One After Another.
1
「…………! …………!」
「そう心配しなくていいからさ。私のためにも落ち着いてよ、ね?」
「…………」
「よっ……よぉし、いくぞ……! 今度こそ……!」
「……………………」
「三度目の正直を二周もしたんだから……今度こそ本気でいくぞ……!」
「……………………!」
「……ふっ! はぁっ! やっぱり待った! 無理ムリむり」
「…………」
「と見せかけて、せェェェいィィィ!!!」
「!!!」
「ィィィぃぃぃっっったあああぁぁぁ!!!」
ぶちィっ、という音が脳天まで突き抜けた。
一瞬痛くないような気がしたが気のせいだった。
十分の一秒後、凄まじい衝撃が背中を伝って全身の神経系に緊急通達を済ませ、直後、その場でじっとしていられないレベルの激痛が体内で乱反射した。この世に存在してはならない痛みだ。
後を追うように吐き気を誘うような別種の痛みもやってきて、転げまわることをやめてその場にうずくまった。
「ぁぁぁ……っっっあぁぁぁ……ぅっ」
「…………! …………!」
「大丈夫かな、これ……翼もげてない……?」
そんな空想が現実だと嘯かれても、今の私であれば疑わないだろう。
指の震えがまだ治まっていない手のひらをそっと伸ばすと、ぐったりとした左の翼と、それを気の毒そうに眺める右の翼の両方が、確かにまだ背中にくっついていた。
「はい……これ……大事に使ってね……!」
「……………………」
左の翼から失敬した風切り羽の一本をルナシーに手渡しながら、本心を煮詰めて出てきた灰汁のような願望を告げた。
この一週間はルナシーの飛翔訓練に精を出していた。
感覚がものを言う飛翔の訓練は、そのコツが骨の奥に染み込むまで徹底的に、間隔を広く取らずに集中した方が効率がいい。身につけたコツを意識せずとも、半ば無意識のうちに発揮できるようになるまで一気に駆け抜けられるのが理想の形だ。ルナシーはその理想形の上をなぞり、飛翔のためのコツというものを、私が想像していた以上に早く呑み込んで自らのものにした。
贔屓目を差し引いてもルナシーには優れた飛翔のセンスがあった。
初めて飛行場で浮上に成功したあの一件を皮切りに、ルナシーの飛翔の腕前は坂道を転がる雪玉のように上達していった。
翌日には目標を大きく超える六十秒のホバリングを、その翌日には墜落ではない足からの着陸を、といった具合に、着実かつ速やかに飛翔のための段階を詰めていった。
そうして三日前には翼を用いたホバリング中の方向転換を、そして昨日の夕暮れ前にはついに推進力を横へ向けての前進を――つまり飛翔を――達成した。
もちろん、並々ならぬ苦労があったことは事実だ。
飛行場でこの一週間の夜を明かし、休憩もそこそこに朝から晩まで、飛んでは下りてを延々と繰り返した努力の結果が、ルナシーに宿ったのだ。
加えて、努力の果実が結ばれたこととはまた別で喜ばしいことに――これは完全に副産物的な結果だが――翼の格納の不調も、この一週間の努力に圧倒されたのか、幾ばくかの改善の兆候を見せていた。先天的な根深い問題かと憂慮していたが経験で改善することが判明したため、これは特別気に掛けるような問題ではなかろうという結論に至ったことは大きい。
ただ、喜ばしい結果ばかりかというとそうでもない。
ホバリングをマスターし、いよいよ本格的な飛翔に取り掛かろうと意気込んだ先日の内に、ルナシーの翼の小ささが無視できないものだという現実と改めて対面した。それほどまでに彼女の翼が虚弱だと、残念ながら認めざるを得なくなってしまった。
飛翔ができないわけではない。むしろ、翼が小さいだけ取り回しの観点では有利と言える。そこに別の角度からの負担がかかることが問題だった。
天使は講義に取り組むにあたり自前の羽ペンを用意する必要がある。
と言っても、人間が使う羽ペンのような凝った意匠や機能を施すことはない。ただ単に、延々の大地を薄く伸ばして作った紙などに、根本の鋭角で文字を彫り込むために使う。
その原材料である風切り羽だが、どこから調達するのかというと、当然のことながら本人の左右どちらかの翼からということになる。
しかし、ルナシーの翼は、本来の機能を満たせる下限の極致にあると見て疑いようがなかった。この許容範囲ギリギリの翼から羽ペン用の一本を引き抜くなどという危険はさすがに冒せない。下手を打てば生涯まともに翼の制御が利かなくなる可能性すらある。
だが、だからといって講義を延々と後ろ送りにするわけにもいかない。浮上のコツを完全に身につけ終えた今、飛翔訓練の合間に受けられる実用的な講義を少しずつ選んで取り組み始めるべきであった。
特に稟議書――人間への寿命の供給を停止する要請を出すための書類――の書き方などは、実際に提出する頻度はどうであれ相当重要な位置にある。そのためにはやはり羽ペンの一本を用意しておきたい。堂々巡りであった。
だから私が身体を張ることにしたのだ。
自分用の羽ペンは、幼い時分に右の翼から引っこ抜いてとうの昔から活用している。それとは別にルナシーが持つための羽ペンを――無論、釣り合いをとるためにも左の翼から――頂戴することを決意した。
最大の障壁は……痛覚だった。
天使は初めての講義に出る前に、左右どちらかの翼から持ちやすそうな風切り羽を一本選んで引き抜く。多少は痛いだろうが常識の範囲内だろう。
だが、私の翼はルナシーとは真逆の方向に特殊だ。翼が大きいと刺激を感知するための神経も太くて敏感なのかもしれない。他の天使ならそわそわする程度で済む翼の先端への刺激も、私にとっては悪意に満ちたくすぐりに匹敵する。痛みも同様にして過大だ。
実際、自分用の羽ペンをなんの気なしに引っこ抜いた幼い頃の私も、いざ講義を始めようとしていた上級天使の存在もお構いなしに、その場で派手にのたうち回った。あの時の1号を含めた同期たちの唖然とした顔の並びは生涯忘れないだろう。
なんにせよ、その一件がトラウマになる程度には痛覚に過敏な私だ。失くしたわけでもないのにもう一度羽ペンを作るというド級の決断のために一晩を費やし、やるなら朝一の半分寝ぼけたうちにさっと済ませてしまおうと計画し、土壇場になって臆病風が六回も吹いて、七回目にしてついに風切り羽を掴んだ腕を振り下ろした。
そして、先の断末魔に至るというわけだ。
「朝からいったい何事なの……?」
私の絶叫が聞こえたのか、顔を上げるとそこには1号が眉をひそめて立っていた。
「……………………!」
「おっ、良い艶してる羽だね。随分大きいように見えるけど」
「私のだからだよ……」
「あなたがルナシーにあげたの? 優しい鬼教官サマだね」
事情を知らない天使からすればたしかに甘やかしているように見えるかもしれないが、やむを得ない切実な理由と長大な葛藤の果ての決断なのだからこれに苦言を呈されたくはない。
もっとも、当の1号は、良いモノ貰えたねぇなどと言いながらルナシーの隣に座って他愛もないことを話しているので、そんなつもりはないのだろうが。
「ついに座学デビューってところなの?」
「どっちかっていうと、筆談のためってのが大きいかな」
「そっか、話せないんだよね。それじゃあ字の勉強が先かな」
「そのつもり。ものが書ければコミュニケーションの助けになるし」
「絵についてなら私に任せてよ。文字だけでちょっと硬いところに華を、ってね」
そう言うと1号は翼から自前の羽ペンを取り出すと、足元を適当に踏み固めて平らな面をひとつ作り、そこに何やら刻み込み始めた。
工場の幹には、延々の大地を伸ばして作られた新聞が時々吊るされている。ここ一帯の各工場にそれぞれ所属する情報通たちの連盟が不定期で発行しているらしい。そのメンバーには1号も加わっている……意外性も何もないが。
新聞の体裁はあえて人間界のそれを倣っているらしく、罫線に沿ってきっちりと枠決めがなされていて、小難しい単語や例えも多用している。
ただ、新聞の内容については1号が口頭で伝えて回っているそれとさして違いのない、くだらない話題が大半であった。ぱっと見は高尚な出来だけに拍子抜けもするが、そのギャップがむしろ良いのだと一部の天使からは地味に人気を博してもいる。
1号はその新聞の挿絵をよく担当している。画風は多岐に及び、天界のどこであるか一目でわかるほどに写実的なときもあれば、人間界の出来事を風刺するコミカルな漫画調のときもある。
1号はあっという間に足元に絵を描いてみせた。さらさらと描かれた簡便なものだが、それがルナシーを表しているということは一目でわかった。これほど少ない数の線で的確に特徴を捉えて表現できるあたり、彼女の絵についてのセンスが卓越していることはわざわざ口に出すまでもない。
「絵の練習には人間界をのぞくのがおすすめだよ。面白いことが見つかるかもしれないし」
「真上からの視点だけで勉強になるの」
「そこは工夫だよ。人間の読んでる雑誌とか画集なんかはこっちを向いてるし、載ってる画像の構図もばっちり」
「あぁ。たしかに」
「ルナシーのために良いスポットを伝授するよ。ここなんだけどね……」
「…………」
1号は先ほど描いた絵ごと延々の大地をほぐして穴を作り、ルナシーにそこからのぞかせた。
そうして、横から彼女ものぞき込み、とある一点を指さした。かなり大きな書店だ。
……なるほど。平積みされている本の表紙か。
……優れた構図の絵や写真がこちらに向けて陳列されている。
……そして、ジャンルも豊富で定期的に入れ替わる。
私が素直に感心している横でルナシーが首を傾げた。穴にはまり込むくらい顔を寄せたかと思うと、今度は逆に遠ざけたりして落ち着きがない。
「……………………?」
「どうしたの、ルナシー」
「眼の調子が悪いんじゃない? 透視のさせすぎとか」
1号の疑問には「まさか」とだけ返した。
この一週間は飛ぶことに全力で、それ以外のことには全くと言っていいほど手を付けていない。それもどうなんだと問われると少し困るが、少なくともルナシーの眼にとってはさぞ優しい一週間だったであろう。
天使の眼は様々な機能が搭載された精密機械だ。天界から人間界をのぞくための強大な視力。対象者を観察するための障害を取り除く透視の力。その人物が何を話しているのか唇の動きから判別する能力。そのどれもが、人間の最期を見守るという天使のほぼ唯一の仕事のために必須となる機能だ。
よく使うということはつまり劣化する。そうして視力が衰えてしまえば天使は仕事の一切合切と距離を置くことになる。だが、そうなるのはまさに晩年の縁まで差し掛かった天使の更にごく一部であり、生まれたての身であるルナシーとは無縁の話に思えた。
「あの丘の上に天使が寝てるんだけど、仰向けかうつ伏せか、わかる?」
周辺を見渡し、適当に目についた方向を指して尋ねた。
示した2kmほど先には名も知らぬ天使が一人、昼寝に興じて居るのだが、
「……………………?」
やはりルナシーから解答は得られなかった。
……これは重症だ。
たかだかこの程度しか離れていない天使を識別できないのであれば、その何倍以上も距離がある人間界の、それも地上にいる人間の行動なんて分かるわけがない。
しかし、劣化した天使の眼は幸運なことに治すことができる。
そのための腕の良い眼科医も私は知っている。
「予定変更。今日はエリオットのところに連れて行く」
「その方がいいよ。眼が治ったらまた教えるね、ルナシー」
そう言って1号は毎日の恒例だという情報通たちの集まりのためにその場を離れた。
「次から次へと、難儀な身体してるね」
「……………………」
「いいよ、付き合うよ。私も似たようなものだし」
「…………!」
「でも、その羽は絶対に失くさないでね……」
「…………」
……切に願う、本当に。
2
「おはよう、エリオット」
「…………」
「お・は・よ・う! エリオット!」
前にも同じようなやり取りがあった気がする。
XOの時といい、上級天使に昇格すると物思いに耽ることが多くなるのだろうか。エリオットについては研究と診断に思慮を巡らせていない時間はないようなものだが、本人が充実しているのならまぁそれでよいのだろう。
「……また君か。例の賭け事はやりすぎるなと先週忠告したばかりなのに」
「誰かと間違えてませんかね。前に診てもらいにきたのは三か月以上前ですよ」
「おや失礼。患者が多くてね、勘違いだったか。えぇと、君の名は……」
「シェル・スターリングです。セルじゃなくてシェル。CじゃなくてS」
「少し待っててくれ。カルテを探すから」
エリオットは山積みにされていた分厚いカルテの束の一部を、彼の七本の腕それぞれに一冊ずつとって一斉に開いた。名がSから始まる天使は多いらしい。どうでもいい知識がひとつ増えた。
上級天使ではあるものの、エリオットの見た目は人型とそうかけ離れていない。昇格前はこんな姿だったのだろうという勝手な想像ができるくらいには原型を残している。
特徴的なのは腕だけで、両肩から伸びる二本に加えて、背中から更に五本が生えている。私は二枚の翼だけでもいなすのに苦労しているが、合わせて七本ともなれば文字通り相当手を焼くことになるだろう。だが、エリオットは実に巧みに計三十五の指を動かしてカルテをぱらぱらとめくっている。
「SHELL・STARRING。前回来訪時の視力強度は19。点眼後は25。そう悲惨な状態ではなかったようだね」
視力強度というのは、要はどの程度遠くまで見えるかの指標だ。単純な計測で導き出される。1km先の天使が何を会話しているか理解できれば1で、2km先でも判別可能であれば2となる。
視力強度15が通院を必須とする境界だ。これを下回ると人間界の観察に支障をきたす。
だが、ルナシーの視力強度が良くても2にすら満たないことは、私の素人診断でも明らかなことだ。
「今日は私じゃなくて、こっちのルナシーです」
「なんだ、先に言ってほしかったな。Lでいいのかい。それともRか」
「Lですけど、カルテはないですよ。初診ですから」
「なら後で作っておこう。見せてくれ、ルナシー」
そう言いながらエリオットは全てのカルテを手放し、ルナシーの眼前まで近付いて右目の瞼を指で大きく広げた。
……後はエリオットに任せておけば上手いこと治めてくれるだろう。
今朝の一件の痛みがまだ完全には引いていなかったので、翼を労わるためにも適当なところで横になった。
そうして目を閉じて、診察が終わるのを気長に待った。
診察は思ったよりも早く終わった。悪い意味でだが。
エリオットが言うには、外見には全く問題が見当たらなかったらしい。それは結構なことだが、問題がないのに視力強度があの程度であれば、それこそ厄介だということを相談した。
そこで、次にルナシーの視力強度を正確に測ることになった。
エリオットの「診察室」は飛行場ほどではないものの周囲がひらけていて、全方角を遠くまで見渡すことができる。診察室の中心に立ち、距離が異なる各方角のランドマークを望めば、おおよその視力強度がすぐに割り出せるという寸法だ。そこで天使の二、三人が立ち話でもしていればなお都合が良い。
ルナシーの視力強度は0.01だった。
小数点が付いた視力強度を見るのはこれが初めてのことだった。要は10m先の会話しか読むことができない。それくらいならば耳を傾けた方が幾らか労力の節約になる。
加えて、ルナシーは透視ができないという事も判明した。
透視強度もすぐに測ることができる。適当に文字を彫り込んだ紙を等間隔に吊るして重ねて、一枚目から何枚後ろの文字までを識別できるかで決まる。視力強度よりも個人差が出るが、大抵の場合は200から300の間くらいに収まる。
だが、ルナシーは透視ができなかった。あえて言うなら透視強度0だ。
つまり、家屋や車両の天板を透視することも、そもそも人間界の様子をのぞくこともルナシーには叶わないということだ。
ここまで酷いとは思ってもいなかったが、それでも迂闊としか言いようがなかった。分かっていれば飛翔訓練は後回しにして、もっと早くここを訪れたというのに。
だがそれと同時に、この診察結果に屈折した安堵が滲んだ。
私の知る限りでは一番腕の立つ眼科医であるエリオットにも原因がわからないのであれば、天界の誰に聞いて回ったところで、遅かれ早かれ今と同じ状況に帰結していただろうという、そういう本末転倒が想像できた。そうして無意味なエゴを恥じた。
「どうにかなりませんかね」
「難しいなこれは。初めて見るケースだからなんとも言えないね」
「暫くはいいんですけど、ずっとこのままだと仕事にも支障が……」
「これまでは何を。目を酷使するような業務に励んだりしていたのかい」
「まだ何も。これから座学等々に取り組むつもりだったんですが」
「これから? 歳はいくつ」
「生まれてまだ一週間です。だから眼精疲労みたいなものもないはずなんですけど」
「……そうか。とりあえず点眼薬で調整しよう。いろいろと面白いケースだね、この子は」
その面白いという言葉は眼科医としての純粋な興味の塊だとわかっているが、どうにも良い気分はしなかった。ついさっきまで自己保身に身を委ねていたにもかかわらず。つくづく私は教育者に向いていない性格をしていた。
天界の眼科医は工場から点眼薬を作り出す。
工場である各大樹の内部を巡る成分――即ち、人間の寿命――を、人間界に配分される前の段階で幹の外へと取り出して、適切な調合によって「目薬」を精製する。眼科医によって差があるが大抵はどれも薄緑の液体だ。それを延々の大地を圧縮して成型した小瓶に詰めて患者へと渡す。
工場に流れる寿命の質は常に一定というわけではない。エリオットが名医と呼ばれる所以は、不定の成分を都度見極めて、患者に最適な点眼薬を常に提供できるところにある。それだけに、わざわざ遠くの工場から彼を訪ねる凝り性の天使もいるらしい。あのカルテの山にも納得できる。
結論としては、そのエリオットの診察と点眼薬をもってしても、ルナシーの眼は実用に耐えられるまでには改善しなかった。視力強度が0.1くらいにはなったがそれまでだった。
エリオットはルナシーのカルテを新たに作り、表紙に「L」と刻まれた束の一つにではなく、「重篤」と刻まれた束の一番上に括り付けた。
定期的にさすようにと言って、エリオットは点眼薬の小瓶を差し出した。ルナシーはその小瓶を受け取って右の翼の内側に片付けた。翼の出し入れはまだどこかぎこちないが落とすことはないだろう。落としたとしてもまた貰いにくればいい。だが、羽ペンの方を失くされたら……あまり想像したくはなかった。
「無くなったらまた取りにきてくれ。だけど使いすぎは禁物だからね」
「何か副作用でもあるんですか」
「今まではないよ。これからもないとは断言できないだけさ」
「そういうのをなんて言うんでしたっけ。杞憂でしたっけ」
「医者とはそういうものさ」
私に教える側の素質はない。医者にもどうやら向いてなさそうだった。
「それにしても感心だね。甲斐甲斐しくも後輩の世話をするだなんて」
「代わりにXOの甲斐性はなくなったみたいですけどね」
「君の上司は彼女だったか。しかし……随分と短い子だね」
「ルナシーの髪で短いのなら、エリオット的には私はベリーショートですかね」
「おや。さっきもそうだが、何も聞いていないようだね」
「なんの話です」
「僕が話すことじゃあないから、君の上司に直接聞くといい」
そこで別の患者が訪ねてきた。エリオットは挨拶もそこそこにそちらの対応へと意識を向けてしまったので、続きを催促できる雰囲気ではなくなってしまった。
XOか、この一週間は一度も顔を見ていない。
たまにはあの錆まみれの顔を拝まないと、溜まりに溜まった雑務をどさりと押し付けられることになる。近頃はそういった機会はあまりないが、この手の類は油断しているところに持ち込まれるのが常なのだから定期的な確認に越したことはない。
それに、いろいろと話したいこともできた。
ルナシーには不調が多いがなんとかやってるということ。眼の一件は先行き不安だが、一週間で飛翔ができるようになったのは大きい。悪い話だけではないということは強く推したいところだ。
新人教育係の任期はいつまでなのかということ。これもいい加減にはっきりしておいた方がいい。その方が予定を立てやすいというか、私にとってもルナシーにとってもメリハリのようなものができて都合が良いだろう。
ついでに、エリオットが言いかけた話題についても催促しておこう。重要なことだとしても、そうでないにしても、こうも中途半端に目の前にちらつかされては内容如何にかかわらず気になってしまうものだ。
何を話すか頭の中で整理しながら、ルナシーと手をつないで工場へと戻った。
もうじき正午になるということもあるが、いつにも増して大樹周辺はざわついていた。
幹の前には天使たちがたむろして、皆が皆、視線を同じ方向に揃えている。
彼女たちの後頭部の隙間から向こうをのぞくと、工場の幹に号外が吊るされていた。
XOが亡くなったらしい。




