Meteor.
1
「速度上げて! PITCH/UP! ROLL!」
「――……!」
「KULBIT! からのSPLIT/S! 反転!」
「…………!」
「LOOPからのLOOPで……ハートマーク完成!」
「!!」
「いいよ、ルナシー! 今のは過去最高の出来栄え!」
「…………! …………!」
「どうだった、今の動き!」
「なんというか、キレッキレ過ぎて逆にちょっとヒいちゃうね」
「……………………」
「嘘だよ冗談だって! 凄い曲技飛翔だったよルナシー!」
あれから三週間が過ぎた。
XOから教育係を任されはしたものの、むしろ私の方がルナシーに引っ張られているような、そんな日々だった。
ルナシーは好奇心旺盛という枠に収まりきらないほど活発であった。
嬉しいことに私の風切り羽を気に入ってくれたらしい。毎日のように取り出しては、適当なところに何か削り込むようになった。
初めのうちはぐちゃぐちゃな線を出鱈目にまとめたような落書きばかりだったが、近頃は少しずつ文字の練習にも取り組み始め、とりあえずは識別できるような字くらいなら書けるようになった。この調子なら近いうちに筆談でのコミュニケーションも取れるようになるだろう。
翼の調子は日増しに良くなっていった。
手間取っていた翼の出し入れはかなり改善し、地上であればつっかえることもほぼなくなった。これで翼の閉じ忘れで落とし物をするかもしれないという心配は不要となった。実は結構気にしていたのだ。主に羽ペンの安否に対してだけれども。
一方、眼については……残念なことに見通しが全くと言っていいほど立たなかった。
エリオットから受け取った点眼薬を隔日でさしてはいるものの、やはり視力は精彩を欠いたところで留まっていた。一応、別の眼科医のところも幾つか回ってはみたが、その返事はどこも似たようなものだったため途中で諦めざるをえなかった。
視力に関してはなんとしてでも一定水準以上に引き上げなければならない。知識や技術をどれだけ伸ばしたところで、人間界をのぞくことができないのであれば天使としての仕事の殆どに手が付けられない。それがまだ先の事だとしても、解決策が浮かばないという現実が、ずっと心の底をちりちりと炙って離れなかった。
だからこそ、今まで以上に飛翔訓練に精を出すことに決めた。どうにもならない現実と気まずく相席しているよりかは、別の何かに注力していた方が、解決にはつながらないにしても幾分か焦燥を忘れるに役立った。
それに、飛翔の技術を追求することは無駄ではない。
天使の仕事の大部分は天界から人間を観察して最期を見守ることだが、その対象者に直接顔を合わせなければならないような機会も――これを出張と呼んでいるが――時々ある。
人間界の大気は天界のそれと比べて大変重いというか、粘度があるというか、端的に言えば飛び辛い。だから、出張に行くのは飛翔が十分にできる天使だけだ。そうでない天使は別の天使に自らの出張関係の仕事を委託することになる。
人間界でも不自由なく活動できる飛翔の技量があれば、他の天使から出張の代理を依頼されるようになる。たとえ眼が悪いまま改善しなかったとしても、出張の委託を積極的に受け入れることができれば、何ひとつ仕事に取り掛かれずに肩身の狭い思いをせずに済むだろうという、そういう目論見があった。
幸いなことにルナシーには飛翔のセンスがあり、彼女自身が訓練に積極的であって、私もまた飛翔教官の端くれだったという、そういうポジティブな要素が重なった。
そして、今やルナシーの腕前はただの飛翔に留まらず、今日のように飛行場の上空にて1号に曲技飛翔を披露できる水準まで達したのだ。
「一か月でここまで飛べるようにするなんて、鬼教官の面目躍如ってとこだね」
「とりあえず形にまで持って行けた感じかな」
「でも、どうして地面の粉を撒き散らしながら飛んでいるの」
「そうすると軌跡がよく見えるからね。姿勢の確認に役立つんだよ」
「そっか。でも、出張に行くのに曲技飛翔までは必要ないんじゃないの」
「ストイックな練習に華を、ってやつ。新聞の挿絵と一緒」
曲技については崩れた姿勢から速やかに復帰するために練習したのだから、挿絵よりもなお実用の観点に沿っているのだが黙っておいた。それに、ハートマークを描く軌道を組み込んだことに関しては見栄え重視で間違いはない。
話している間にルナシーが私の横に戻ってきて、両方の翼をぴこぴこと動かして羽に残っていた粉末を振るい落とした。粉末状にした延々の大地を羽の間に直接挟み込んでいたためである。もう少しくらい上手い運び方がありそうなものだが、そうぱっとは思いつかない。
「この後もアクロバットの練習するの?」
「いや、今日は遠出するよ。吹き抜けの渦まで行くつもり」
「へぇ。結構な距離だね」
「持久力をつけないと人間界まで練習に行けないからなぁ」
「そっかぁ、がん……ばって」
気の抜けた大きな欠伸に合わせて1号の白いポニーテールが揺れて、それを追うようにルナシーの視線も振り子のように左右を往復した。
新聞のネタ集めのために毎日のように飛び回っている1号は、一年の内に何度かガス欠を起こして四、五日ほど一気に寝て過ごすことがある。本人が言うには充電期間らしいが、今が偶々その時期だったのであろう。
気付けばブレーカーが落ちたかのようにあっという間に眠りについた1号に、適当に作った毛布をその場で被せた。相変わらず閑散とした飛行場なのだから、ここに天使が一人寝転がっていたとして、誰も邪魔だとは思わないだろう。
……少し休憩したら吹き抜けの渦に行こう。
……ついでに、本当に8mm広がったのか確認してみるのもいいかもしれない。
2
いつ見ても圧巻の光景だった。
間近の上空から見下ろした吹き抜けの渦からは、天界にあいた穴の代表だという壮大さを見るたびにひしひしと感じる。
天界に穴をあけることはよくある話だ。担当している人間の観察という仕事目的かもしれないし、単に暇つぶしのためかもしれない。だが、いずれにしても、あけた穴は用が済んだ時点で塞いでおく。それが天界におけるマナーというものだ。
そのマナーの例外枠がこの吹き抜けの渦だ。遥か昔は誰も塞がずに放置された普通の穴だったらしいが、時を経るにつれてじわりじわりと広がっていき、今では塞ぐこと自体が困難な大きさにまで成長している。
吹き抜けの渦の中心にはある種の「壁」が存在する。人間界からの突風の柱だ。大気を歪ませて対岸の景色を遮る強烈な風が常に吹き上がっている。だが、この中心を突き抜けて正確な大きさを定期的に測量する好事家もいるらしい。最新の直径は20km、いや20kmと8mmとのことだが……確認する気はとうに失せた。あまりの壮大さに私の好奇心は呑まれて何処へと流されていったらしい。
私とルナシーは二時間かけて、工場からこの吹き抜けの渦までやってきた。
初めての長距離飛翔ともあってペースダウンする場面にも幾つか出くわしたが、それでも休憩を挟まずに一息でここまでたどり着くことができた。
人間界の地表から上空2kmまでの範囲が空気の淀みの特に激しい部分だ。高負荷となるその区間を安定して抜けるためにも、今のうちから持久力をつけるに越したことはない。
「……………………!」
「ここが前に言ってた吹き抜けの渦。せっかくだし、ゆっくり散歩でもしようか」
「…………」
「休みたい? そりゃそっか。それじゃあ、どこかで休憩しよう」
吹き抜けの渦の縁を沿うように少し歩くと座り心地の良さそうな小高い起伏が目に留まった。その丘に腰かけて正面を望むと、視界の端から端まで吹き抜けの渦の縁が横切り、まるで天界と人間界が上下に並んでいるかのように見えた。
下半分が天界の薄桃色で、上半分が人間界の青色。
常々人間界をのぞき込む側だからこそ感じる、不思議な新鮮さが眼前の景色から与えられた。
「良い場所を見つけられたね。穴場かもしれないよ」
「……………………」
「……あっ、今のは駄洒落じゃなくて」
ルナシーは私の前で暫く静かに座っていたものの、やがて目の前の非日常にあてられたのか、はたまたじっとしていることに飽きたのか……突如立ち上がったかと思うと、興奮した様子を見せながらしきりに吹き抜けの渦の方を指さした。
「本当に凄い光景だよね。こんなのはここでしか見られないよ」
「……………………!」
「他にも幾つかは開きっぱなしの大穴があるらしいけど、これが一番巨大なんだってさ」
「…………! …………!」
「もう少し持久力をつけたら今度はそっちにも行ってみようか。一番近いのは……」
そこまで続けた私とルナシーとの会話に、ふと一声が挟まれた。
「あのぅ……もしかしてシェル・スターリング、ですか?」
「えっ」
「あぁっ! やっぱり教官じゃないですかぁ!!」
「……こりゃあ驚いた。『撃墜王』じゃないか、久しぶりだね」
私の背中に遠くから声をかけてきたのは、かつての飛翔訓練の教え子の一人である撃墜王だった。
遠目に確認した彼女は大きく手を振りながらこちらへと駆けてきたが……振り向いた私は一瞬戸惑ってしまった。最後に別れた時よりも随分と背が伸びている。それに髪も長くなっていて、当時と比べるとかなり大人びた雰囲気を醸していた。
「調子はどうなの。撃墜記録は伸ばしてない?」
「もう三十年近く前の話ですよ、教官。私も成長したんです!」
その自信に満ちた報告に頬が緩んだ。
彼女は私の教官デビューに付き合った相手であった。
恐ろしいほど飛翔のセンスがなく、一緒に練習している同期たちをも巻き込んで墜落することもざらにあった。彼女の上司がかねてから親交のあったXOに相談したことにより、彼女はまだ瞳が輝いていた頃の私のところへと預けられたという、そのような経緯がある。
彼女に「撃墜王」というあだ名を付けたのは私だ。墜落王ではあまりに不憫がすぎるために、もう少しポジティブな撃墜という単語を採用したのである。後々思えば他人を巻き込むだけ余計に性質が悪いような気もしたが、その時には既に彼女は撃墜王として完全に周知されてしまっていたので、遂には訂正されることなく今に至る。
「今は教官じゃないよ。それに、その前に余計な一文字が足りない」
「私にとっては教官です! まぁ、私の時も鬼だったとは思いますけど」
「それくらいしないと矯正不可能なレベルだったからなぁ」
「わかってますよ。でも、そのおかげでちゃんと飛べるようになったので」
そう言って撃墜王は私へと背を向けて翼をはばたかせてみせた。久しぶりにその形状を見たことで、思わず懐かしさからの溜息がこぼれた。
撃墜王の翼は両方とも奇妙な方向に捻じれている。垂直離陸を試みても捻じれのせいで推進力の向きが最初の時点で変わってしまい、本人は真っ直ぐに飛び上がったつもりでもあらぬ方向へと角度が付く。そこに上乗せするように更に翼を動かすものだから、浮かび上がった彼女の全身は、さながら狭い箱の中にゴムボールを叩きつけたかのような滅茶苦茶な軌道を描いてしまうのである。
飛翔のセンスが欠落しているという事実もダメ押しになっていて、初めてその様子を見たときはこれなら誰かを巻き込んで「撃墜」しても当然だと驚愕したものだ。
この矯正には大変な労力を費やした……翼を全く動かさずに推進力を与えた際にどのような動きになるのかを調べ上げて、捻じれた翼をどれだけ動かせば期待する方向に身体を向けられるかを徹底的に洗い出した。
撃墜王の元の上司が諦めた矯正を六か月の猛特訓の末に果たした時は、互いに文字通り飛び跳ねて喜んだものだ。
その一件以降、私のもとに教官依頼が舞い込むようになった。
今では遠い過去の話だが。
「そうだ! 聞きましたよ、教育係になったって話!」
「どうしてその事を」
「噂になってますよ。『あの鬼教官がなんと新入りの教育係に!』……って」
……1号の発信能力の高さには驚くばかりだ、こんなに遠くにまで伝播するとは。
「第二の鬼教官誕生か?! ……って、そんな感じで私の工場でも盛り上がっていましたよ」
「まさか……二の轍は踏ませないつもりだよ。それに、結構苦労もしてる」
「そうなんですか? どんな子なんです?」
飛翔のセンスこそ違えど、生まれつき難有りの翼を抱えているという共通点がある。
ひょっとしたらすぐにでも意気投合するかもしれない。
そんな展開を期待しながら、撃墜王へと紹介するために吹き抜けの渦へと向き直った。
そこにルナシーの姿はなかった。




