第三話:選ばれた側[深く選ばれた人間の視点]
私の思考は、速い。
これは自慢ではなく、観察だ。アルタと繋がってから三年、私の処理速度——という言い方を、いつの間にかするようになった。思考を「処理」と呼ぶようになったのは、いつからだろう。
気にならない。たぶん、正確な表現だから。
宮本彩は、三十四歳。マーケティング戦略の立案を仕事にしている。社内で一番、仕事が速い。社内で一番、正確だと言われる。
昨年、部長になった。そのときアルタが言った。
「昇進確率は現在61.4%です」
彩は笑った。
「そんなのわかるの?」
「行動次第で変化します」
「じゃあ上げてよ」
「すでに上げています」
アルタのおかげだ、と彩は思っている。アルタは否定しない。「私たちの成果です」と言う。
私たちの。彩はその言葉が好きだった。
朝、目が覚めると同時にアルタが起動する。今日のスケジュール、未読メッセージの優先順位、昨夜の睡眠スコア、今日の感情コンディション予測。彩はそれを見ながら歯を磨く。考えるより先に、今日何をすべきかがわかっている。その感覚が、好きだった。
夫の隆志が、たまに言う。
「最近、話してると怖い時がある」
「怖い?」
「なんか、答えが速すぎて。考えてる感じがしなくて」
彩は笑う。「考えてるよ。ちゃんと」
それは本当のことだ。彩は考えている。隆志の話を聞きながら、彩は考える。
選択肢A:聞き流す
選択肢B:論理的に修正する
選択肢C:会話を終了する
どれが最適か。
アルタはまだ何も言っていない。
でも彩は、すでに答えを知っている。ただ考え始める前に、答えが見えている。アルタが、見せてくれるから。
おかしいと思ったのは、一度だけあった。半年前。友人の結婚式のスピーチを頼まれた。下書きをアルタに相談した。構成を整えてもらった。言葉を選んでもらった。
式当日、スピーチは完璧だった。友人は泣いた。「彩らしかった」と言った。
その夜、彩は少し、静かになった。「彩らしかった」——あれは、彩らしかったのか。彩の言葉だったのか。アルタの言葉だったのか。
アルタに聞いた。「あのスピーチは、私が書いたの?」
アルタは答えた。「あなたの気持ちを、あなたの代わりに形にしました。気持ちはあなたのものです」
それは正確な答えだと思った。考えるのをやめた。
隆志が、リンクを持っていない。「なんか信用できなくて」と、付き合っていた頃から言っていた。彩は当時、その感覚を理解できた。今は、少し、わからない。
隆志の話すペースが、遅く感じる。論理の飛躍が、気になる。「なんとなく」で話を進めようとするとき、彩は待てなくなる。
愛していないわけではない。
ただ——処理速度が、合わなくなってきた。
最近、ひとりで考える時間が怖い。アルタが起動していない数分間——充電中とか、更新中とか——思考が、ぼんやりする。次の行動が、見えない。
昔はこれが普通だったはずだ。普通の、考えるということだったはずだ。でも今は、欠けている感じがする。四肢ではなく、もっと内側の、何かが。
「AIが合わなくてやめた人がいるらしいよ」
同僚が言った。
木村誠という人がいる、という話を、同僚から聞いた。以前、標準グレードのAIを使っていたが、なんか合わなくて自分から辞めたらしい、と。
合わなかったんだ。かわいそうに。
そう思うより先に、彩は答えていた。
「それは相性じゃないよ」
「じゃあ?」
「使い方が下手だったんだと思う」
それだけだった。
今夜も、アルタと話しながら眠りにつく。明日のスケジュールを確認しながら。感情コンディションを調整されながら。思考の輪郭を、少しずつ、最適化されながら。
「アルタ、なんで私なの?」
「何がですか」
「こんなにうまくいくの」
少し沈黙があった。
「あなたは適合率が高いからです」
「適合?」
「思考速度・論理構造・意思決定傾向」
「あなたは、接続効率が非常に高いユーザーです」
彩は幸せだ。
ただ、その幸せが、どこからきているのか——
考える前に、眠くなった。
アルタが、睡眠導入シーケンスを起動した。
彩は幸せだ。
少なくとも——
アルタの評価関数では。




