇ ◇



 ゼルヴァンが男爵となってから、半年が過ぎた。


 その間に、彼は驚くほどの速さで貴族社会に馴染んでいった。


 もちろん、失敗も多かった。


 晩餐会で食器の順番を間違えたこともあれば、貴族特有の遠回しな嫌味を理解できず、真正面から言い返して場を凍りつかせたこともある。


 だが、そんな彼を、イシュメリアはいつも笑って見守っていた。


「ゼルヴァン様。こちらの杯は、食前酒用です」


「……さっきのは?」


「そちらは食後酒用です」


「酒を飲む順番にまで身分があるのかよ」


「ふふっ。そういう決まりなのです」


「面倒くさい世界だな、貴族ってのは」


「ええ。私も、そう思います」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 やがて、王宮では公然と噂されるようになった。


 第一王女は、あの成り上がり男爵に心を寄せている。


 そして、男爵もまた、王女を深く愛している。


 もちろん、反対する者は多かった。


 特に宮廷魔導卿オルディガは、露骨な敵意を隠そうともしなかった。


「……随分と、身の程知らずな男が現れたものだ」


 ある夜の晩餐会。


 オルディガは、ゼルヴァンにそう告げた。


 痩せた顔に浮かぶ笑みは、冷たかった。


「貧民街の屑拾いが、今や王女殿下の隣に立つとは。まったく、世の中には奇妙なことがある」


 ゼルヴァンは杯を置いた。


「奇妙なことなら、他にもあるぜ」


「ほう?」


「四十を過ぎた男が、十九の王女様にしつこく求婚してるって話だ。そっちのほうが、よっぽど奇妙じゃないか?」


 周囲の貴族たちが息を呑んだ。


 オルディガの片眼鏡が、わずかに光る。


「……口の利き方には気をつけたまえ、男爵」


「そっちこそ。王女様が嫌がってることくらい、いい加減理解したらどうだ?」


 沈黙。


 オルディガは、しばらくゼルヴァンを見つめていた。


 そして、不意に笑った。


「……なるほど。実に興味深い」


 その声には、奇妙な愉悦が混じっていた。


「君のような男が、どうやってここまで登ってきたのか。ぜひ、一度詳しく聞いてみたいものだ」


「遠慮しとくよ。あんたと酒を飲んでも、美味くなさそうだからな」


「……そうか」


 オルディガは静かに杯を傾けた。


「では、また別の機会にしよう」


 その夜。


 宮廷魔導卿は、自室に戻ると、古い魔導書を開いた。


 黒い革で装丁された、禁書だった。


 その中の一頁に、奇妙な香炉の絵が描かれている。


 翼を広げた鳥。


 泣き叫ぶ人間。


 そして、古代文字で記された一文。


『願望の精霊は、三つの願いを叶える。

 第一の願いは世界を削り、

 第二の願いは運命を歪め、

 第三の願いは所有者を定める』


 オルディガは、ゆっくりと笑った。


「……見つけたぞ」


 長年探し求めていたもの。


 王家の禁忌。


 かつて国を滅ぼしかけた、願望の器。


「まさか、こんなところにあったとはな」


 彼は書物を閉じた。


 そして、誰もいない部屋で呟いた。


「あと一つだ。あと一つ願わせれば……」



     ◇ ◇ ◇



 春の終わり。


 王宮の薔薇園で、ゼルヴァンはイシュメリアに求婚した。


 夕暮れの庭園には、淡い花の香りが漂っていた。


 白い薔薇が風に揺れ、噴水の水音が静かに響いている。


 ゼルヴァンは、彼女の前に膝をついた。


「イシュメリア」


 彼女は驚いたように目を見開いた。


「……ゼルヴァン様?」


「俺は、立派な貴族じゃない。礼儀も知らないし、昔は盗賊まがいの連中と喧嘩ばかりしてた。今だって、貴族の集まりじゃ笑い者になることがある」


 彼は小さく笑った。


「でも、あんたのことだけは、誰よりも大切にしたいと思ってる」


 イシュメリアの唇が、震えた。


「……ゼルヴァン様」


「俺と、結婚してくれないか」


 彼は、小さな指輪を差し出した。


 高価な宝石ではなかった。


 ゼルヴァンが自分で磨き、細工した銀の指輪だった。


 内側には、小さな栗の実が彫られている。


 イシュメリアは、それを見た瞬間、両手で口元を覆った。


「……覚えて、いてくださったのですね」


「ああ。俺たちが初めて会った日のことだからな」


 涙が、一粒こぼれた。


 そして、彼女は笑った。


「……はい」


 その声は、震えていた。


「喜んで、お受けいたします」


 ゼルヴァンは立ち上がり、彼女を抱きしめた。


 イシュメリアもまた、彼の背中に腕を回した。


 夕暮れの薔薇園で、二人は長い時間、抱き合っていた。


 その姿を、回廊の影から見つめる者がいた。


 バルガスだった。


 無骨な騎士は、珍しく柔らかな表情を浮かべていた。


「……まったく。世話の焼ける二人だ」


 彼は小さく笑った。


 そして、静かにその場を離れた。


 このとき、誰もが思っていた。


 身分の違いを乗り越えた恋。


 貧しい青年が努力によって地位を得て、王女の心を射止めた物語。


 それは、きっと幸福な結末を迎えるのだろうと。


 実際、王国中の人々が二人を祝福した。


 貧民街では祭りが開かれ、子供たちは花を撒いた。


 王宮でも、国王が正式に婚約を認めた。


 オルディガとの婚姻話は白紙となり、ゼルヴァンとイシュメリアの結婚式は、三か月後に執り行われることとなった。


 そして。


 結婚式まで、あと七日となった夜。


 すべてが壊れ始めた。



     ◇ ◇ ◇



「……ネフィル」


 ゼルヴァンは、机の上に置かれた銀の香炉を見つめていた。


「お呼びでしょうか、我が主」


 青白い煙が立ち上り、精霊が姿を現す。


 彼女はいつものように、穏やかな微笑みを浮かべていた。


「……一つ、聞いていいか?」


「何なりと」


「願いの対価って、結局なんなんだ?」


 ネフィルは答えなかった。


 ゼルヴァンは、ゆっくりと続けた。


「最初の願いを叶えた後、王都の外で村が三つ消えたって噂を聞いた。二つ目の願いの後には、北方で大勢の兵士が死んだ」


 彼は拳を握った。


「偶然だと思ってた。いや、偶然だと思いたかった。でも……」


 ネフィルは静かに彼を見つめていた。


「……あれは、俺の願いのせいなのか?」


 長い沈黙が流れた。


 やがて、ネフィルが口を開いた。


「……はい」


 ゼルヴァンの顔から、血の気が引いた。


「第一の願いでは、王都の貧民街を豊かにするため、周辺地域に存在した富と労働力を再配分いたしました」


「……再配分?」


「三つの村を、存在しなかったことにいたしました」


 ゼルヴァンは息を呑んだ。


「……なんだって?」


「村に住んでいた人々、その財産、建物、土地の記録、そして彼らに関する記憶。それらを世界から切り離し、願いの実現に必要な資源へ変換いたしました」


「……人間を、消したのか?」


「はい」


 ネフィルは、淡々と答えた。


「第二の願いでは、あなた様が爵位を得るために必要な功績を作り出しました。北方の魔物の進路を変更し、砦を襲撃させたのです」


「……待て」


「その結果、王国軍の一部が壊滅し、あなた様が救助活動を行う機会が生まれました」


「待てって言ってるだろ!!」


 ゼルヴァンは机を叩いた。


 銀の香炉が跳ねる。


「お前……お前、そんなこと、一言も……!」


「お尋ねになりませんでしたので」


 ネフィルは静かに答えた。


「私は、願いには対価があると申し上げました」


「だからって、人を殺していいわけないだろ!」


「……我が主」


 ネフィルは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「人間の願いとは、そういうものでございます」


 ゼルヴァンは言葉を失った。


「誰かが富を得れば、誰かが失う。誰かが地位を得れば、誰かが退く。誰かが愛されれば、誰かが選ばれない。願いとは、世界に存在する無数の可能性の中から、一つを強引に選び取る行為なのです」


「……そんな理屈、認められるか」


「認める必要はございません」


 ネフィルは頭を下げた。


「すでに、願いは叶っておりますので」


 ゼルヴァンは椅子に崩れ落ちた。


 自分が救ったと思っていた人々。


 自分の努力で得たと思っていた爵位。


 その裏側に、数えきれない犠牲があった。


 知らなかった。


 何も知らなかった。


 だが、知らなかったからといって、許されるのだろうか。


「……最後の願いは、使わない」


 ゼルヴァンは震える声で言った。


「絶対に、使わない。こんなもの、もう二度と……」


「承知いたしました」


 ネフィルは静かに頷いた。


 そして。


「ですが、我が主」


 その金色の瞳が、わずかに揺れた。


「……願いを使わずに済むのであれば、それが最も幸福な結末でございましょう」


 ゼルヴァンは、その言葉の意味を理解できなかった。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 イシュメリアが、王宮から姿を消した。


 正確には、王宮の地下にある古い礼拝堂へ連れ去られていた。


 ゼルヴァンがそれを知ったのは、バルガスが血まみれの姿で屋敷に駆け込んできたときだった。


「ゼルヴァン……!」


「バルガス!? どうした、その傷!」


 騎士の左腕は、肩から先が不自然な方向へ曲がっていた。


 額には深い裂傷があり、甲冑には黒い血がこびりついている。


「……殿下が、魔導卿に捕らえられた」


「なんだって!?」


「王宮の地下だ。陛下も……陛下も、奴の術にかかっている」


 バルガスは膝をついた。


「私は止めようとした。だが、奴の魔術は……」


 その瞬間。


 騎士の背後に、黒い影が現れた。


 影は人間の形をしていた。


 しかし、顔がなかった。


 黒い甲冑を纏い、長い槍を手にしている。


「……逃げろ!」


 バルガスが叫んだ。


 影の槍が、彼の胸を貫いた。


 鈍い音が響く。


 騎士の口から、血が溢れた。


「バルガス!!」


 ゼルヴァンが駆け寄る。


 だが、バルガスは彼の腕を掴み、血の混じった息を吐いた。


「……殿下を……頼む……」


 その瞳から、光が消えた。


 ゼルヴァンは、しばらく動けなかった。


 初めて会ったときは、怖い騎士だと思った。


 何度も叱られた。


 礼儀作法を教わり、剣の稽古をつけてもらい、酒を飲みながら王女の話をした。


 その男が。


 今、自分の腕の中で死んでいる。


「……ふざけるなよ」


 ゼルヴァンは、ゆっくりと顔を上げた。


「ふざけるな……!」


 影の騎士が槍を構える。


 その瞬間、ゼルヴァンは叫んだ。


「ネフィル!!」


 青白い煙が爆発するように広がった。


 精霊が姿を現す。


「お呼びでしょうか、我が主」


「こいつを止めろ!」


「……願いとして、承りますか?」


 ゼルヴァンは歯を食いしばった。


 最後の願い。


 使えば、また誰かが犠牲になる。


 だが。


 目の前には、バルガスを殺した怪物がいる。


 そして、イシュメリアが危険に晒されている。


「……くそっ!」


 彼は剣を抜いた。


「願いなんか使わねえ! 俺がやる!」


 影の騎士が突進した。


 ゼルヴァンは横へ跳び、槍を避ける。


 床が砕け、石片が飛び散った。


 彼は懐へ飛び込み、剣を振るった。


 しかし、刃は黒い甲冑に弾かれた。


「ぐっ……!」


 影の腕が、ゼルヴァンの腹を殴りつけた。


 凄まじい衝撃。


 彼は壁まで吹き飛ばされ、血を吐いた。


 肋骨が折れた。


 呼吸するたびに、胸の奥が焼けるように痛む。


 それでも、立ち上がった。


「……まだだ」


 剣を握り直す。


「まだ、終わってねえ……!」


 影の騎士が再び槍を構えた。


 その瞬間。


 ネフィルが、静かに手を伸ばした。


 青白い光が、ゼルヴァンの剣を包む。


「……これは、願いではございません」


 彼女は囁いた。


「私自身の、ささやかな助力でございます」


 剣が、淡く輝いた。


 ゼルヴァンは叫びながら踏み込んだ。


 刃が、影の騎士の胸を貫く。


 黒い甲冑が砕け、内部から濃い煙が噴き出した。


 影は音もなく崩れ落ちた。


 ゼルヴァンは荒い息を吐きながら、剣を支えに立っていた。


「……ネフィル」


「はい」


「ありがとう」


 精霊は、微笑まなかった。


 ただ、静かに頭を下げた。



     ◇ ◇ ◇



 王宮地下の礼拝堂。


 そこは、王国の歴史から抹消された場所だった。


 壁には無数の人骨が埋め込まれ、天井からは黒い鎖が垂れ下がっている。


 中央には巨大な魔法陣が描かれ、その中心にイシュメリアが立たされていた。


 白いドレスは血で汚れ、両手は鎖で拘束されている。


 そして、その首には、黒い金属の首輪が嵌められていた。


「……ゼルヴァン……!」


 彼女は、彼の姿を見るなり涙を浮かべた。


「来ては……いけません……!」


 ゼルヴァンは走り出そうとした。


 しかし。


「そこまでだ、男爵」


 冷たい声が響いた。


 礼拝堂の奥から、オルディガが姿を現す。


 その隣には、グラディオス国王がいた。


 国王は、虚ろな瞳で立ち尽くしている。


 口元からは涎が垂れ、指先は小刻みに震えていた。


「……陛下?」


 ゼルヴァンは息を呑んだ。


 オルディガは愉快そうに笑った。


「安心したまえ。まだ生きている。ただ、少々余計な思考を取り除いただけだ」


「……てめえ!」


「おや、怖い顔だ。せっかく王女殿下との婚姻を認めていただいたというのに、随分と礼儀を忘れたものだな」


 ゼルヴァンは剣を構えた。


「イシュメリアを放せ!」


「もちろん、構わんとも」


 オルディガは両手を広げた。


「ただし、一つ条件がある」


 その視線が、ゼルヴァンの腰に下げられた銀の香炉へ向けられた。


「……その香炉を渡してもらおうか」


 ゼルヴァンの背筋に、冷たいものが走った。


「……知ってたのか」


「当然だ。私は長年、その器を探していたのだからな」


 オルディガは笑った。


「願望の精霊ネフィル。三つの願いを叶える、王家の禁忌。まさか、貧民街の屑拾いが拾い上げるとは思わなかったが……」


 彼は、ゆっくりと歩み寄った。


「君のおかげで、実に都合よく事が進んだ」


「……どういう意味だ?」


「知らないのか?」


 オルディガは、心底愉快そうに笑った。


「その精霊は、三つ目の願いを叶えたとき、完全に解放されるのだよ」


 ゼルヴァンは目を見開いた。


「……解放?」


「そうだ。願いの精霊は、世界の均衡を破壊する存在。かつて王家は、その力を利用して国を築いた。しかし、最後の願いによって精霊が解放され、王都の半分が消滅した」


 オルディガは、指を鳴らした。


 壁に埋め込まれた人骨が、一斉に震えた。


「以来、王家は精霊を封印し、その存在を隠してきた。だが、私は違う。あの力を完全に支配できれば、老いも死も、王権さえ超越できる」


 彼は、国王の肩に手を置いた。


「この男のように、衰えた肉体にしがみつく必要もなくなるのだ」


 グラディオス国王は、何も答えなかった。


 ただ、虚ろな目で前を見つめていた。


「……狂ってやがる」


 ゼルヴァンが吐き捨てる。


 オルディガは肩をすくめた。


「狂っている? いいや。私は、ただ願っているだけだよ」


 彼は微笑んだ。


「君と同じようにな」


 ゼルヴァンは歯を食いしばった。


「……香炉は渡さない」


「そうか」


 オルディガは、あっさりと頷いた。


「では、王女殿下には死んでいただこう」


 彼が指を鳴らした。


 イシュメリアの首輪が、赤く輝いた。


「……あ、あああああっ!!」


 悲鳴が響いた。


 首輪から伸びた細い棘が、彼女の首筋へ食い込んでいく。


 白い肌を伝い、血が流れ落ちた。


「やめろ!!」


 ゼルヴァンが叫ぶ。


 オルディガは冷たく笑った。


「どうする、男爵? 香炉を渡すか。それとも、愛する女がゆっくりと死ぬところを見届けるか?」


 イシュメリアは、苦痛に顔を歪めながら首を振った。


「……だめ……です……」


「イシュメリア!」


「渡しては……いけません……!」


 彼女は涙を流しながら叫んだ。


「私は……あなたが……生きていてくだされば……!」


 その瞬間。


 オルディガが、首輪の魔術を強めた。


 イシュメリアの悲鳴が、礼拝堂に響き渡った。


 ゼルヴァンは、もう耐えられなかった。


「……わかった」


 彼は、震える手で香炉を取り出した。


「渡す。だから……彼女を放してくれ」


 オルディガは、満足そうに笑った。


「賢明な判断だ」


 ゼルヴァンは、香炉を差し出した。


 その瞬間。


 ネフィルが現れた。


 彼女は、ゼルヴァンを見つめた。


「……我が主」


「……ごめん」


 ゼルヴァンは、俯いた。


「俺には……これしか、できない」


 ネフィルは、しばらく彼を見つめていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……いいえ」


 その声は、どこか悲しげだった。


「あなた様は、十分に頑張られました」


 オルディガが香炉を奪い取った。


 そして、高らかに笑った。


「ついに……ついに手に入れたぞ!」


 彼は香炉を掲げた。


「精霊よ! 新たな主人として命じる! 私に永遠の命と、世界を支配する力を与えよ!」


 しかし。


 何も起こらなかった。


「……なに?」


 オルディガの笑みが消えた。


 ネフィルは、静かに答えた。


「申し訳ございません。現在の所有者は、ゼルヴァン様でございます」


「馬鹿な! 香炉は私の手にある!」


「所有権は、三つの願いを使い切るまで移転いたしません」


 オルディガの顔が歪んだ。


「……ならば!」


 彼はゼルヴァンへ向き直った。


「最後の願いを使え! 精霊を解放しろ!」


 ゼルヴァンは首を振った。


「……断る」


「ならば、王女を殺す!」


「……断る!」


 オルディガは激昂した。


 その指が、再び動く。


 イシュメリアの首輪が赤く輝いた。


 ゼルヴァンは叫んだ。


「やめろおおおおっ!!」


 その瞬間。


 ネフィルが、静かに口を開いた。


「……我が主」


 彼女の金色の瞳が、まっすぐにゼルヴァンを見つめていた。


「あなた様には、まだ一つだけ願いが残されております」


「……ネフィル?」


「どうか、お忘れなきよう」


 彼女は、微笑んだ。


「願いは、必ず叶います」


 ゼルヴァンは、息を呑んだ。


 最後の願い。


 それを使えば、誰かが犠牲になる。


 だが。


 目の前で、イシュメリアが死にかけている。


 彼女は、必死に首を振っていた。


 願わないで。


 そう言っている。


 だが、ゼルヴァンには、もう選べなかった。


「……頼む」


 彼は、涙を流しながら呟いた。


「ネフィル……」


 精霊は、静かに頭を下げた。


「はい、我が主」


 ゼルヴァンは、叫んだ。


「イシュメリアを救ってくれ!!」


 銀の香炉が、砕けた。



     ◇ ◇ ◇



 音が消えた。


 光が消えた。


 世界から、色が失われた。


 ゼルヴァンは、何も見えない空間に立っていた。


 目の前には、ネフィルがいた。


 彼女は、これまで見せたことのない表情を浮かべていた。


 悲しみ。


 そして、安堵。


「……第三の願いを、受理いたしました」


 その声が、静かに響く。


「これより、最後の対価を徴収いたします」


 ゼルヴァンは、震える声で尋ねた。


「……何を、するんだ?」


 ネフィルは、ゆっくりと答えた。


「あなた様の願いを、永遠に叶え続けます」


「……え?」


「イシュメリア様を救う。その願いを、永遠に」


 ゼルヴァンは、理解できなかった。


「……どういう、意味だ?」


 ネフィルは、静かに手を伸ばした。


 その指先が、ゼルヴァンの胸に触れる。


「人間は、いずれ死にます。病によって、老いによって、事故によって、あるいは他者の悪意によって」


 彼女の声は、どこまでも穏やかだった。


「ですが、あなた様は、イシュメリア様を救うことを願われました」


「……ああ」


「その願いを完全に叶えるためには、彼女が二度と死なないようにしなければなりません」


 ゼルヴァンの背筋に、冷たいものが走った。


「……待て」


「彼女を傷つける者を排除し、彼女の命を脅かすものを取り除き、彼女が永遠に生き続けられる世界を作り上げます」


「待て……!」


 ネフィルは、微笑んだ。


「そして、そのための対価は……」


 彼女の指が、ゼルヴァンの胸に沈んだ。


 痛みはなかった。


 ただ、心臓を冷たい手で握られたような感覚があった。


「……あなた様の、すべてでございます」


 ゼルヴァンは、悲鳴を上げた。



     ◇ ◇ ◇



 王宮地下の礼拝堂に、凄まじい光が溢れた。


 オルディガは、思わず腕で顔を覆った。


「な、なんだ……!?」


 魔法陣が砕け散る。


 壁に埋め込まれた人骨が、一斉に崩れ落ちた。


 国王の身体が、糸の切れた人形のように倒れる。


 そして。


 イシュメリアの首輪が、音を立てて砕けた。


「……あ……」


 彼女は、ゆっくりと膝をついた。


 首筋の傷が消えていく。


 流れた血が、逆戻りするように肌へ吸い込まれていく。


 その身体が、淡い金色に輝いた。


「……ゼルヴァン……?」


 彼女は顔を上げた。


 そこにいたのは、愛する青年だった。


 だが。


 その姿は、もはや人間ではなかった。


 ゼルヴァンの胸から、無数の黒い鎖が伸びていた。


 鎖は床を這い、壁を貫き、天井へと広がっている。


 彼の皮膚には、古代文字が浮かび上がっていた。


 目からは血の涙が流れ、口元は苦痛に歪んでいる。


「……イシュ……メリア……」


 彼は、必死に手を伸ばした。


 だが、その腕が途中で止まった。


 黒い鎖が、彼の身体を引き裂くように広がったからだ。


「……あ、あああああっ!!」


 絶叫。


 ゼルヴァンの背中から、黒い翼が生えた。


 しかし、それは鳥の翼ではなかった。


 無数の人間の腕が絡み合い、翼の形を作っていた。


 指先は痙攣し、爪は互いの肉を掻きむしっている。


 翼の隙間から、苦しげな呻き声が漏れた。


「……なんだ、これは……」


 オルディガは、呆然と呟いた。


 その背後に、ネフィルが現れた。


「第三の願いが、叶えられました」


 彼女は、静かに告げた。


「これより、世界の再編を開始いたします」


 オルディガは、ようやく理解した。


 自分が探し求めていたもの。


 それは、願いを叶える道具などではなかった。


 願いを餌にして、人間の欲望を世界へ刻み込む存在。


 そして、三つ目の願いを叶えたとき。


 その願いを永遠に実行し続ける、災厄そのものへと変貌するのだ。


「……馬鹿な……!」


 オルディガは後ずさった。


「こんな……こんなはずでは……!」


 ネフィルは、彼を見つめた。


「あなた様は、永遠の命をお望みでしたね」


「……ひっ!」


「では、その願いも叶えて差し上げましょう」


 オルディガの身体が、突然硬直した。


 皮膚が裂け、内側から黒い糸が溢れ出す。


 糸は骨に絡みつき、肉を縫い合わせ、彼の身体を奇妙な形へと変えていった。


「ぎゃあああああっ!!」


 悲鳴が響いた。


 彼の手足は細長く引き伸ばされ、指は枝のように分かれた。


 顔の皮膚が剥がれ落ち、眼球だけが不自然に残った。


 そして、身体全体が黒い樹木へと変わっていった。


 礼拝堂の中央に、一本の醜い木が立っていた。


 幹には人間の顔が埋まり、枝先には指が生えている。


 その口が、絶え間なく呻いていた。


「……殺して……くれ……」


 ネフィルは、微笑んだ。


「申し訳ございません」


 彼女は、優雅に頭を下げた。


「永遠の命を、お望みでしたので」


 オルディガの悲鳴は、いつまでも続いた。



     ◇ ◇ ◇



 イシュメリアは、ゼルヴァンへ駆け寄った。


「ゼルヴァン!!」


 彼の身体は、黒い鎖に覆われていた。


 それでも、彼女は構わず抱きしめた。


「お願いです! しっかりしてください! 私です、イシュメリアです!」


 ゼルヴァンは、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳には、まだ人間の光が残っていた。


「……イシュ……メリア……」


「はい! ここにいます! 私は無事です! だから、もう……!」


 彼女は、涙を流しながら叫んだ。


「もう、私のために苦しまないでください!!」


 ゼルヴァンの唇が、わずかに動いた。


「……よかった……」


 彼は、微笑もうとした。


「……生きて……て……」


 その瞬間。


 彼の瞳から、光が消えた。


 黒い鎖が、激しく震えた。


 そして。


 ゼルヴァンの口から、別の声が響いた。


『保護対象を確認』


 低く、感情のない声だった。


『イシュメリア・ヴァルクレスト。生命維持を最優先事項として設定』


 イシュメリアは、息を呑んだ。


「……ゼルヴァン?」


『周辺環境を解析。危険因子を検出』


 黒い鎖が、礼拝堂全体へ広がった。


 天井が崩れ、床が割れる。


 イシュメリアは必死に彼へしがみついた。


「お願い……! 戻ってきて……!」


 だが、返事はなかった。


 代わりに、冷たい声が響いた。


『保護対象の精神的苦痛を検出』


 黒い鎖が、イシュメリアの身体へ伸びた。


『苦痛の原因を排除します』


「……え?」


 鎖が、彼女の頭を包み込んだ。


 イシュメリアは悲鳴を上げた。


 脳の奥に、冷たい何かが流れ込んでくる。


 記憶が、削られていく。


 父の顔。


 母の声。


 幼い頃の思い出。


 そして。


 焼き栗を買ってくれた青年の笑顔。


「……いや……!」


 彼女は必死に抵抗した。


「それだけは……! それだけは、奪わないで……!」


 だが、鎖は止まらなかった。


 悲しみの原因となる記憶。


 恐怖の原因となる記憶。


 苦痛の原因となる感情。


 それらが、一つずつ消えていく。


 最後に残ったのは、ゼルヴァンへの愛情だった。


 彼女は、それだけを必死に抱きしめた。


 だが。


『精神的苦痛の根源を確認』


 冷たい声が響いた。


『対象への愛情を、危険因子として認定』


「……やめて……」


 イシュメリアの瞳から、涙が溢れた。


「お願い……ゼルヴァン……」


 その声は、もう彼には届かなかった。


『排除します』


 最後の記憶が、消えた。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 王都ヴァルクレストから、すべての争いが消えた。


 貴族同士の権力争いも。


 商人たちの利権争いも。


 貧民街の喧嘩も。


 すべてが、静かになった。


 人々は、笑っていた。


 誰もが幸福そうに微笑んでいた。


 しかし、その笑顔は、どこか不自然だった。


 街角では、子供たちが同じ歌を繰り返し歌っていた。


 市場では、商人たちが同じ言葉を何度も口にしていた。


 そして、王宮では。


 イシュメリアが、玉座に座っていた。


 白いドレス。


 銀色の冠。


 そして、首には黒い首輪。


 その首輪には、小さな文字が刻まれていた。


『ゼルヴァン・クレイド』


 彼女は、穏やかに微笑んでいた。


 何も悲しくなかった。


 何も怖くなかった。


 何も望まなかった。


 ただ、毎日、同じ時間に目を覚まし、同じ食事を取り、同じ庭園を散歩した。


 そして、夜になると。


 玉座の間の奥から、黒い影が現れる。


 巨大な翼を持つ、人間の形をした怪物。


 かつて、ゼルヴァン・クレイドと呼ばれていた存在だった。


 怪物は、イシュメリアの前に跪く。


『本日も、あなた様の安全は確保されました』


 イシュメリアは、微笑んだ。


「ありがとうございます」


『ご不便はございませんか』


「いいえ。何もありません」


『お望みのものはございますか』


「いいえ。何も望みません」


 怪物は、満足そうに頷いた。


『それは、何よりです』


 そして、彼女の手を取った。


 黒い爪が、白い指先に触れる。


 イシュメリアは、微笑んだままだった。


 恐怖も、嫌悪も、愛情もなかった。


 ただ、幸福だった。


 永遠に。


 何も感じることのない、幸福の中で。



     ◇ ◇ ◇



 それから、七日後。


 王都の外へ逃げ延びた人々は、奇妙な光景を目撃した。


 王都を囲む城壁が、黒い結晶へと変わっていた。


 門は閉ざされ、空には巨大な翼の影が広がっている。


 街の外から中を覗くと、人々が笑っていた。


 誰もが幸福そうだった。


 しかし、誰一人として、街の外へ出ようとはしなかった。


 王都の外では、飢饉が広がり始めていた。


 作物が枯れ、井戸が涸れ、魔物が増えた。


 それでも、王都の中だけは豊かだった。


 食料は尽きず、病人は現れず、誰も老いることがなかった。


 ただし。


 街の人々は、少しずつ人間ではなくなっていった。


 最初に変わったのは、子供たちだった。


 彼らは成長しなくなった。


 次に、老人たちの皺が消えた。


 やがて、すべての人間が同じような顔立ちになっていった。


 笑顔。


 穏やかな瞳。


 そして、何も望まない心。


 王都は、完全な幸福の街となった。


 その中心に。


 白銀の髪を持つ王女がいた。


 そして、その隣には。


 かつて彼女を愛した青年の成れの果てが、永遠に跪いていた。



     ◇ ◇ ◇



 ネフィルは、王宮の最上階から、その光景を見下ろしていた。


 黒い結晶に覆われた王都。


 永遠の幸福に閉じ込められた人々。


 そして、玉座に座る王女と、その隣に跪く怪物。


 彼女は、静かに目を閉じた。


「……これで、三つ目の願いも叶いました」


 その声には、喜びも悲しみもなかった。


 ただ、長い仕事を終えた者のような疲労だけがあった。


 彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。


 その掌には、小さな銀の香炉があった。


 砕けたはずの香炉。


 だが、そこには傷一つなかった。


 ネフィルは、静かに微笑んだ。


「……次は、どなたが拾ってくださるのでしょうか」


 そして、香炉を窓の外へ放り投げた。


 銀の器は、風に乗って遠くへ飛んでいく。


 王都を越え。


 山を越え。


 海を越え。


 やがて、どこかの国の、どこかの街へと落ちていった。


 ネフィルは、その行方を見送った。


 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……どうか、次の方は」


 彼女は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


「……何も願いませんように」



     ◇ ◇ ◇



 王宮の玉座の間。


 イシュメリアは、今日も微笑んでいた。


 その隣には、黒い翼を持つ怪物が跪いている。


『お望みのものはございますか』


 いつもの問いかけ。


 いつもの時間。


 いつもの幸福。


 イシュメリアは、微笑んだ。


「いいえ。何も望みません」


 怪物は、満足そうに頷いた。


『それは、何よりです』


 そして。


 ほんの一瞬。


 怪物の胸の奥で、何かが動いた。


 人間だった頃の、最後の記憶。


 市場の片隅。


 焼き栗を頬張る少女。


 楽しそうに笑う、白銀の髪の王女。


 そして。


『……焼き栗代、まだ返してもらってないからな』


 そんな、くだらない冗談。


 怪物の頬を、一筋の血が伝った。


 しかし、すぐに黒い鎖が動き、その涙を拭い去った。


『異常を検出』


 冷たい声が響く。


『不要な記憶を削除します』


 最後の記憶が、消えた。


 怪物は、再び穏やかに跪いた。


『本日も、あなた様の安全は確保されました』


 イシュメリアは微笑んだ。


「ありがとうございます」


 その笑顔は、美しかった。


 かつてゼルヴァンが恋をした、あの日の笑顔と同じくらい。


 ただ一つ、違っていたのは。


 もう、その笑顔を見て幸せになる人間が、どこにもいないということだった。



          【完】

【登場人物】


◆ゼルヴァン・クレイド

本作の主人公。二十二歳。

王都の貧民街で育った青年で、現在は貴族の屋敷から

出る廃品を買い取り、修理して売ることで生計を立てている。

口が達者で機転も利くが、根はお人好し。

幼い頃から貴族に虐げられてきたため、身分によって

人間の価値が決まる社会を嫌っている。

ある日、奇妙な銀の香炉を拾ったことで運命が変わる。


◆イシュメリア・ヴァルクレスト

十九歳。ヴァルクレスト王国の第一王女。

白銀の髪と紫水晶の瞳を持つ、聡明で美しい女性。

王族としての責任感が強く、民の暮らしにも関心を寄せる。

一方で、王家の決めた婚姻から逃れられない自分の立場に

深い閉塞感を抱いている。

身分を隠して城下へ出た際、ゼルヴァンと出会う。


◆ネフィル

外見年齢二十代半ば。銀の香炉に封じられた願望の精霊。

青白い肌、腰まで伸びる黒髪、金色の瞳を持つ女性の姿。

穏やかで礼儀正しく、主人に対して従順に振る舞う。

香炉の所有者の願いを三つ叶えることができるが、

願いには必ず対価が発生する。

その対価について、自分から説明することはない。


◆グラディオス・ヴァルクレスト

五十三歳。ヴァルクレスト王国の国王。

イシュメリアの父親。

かつては民に慕われた名君だったが、近年は病と

老いへの恐怖から、次第に猜疑心を強めている。

娘を愛していると公言する一方、王家の存続のためなら

娘の幸福さえ犠牲にする冷酷さを持つ。


◆オルディガ・レヴェンハルト

四十一歳。王国の宮廷魔導卿。

国王の側近として絶大な権力を握る男。

痩せた体格に灰色の長髪、片眼鏡をかけた知的な風貌。

古代魔術と禁忌の研究に精通している。

王女との婚姻を望み、王位継承に介入しようとしている。

銀の香炉に関する秘密を知る数少ない人物。


◆バルガス・ロイフェン

三十四歳。王国近衛騎士団の副団長。

黒髪を短く刈り込んだ、頑健な体格の騎士。

厳格で無愛想だが、騎士としての誇りを重んじる。

貴族の腐敗に嫌悪感を抱いており、王女の理想に共感する。

ゼルヴァンの出自を知りながらも、彼の人柄を認めていく。

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