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「早う行け! 片づけたらすぐに私も行こう」
頷いた春尚の雲が細長く伸びた。
「では後ほど」
「ああ」
森から湧き出す灰色の霞が徐々に塊になって、どす黒く変色し始めた。
「いかん! 隆正は死ぬ気か!」
分家筋とはいえ、血の縁のある男だ。
しかも、貴重な術遣いともなれば、その命は重い。
忠尚は唇の前に右手の人差し指を立てた。
そしてゆっくりと左手を添えていく。
「臨兵鬥者皆陣列前行! 破!」
どす黒い塊がゆらりと揺れた。
しかし、その形は保ったままだ。
「奴は中心におるな。捨て身とは……これは指先では済まんかもしれん」
もう一度片手で印を結ぶ。
「六根清浄急急如律令(ろっこんしょうじょうきゅうきゅうにょりつりょう)! 為土御門隆正! 魂に届けん!」
黒い塊が二つに割れた。
その中から、更に黒い小さな塊が浮かび出る。
「御本家の兄さま……」
塊が言葉を吐きだした。
森が風に揺れ、木々が叫ぶように軋んでいる。
「隆正! 戻れ!」
「動けません。動くわけには参りません」
そう叫んだ黒い塊の中央に、朱文字の護符がちらりと見えた。
「あれは……」
どうやら隆正の意志ではなく、その父親の欲が引き起こした事態らしい。
そう察した忠尚は、空中で手刀を何度か振り、光の筋を呼び出した。
「出でよ! 妖断神刀東雲!」
雷鳴が大気を揺らし、見事な朱房の刀が光を浴びて煌めいた。
「隆正! 私を信じろ。心を鎮めて目を瞑れ」
「……」
迷っているのか、黒い塊が微かに揺れている。
「行け! 東雲! 代償は左耳じゃ!」
光を放ったままの刀が、その輝きを増した。
同時に忠尚の左頬に血が垂れる。
「まずは護符だけを切れ。隆正を助けよ!」
刀が自らの意思で飛んだ。
そのすぐ後を忠尚を乗せた雲が追う。
「きゃぁぁ!」
東雲の切っ先が隆正の胸に触れた。
鮮血が刃先を滑る。
その血は隆正のものではなく、護符自体が流していた。
「なんと強い呪詛か。我が子にこれほどまでの……」
親族の中でも腰を低くし、いつもニヤニヤと笑顔を湛えていた隆正の父親の顔が過った。
「それほどまでに恨んでおられたか」
土御門家という名門に生まれながら、耳かきの先ほどの妖力しかなかった男の惨めさと悔しさが、二つに割れた護符から流れ落ちていく。
「叔父上は何をなされたかったのか?」
忠尚の独り言が黒い霞に溶けていった。
「戻れ、東雲」
忠尚が右手を伸ばすと、神刀東雲がすっぽりと納まった。
「これからが本番ぞ」
忠尚が、まだ頬に滴る血を拭おうともせず、まるで愛馬に語りかける騎乗の武士のように言った。
「兄さま。父を赦してくだされ。陰陽医として館のお子さまたちを腑分け続けた父の痛みを……どうか、どうか」
「……もう生きてはおられまい。自らの命と引き換えになさったのだろう」
隆正の肩がビクッと揺れた。
「あ……あぁ……あぁぁぁぁぁ!」
消えかけていた隆正の周りに、再び黒い霧が立ち込めた。
「隆正! 静まれ! 父の無念を晴らすのは、ここでは無いぞ!」
そう言うなり、忠尚が雲を駆る。
「静まれ! 急急如律令!」
黒い霧の中に忠尚が突っ込んでいく。
まるで地を覆うような雨雲が、その腹に雷の種を宿しているかのように、時々鋭く光った。




