Fly High.
1
「――……それで、このでっかい木が『工場』ね」
「…………」
「正式名称は霧雨の大樹……だったかな? でもまぁ、ここに割り当てられている天使は大体みんな工場って呼んでるよ」
「…………」
「他にも似たような木は幾らでもあるよ。だけど、この辺りの天使が工場って口にしたら霧雨の大樹を指してると思ってまず間違いない」
「…………」
「どの工場の一番太い根っこも……第一寿命供給ラインって言うんだけど、それは必ず北に向かって伸びてるから、道に迷ったり方角について話題が挙がったときそれを思い出して、まずは木の根本を確認してね」
「…………」
「あと念押しするけど、今後不満があっても翼を握るのは絶対無しね。それと……――」
今の私は手にした人形に対して延々と独り言を話しかける危なげな姿に見られているに違いない。
工場の存在感が増すに従って、他の天使たちとすれ違う頻度も上がり、私がまだ正気を失ってはいないということをアピールするために愛想笑いを都度作っていたが、それにもいい加減に疲れてきた。
XOとの交換条件をのんだ私は何週間かぶりに工場へと足を運んだ。
出会ってから未だに言葉による意思表示をしてこない、この……ルナシーの手を取って。
ルナシーは「話さない」のではなく「話せない」のだろうと、一旦結論付けた。
どうにも私には、ルナシーとしては何か伝えようと試みているように思えてならないのである。きゅっと口を結んだり……唇を薄く開いたり……息をのんだり……僅かな動きを伴うそれら反応の理由について、本人から聞いたわけではないのだから勝手な憶測の域を出ることはないが、おそらく口も利きたくないほど嫌われているというわけではなさそうに思えた。
そもそもの話だが、ルナシーが不満を抱いていると仮定して、もし事実であれば私よりもXOに懐いていたであろうことからも、少なくとも現段階においてはネガティブな印象は持たれてはいないはずだという推察に関してはほぼ間違いないだろう。というよりも、そう捉えていた方が私の精神衛生に優しいからというのが本音ではあるが。
理由はどうあれ、会話によるコミュニケーションをルナシーと交わせないことに少し不安は残るが、これについてはいずれ改善してくれることを期待するしかない。
そのためにも、効果が如何ほどかは知れないが、XOのもとから延々の大地を歩いて工場に来るまでの間、積極的にルナシーへと語り掛けていたというわけだ……気の利いた返事の兆候は未だにないけれども。
そのような考えが頭の中に漂っていたからか、
「――……シェル・スターリング!」
などという不意の声掛けに、ぱっ、と、反射的に左下に目をやった。
そろそろ相手でもしてやろうかという気になってくれたのかと。
だが、遂に言葉を発したかと思われた左下のルナシーは、不思議そうに丸い目をこちらへと向けたばかりで、それ以上どうこうといった反応は示さなかった。
「こっちこっち! 久しぶりだね!」
「……あぁ、『1号』じゃないか。丁度いいや、探してたんだよ」
呼びかけの主はルナシーではなく、工場の幹の側に座っていた1号だった。
やけに聞きなじみのある声だと思ったが当然のこと……私は変わらず無口なままのルナシーの手をひき、歩を進めた。
長い天使の一生でいちいち知り合いの顔と名前を記憶していってはきりがないというのは私の持論だ。だから私は知り合った順に番号を付けていくという、極めて合理的で素晴らしい手法を思いついたのである……さすがにお偉方である上級天使くらいは名で呼ぶことにしているが。
彼女とは同じ日に霧雨の大樹のそばで生まれて、同じ上級天使――XOのことだ――に、同じ日に名付けられた、そういう間柄だ。だから1号と呼んでいる。
1号は延々の大地で作った紙縒りを使って、白い長髪を一本の尻尾のようにして後ろにまとめている。前に会ったときは後ろ髪はそのままに左右に二本――所謂、ツーサイドアップ――の髪型だったと思うが、頭の両側で毎回結ぶのが面倒になったのだろうか。それ以前にも彼女はちょくちょく髪型を変えているので大した頓着はないのかもしれない。
身長は私と同じくらいだが、1号は余りある活力を常に全身から放出しているのか、話していると無意識に湧き出してくるらしい浮力によって、常に身体が握り拳ひとつ分ほど宙に浮かんでいる。それがために元来の背丈も高いような印象を受ける。
そのような落ち着きのない1号の身振り手振りはいちいち過剰であり、彼女から面と向かって話を聞いたとあらば、極めてどうでもよい些末なことですら、どれだけか大仰に感じられてしまうのが毎度のことであった。
「いい加減にその呼び方どうにかならない?」
「私の記憶力が今よりマシになったら考えなくもないかな」
「どうだか。いつもそう言ってるけど、マシになったなんて話は聞いたことがないもん」
1号は私の命名理論にケチをつけながらも、人間界をのぞくためにあけていた足元の穴をさっと塞いでから小走りでこちらへと駆けてきた。その様子からして、またいろいろな噂をかき集めてきては誰かに話したくて仕方がないといったところなのであろう。
「ところでビッグニュースだよ、聞いてよ! 吹き抜けの渦が広がったんだって!」
「どれくらいさ」
「なんと、8mm」
「誤差だと思うのは私だけかな」
「いやいやいや、もともとの直径が20kmはあるんだよ。均等に広がったんだとしたら、ざっと計算しても250平方メートル以上は大きくなったんだから」
「数学とやらが天界の必修科目になってからまた教えてよ」
「つれないなぁ。新着の話題といったら後は、噴煙の丘がパンクしただとか、マザーが隠居しただとか、出張に降りた天使が人間と一発キメ込んで大騒ぎだとか……」
そこまでまくしたてた1号がふと、視線を落とした。
最後の話題は泥沼の香りがして少しだけ興味を誘ったが、今の私にはその話に耳を傾けるよりも優先順位の高いことがあった。そのために1号を探していたのが、向こうから興味を差し向けてきたので導入の手間が省けて助かるばかりだ。
「こちらの可愛いのは、いったいどちらさま?」
「ルナシーっていうの。無口が信条らしいから誤解しないであげてね」
「そっかぁ……えっ、上級天使なの?」
「いんや、普通の新入り。でも他に同名はいないらしいし。上の名だけでいいかなって」
「誰が名付けたの?」
「XO」
どこか納得したような相槌を漏らしながら、その場で1号が屈んでルナシーと背の高さを合わせた。
ルナシーの特殊な色合いの髪には、ついつい触りたくなってしまう秘術か何かがかけられているのかもしれない。1号はその髪に両手を添えてわさわさと撫で始めたが、ルナシーはその間、きゅっと目を閉じてされるがままに身を任せていた。1号は毎回変わった方法で相手を印象付けて記憶する。いきなりの事で戸惑うかもしれないが、一度きりなのでここは我慢してもらいたい。
1号はルナシーの髪を暫く弄った後に「よし、覚えた」と威勢よく宣言して立ち上がった。これでこの新入りの存在は、明日までには隣の、そのまた隣の大樹にまで周知されることだろう。1号の交友関係はそれほどまでに広い。
「それで、そのXOはどうしたの?」
「子育てにはいい加減疲れたんだってさ。育児放棄して、今はこの有様」
「……えぇ、嘘だぁ。あなたが教育係?」
「私も嘘だと思いたいんだけどなぁ」
「これまた面白いニュースが入ってきたね。広めてこなきゃ!」
翼を広げた1号はさっと背を向けたかと思うと、私が次にまばたきをするまでにはもう飛び立ってどこかへと去ってしまった。大方、隣の大樹にいる情報通仲間の誰かのところだろう。
……これで私の教育係デビューについても、明日にはどこかの四方山話に組み込まれる。
……そちらについては、できればもう少しそっとしておいてもらえるとなお良かったが。
「…………」
「今のが1号ね。落ち着きもなければ忙しないけど、いずれ慣れるから気にしないで」
「……………………」
「……わかってるよ。あなたのことは番号じゃなくて『ルナシー』って呼ぶから」
なんだか目で訴えられているような気がしたので早々に折れることにした。
二度と翼は握らないようにという誓いを立てたつもりだが、ルナシーからは無言の返事しか貰っていないので彼女が同意してくれたという保証はない。安全策というのは張っておくことに意味があるのだ。
とりあえずここでの目標は達成した。
当初の予定通り1号の話を聞き、追加された予定通りルナシーの広報を――その大半は1号任せではあるが――済ませた。
教育の方針は好きにしてよいというのはXOからの言質付きだ。
なら、仰せの通りに、私なりの新人教育をせいぜい実施させてもらうことにしよう。
ルナシーの手を取りなおして、私は長らくぶりの飛行場へと向かった。
2
「…………」
「そんな目で見ないでよ。自覚はしてるんだから」
「…………」
「ほら、私の背中より自分の背中に集中して」
「…………!」
「おっ、いい感じ。そのまま全部展開して」
「…………?」
「……もしかして既に出力全開?」
「……………………」
「あぁ、待ったまった。今のは失言……もとい不適切発言だったかも」
飛行場は閑散としていた。その方が気兼ねが要らないので好都合だ。
工場から南に少し歩いたところに起伏の全くない平野が広がっている。周囲には何もなく横風ひとつ吹き込まない。この一帯にはそういう特徴があるものの、ランドマークとしてはあまりに無味乾燥が過ぎるため、特にこれといった名称も付けられてはいない。
ただ、私はこの一帯を「飛行場」と勝手に呼んでいる。空を飛ぶ練習には最適なコンディションが揃っているためだ。
私はルナシーを連れてこの飛行場を訪れ、まず初めに飛翔訓練から入ることに決めた。
新人教育は天使学という、天使の成り立ちや意義についての講義――つまり、人間界で言うところの保健体育のようなもの――から始めて、その後から仕事に必要になる技術を身につけていくのが一般的な流れだ。
だが、こんなことを言うのもなんだが、天使学をはじめとした所謂座学は、天使の仕事を進めるに際して直接役立つということが殆どない。生まれたばかりで吸収率の高い貴重な期間をそんなことに費やすよりも、実務に直結するスキルを身につける方が余程のこと効率的だ。知的好奇心はその後から、余りある暇を好きなだけ注ぎ込んで満たせばいい。
もうひとつの理由としては、私が新入りの飛翔の面倒を見る教官役を時々買わされていることが挙げられる。
決して自惚れるつもりはないのだが、主観的にも客観的にも、私の飛翔能力はそこそこ高いレベルにある。天界中を探せば私より空を飛ぶことが上手い天使だっているだろうが、齢五十でこの技量となればそうは見つからないだろうという自負がある。
……前言撤回、やはり多少は自画自賛する程度に技量があると言い直そう。
とにかく、そのことを知っているXOから飛翔教官役を押し付けられ……
XO経由で、別の工場の新入りの飛翔教官役を押し付けられ……
といった具合に事態は転がり、そうして私の顔と名前はこの辺りでちょっと知れるようになったという経緯がある。
それ自体に悪い気はしない。
ただ、教官活動の結果として私に付けられた通り名が「霧雨の大樹の鬼教官」とあっては……やはり、これも撤回した方がよいのかもしれない。
「翼の大きさは関係ないんだって。飛ぼうという意思が浮力になるんだから」
「…………」
「大きすぎると面倒だよ。動きが大味になりがちで、小回りも効き辛くなるんだから」
「…………」
「まぁ、小さすぎるのも良いとは言わないけどさ」
「……………………」
「いや、でも、その大きさは許容範囲内! なんの問題もないから!」
思わず正直な感想が口の端から漏れてしまい、慌てて取り繕った。
ルナシーの翼は、数多くの新入り天使を見てきた私からしても、お世辞にも同年代と比して十分な大きさには見えなかった。今朝ちらっと翼が見えたときからなんとなくそのような気はしていたが、こうして改めて間近で眺めると彼女の翼の小ささがよりはっきりと認識できる。
片翼の全長――根本から切っ先までの長さ――は通常、主である天使の片腕の長さとおおよそ比例する。違う言い方をするならば、両腕を広げた長さと、左右の翼の先端間の長さはおおよそ一致する。勿論、そこに個人差が加減されるために全ての例に当てはまるわけではないが、概ねこの傾向は成立している。
ところが、ルナシーの片翼は彼女の片腕の半分の長さにも満たない。真っ直ぐ伸ばした肘関節の位置よりも10cmは短く、一般的な天使の身体的特徴からは随分と逸脱した例だと言わざるを得ない。
想定していたよりもかなり控えめなルナシーの翼だったが、とは言え私が先に彼女へと述べたフォローの内容に嘘はない。
天使は舞い上がろうとする意思によって空へと浮かぶ。飛ぼうという気力が、垂直方向の推進力に変換されるという手順だ。
そうして作られた推進力を翼によって制御することで、天使は自在に空を駆ける。
飛翔はこの二段階に分かれていることが肝心だ。
精神面が満ち足りていれば、たとえ身体や翼に不足があってもその分をカバーすることができる。言い換えれば、やる気さえあればどんな天使でも浮き上がる。
そして、やる気は精神面の課題であって先天的に決められる要素ではない。
つまり、最低限のハードルは必ず超えられると、生まれた時から既に約束されている。
……この程度のイレギュラーがなんだ。
……飛翔教官の通り名にかけて、必ずルナシーを飛べるように仕上げる。
そんな自信と、久しぶりの飛翔訓練の場が、私の心を湧き立たせた。
「さぁ、早速取り掛かろうか! 最初は垂直離陸の練習ね!」
「…………!」
まずは実際に動いてみて、問題点の洗い出しはそれからだ。
そうして何度か垂直離陸に挑む中で、現状の問題というものが見えてきた。
飛べるようになるまで見てやってくれと上級天使から預かるとき、その天使は大抵において二通りに分かれる。
ひとつは、飛ぶことを怖れる子だ。自分には飛べるわけがないとか、他の天使よりも下手だったらどうしようだとか、主に精神面からの圧力によって押さえつけられる。この場合は浮き上がることすらできない段階であることが多い。
もうひとつは、飛んだ後を怖れる子だ。横風が入ったらどうしようだとか、落ちたら足をくじいたりはしないだろうかとか、主に身体面への脅威に気を取られてしまう。この場合は例えば、僅かな浮上や短時間のホバリング程度ならこなせることが多い。
ルナシーはその二つのどちらでもないような気がした。
浮き上がりこそしないが、翼をやたらとばたつかせたり、つま先立ちやジャンプで少しでも高いところを目指そうとしたり、そういった意欲のようなものが端々に表れている。
つまり、やる気はあるのに飛べないというパターンだ。
だが、これは飛翔の原理からして必ず解決できると約束されている。具体的なイメージを一度掴みさえすれば、ルナシーが地面に自分の丸い影を落とせるようになるのもそう遠い話ではない。
「よし、ルナシー。ひとつずつ解決していこうか。まず、目は閉じなくていいよ」
「…………」
「OK。次に、つま先立ちもジャンプも必要ないからね。足は揃えて」
「…………」
「で、翼もわたわたさせなくていい。出すように言っておいてなんだけど、いっそ今は畳んでしまおうか」
「…………!」
そこまでアドバイスしたところでルナシーの動きがぴたりと止まった。彼女はうんうんと何度か踏ん張ったかと思うと急に肩の力を緩め、なんとも言い表せない表情で私の方を見つめた。
何事かと背後に回ると、ルナシーの翼は根元側の半分だけが背中に格納されて、切っ先の部分がぴこっと飛び出したままであった。その中途半端な外見からはどこか愛らしさのようなものも感じたが、新たな課題が明らかとなった事実は受け入れるしかなかった。
どうやら翼の展開に支障はないが、引っ込める時は苦労するらしい。これもいずれは克服しなければならないだろう。必要に応じて自在に出し入れできなければ、不測の事態に十分な対応が追い付かない可能性がある。
「…………!」
「わかった、落ち着いて。翼は片付けなくていいからさっきの二点を意識して。目は開いて、足は閉じる」
「…………」
「いい? 浮き上がるときに物理的な制約は考えないで」
「…………?」
「ただ単に、上に、行こうと意識すればそれで浮き上がるからね」
「…………」
「途中で落ちてきても私が受け止めるから大丈夫。それでも気になるなら……」
足元の延々の大地を手に取り、ほぐして広げた。それを二枚、三枚と重ねる。もともとクッションの代わりになるほど柔らかいが、こうして積み上げることでより一層衝撃を吸収しやすくなる。
「……ね? これなら安心できるでしょ」
私がそう言うとルナシーは決心がついたのか、翼なし両手なし両足なしの、純粋な垂直離陸に挑戦するために、今しがた作り上げたセーフティエリアの中心に立った。
「それじゃあやってみようか。意識は、上に!」
3
延々の大地は傾いた日の光によって橙色に濃くなり、遠くに見える工場の全体は黒一色の暗がりに塗りつぶされ始めた。
水平線の各所にぽつぽつと浮き上がる緩やかな隆起には白飛びした艶やかな頂点と、影をまとったふもとが混ざり合い、穏やかな海上に果てなく続く波間の一瞬をそっくり切り取ったかのように広がっている。
風ひとつ通ることのない飛行場には、余計な音のひとつもまた響かない。
その静寂の中に、ぼすっ、と。
本日何度目だったか、正しく数える気が起きないくらいには繰り返された、乾いた音が生み落とされた。セーフティエリアの空気が抜ける音だ。
足元のクッションが固さと柔らかさの間を幾度となく往復しても、その間にルナシーが一瞬たりとも宙に浮かんでいられたことは、未だなかった。
ただ、ジャンプして、落ちる、その繰り返しだった。
「――……あぁ、だからそうじゃなくって、違う違うちがう!」
「…………!?」
「意識と身体反応をまだ分離できてない。無意識に上を見上げるのがその証拠」
「…………?」
「一度でも推進力を作れたら慣性で暫くは浮き続けるから、最初の一瞬の集中がキモなの」
「…………」
「だけど、今はまだコツを掴めていないんだから、頭から尻まで集中しないと!」
「……………………」
ルナシーの飛翔難はこれまでに私が経験したことのない状況にあった。
飛翔ができないというのは、より仔細に述べると、自由に空を駆けることができないという意味である。
先に振り返った通り、飛翔は二段階に分かれている。地上からの垂直離陸と、空中での姿勢制御。前段階である垂直離陸に関しては、これも先の通り、天使であれば誰もが必ず達成できると原理上確約されている。飛翔ができない状態のまま長引くというのは、得られた推進力を思うがままに制御することができないという、後段階がその殆どを占めている。
極端な話、垂直離陸の不慣れというのは本来問題にすら数えられない些事であった。天使生来のこの能力は過度はあろうとも不足することはない。地から足を放すという行為に対して当人が覚悟を持ったその時点で垂直離陸は達成される。故に、浮かび上がることすらできないという天使はマインドセットを修正した途端に前段階を卒業できる。大抵は一時間もかからないか、長くても二時間。それだけあれば皆が皆、巧拙を抜きにして浮き上がることができる。
だが、ルナシーの場合は違う。当人の気概が明らかにもかかわらず浮上できない。
全く不可解であった。何故このようなことで停滞するのか、これまで飛翔教官として数多の天使を見届けた経験を以てしても見当がつかず、故に頭を抱える他にない。
考えられるとすれば、やはり「浮き上がる」という行為に対してどこか真摯ではないのではないかという心理面への疑いであった。振り下ろした回数しか頭になくなってしまった素振りのような、表面のみの努力意識。そのような空振りをいつまでも続けていようとも意味がない。
一度、たった一度、数mmでもいい、実際に浮き上がってから物事が始まるのだ。
正しい感覚をまずは得なくてはならない。元来難しくない垂直離陸の感覚を。
しかし、それができない。本当に低いハードルが飛び越えられない。
決定的な何かが欠けている。目に見えない何かが。これまでとは異なる何かが。
それを明確に指摘して矯正してやれない自分に不甲斐なさと、苛立ちを覚えた。
「さぁ、次の準備して! 本気でやらないといつまで経っても……――」
空気が抜けて平たくなったクッションをほぐし終えて顔を上げた。
すると、いつからだったのか、ルナシーは私から数歩離れたところで膝を抱えて座り込んでいた。
呼吸で微かに上下する、夕暮れで薄赤く色付いたルナシーの背中を視界の中央に収めた。
そこで、先の発言を客観的に振り返る気が起きた。
……本気でやれだって?
……昼から夕暮れまで練習を続けている天使に向けて?
「……ごめんね。でも、練習しなきゃそれこそ本当に飛べないし……いや、違う……」
「……………………」
「私が言いたいのは、その、これは飛ぶための集中投資だからというか……いや、だから違うって、そうじゃないんだって……」
真意はたったひとつのはずなのに、余計な考えと一緒に頭の中でぐずぐずに煮込まれているせいで、上手く一杯にすくうことができない。
どうして、私はいつだってこう、簡潔にまとめることができないのだろう。
単純な形を自分から面倒な形に崩して、それで芸術品だと思い込んでしまうのだろう。
手にしていたクッションを延々の大地へと戻した。
ルナシーの背中に自分の背中を合わせて座り、両腕で彼女と同じ姿勢になるよう膝を抱えて、その上に額を押し付けた。
飛行場にしては珍しく、遅い風がひとつ吹き抜けて、熱くなっていた私の頭をすうっと落ち着かせた。
「……前はね、上手く飛べない子の面倒をよく見てたんだよ。XOが気にかけた子を連れてきてさ、私に任せたの。空が怖かったり、飛ぶ意義を見出せなかったり……理由はいろいろだったけど」
「……………………」
「その子たちが飛べるようになった時、本当に嬉しかったよ。一緒になってはしゃいだりなんかしてさ。だから、XOからどんどん任されるようになっても全員引き受けたよ。そうして次々に空へと送り出したんだ」
「……………………」
「長いことやってると傾向みたいなものが見えてくるんだよ。この子はこう、あの子はこう、ってね。そうして最適解をいち早く見つけて、不足している部分を理屈で埋めて、型に収めてもとの『工場』に出荷する」
「…………」
「いつの間にかパズルをやってたんだよ、私は」
……そう、パズルだ。
それも熟考の果ての完成図を楽しむ5000ピースのパズルではない。
効率と技量がもたらす速度を競う100ピースのパズルだ。
欠けた一片から趣を見出す余裕も。
それをふとした瞬間に見つけた時の感動も。
気付けばどこかに失くしてしまったらしい。
教える側に必要な、大切な欠片を。
……欠けていたのは、私か。
「思えば無茶もやったよ。空まで持ち上げた後に手を離して、土壇場で浮き上がることを期待したりね」
「…………!」
「もう、そんな理不尽なことしないよ。しないつもり……だったんだけどなぁ」
「…………」
「気に入らなかったんだろうね。『教官はそんなに大きな翼だから簡単に飛べるんだ』っていうのは、みんなの決まり文句だったよ」
「……………………」
「時間はかかってもいいから別の教官がいいって、みんな嫌がったよ。本当の本当に苦手な子だけを任されるようになって、最近はそういう子も任されなくなって」
「…………」
「で、今に至るってわけ」
口にすれば随分と愚かな話だ。
天職を見つけたと思えば自らそれを手放したのだから。
それにもかかわらず適当な理由を付けて飛翔訓練を持ち出してきて。
挙句の果てには同じことを繰り返している。
それも、教え子のためではなく、自分のために。
日はもう少し水平線に近寄って周囲は赤よりも黒の比率が高まっていた。
気温は涼しくなり、夜空の気配が近付いている。
「やっぱりXOのところに行きなよ。その方がずっと良い」
「……………………」
ルナシーは変わらず口を開かないままだったが、しばらく沈黙を重ねた後、背中を私から離して立ち上がった。
証明したかったのかもしれない。
これが一番ためになる方法なのだから、今まで何も間違っていなかったと。
だけど、今、はっきりとわかった。
私は教える側には向いていないということに。
……あぁ、しまった。送ってあげなきゃ。
背中の温もりが薄れて消えかけたところで、ようやくそんなことに気付いた。
このだだっ広い飛行場の真ん中から帰るには、目的地の方角が正確にわかっていなければならない。
ここからの見晴らしであれば工場の全体像は容易に確認できるが、それだけに、霧雨の大樹以外の工場も何本か視界に紛れ込む。大樹学の講義でも受けているのならともかく、そうではない天使に工場を遠目の影だけで判別することは難しい。
ルナシーが迷っていないか確かめるために慌てて立ち上がり、振り返った。
ルナシーの背は随分と伸びていた。見上げなければならないほどに。
そうではないことは一目でわかりそうなものだが、振り向いた光景からは一瞬そんな印象を真面目に受けてしまった。
私とルナシーの身長が逆転したわけではないということを、揃えた足元の下にかかる長い影を根拠にして認識し、そうして彼女が大地から足を放して浮かび上がっているという事実を受け止めることができた。
「…………! …………!」
「……えっ」
「…………! …………?」
「あっ、いや……いやいや、そのまま! その感じでキープ!」
キープとは言ったものの、風船が屋根の上まで飛んでいく様子をスロー再生したかのようにルナシーはじわりじわりと高度を上げていき、そのうち背伸びをしても彼女の足先に手が届かないところまで浮かび上がった。
なおも高度を増そうとするところで、直立のまま安定していたルナシーの姿勢がぐらりと右に傾いた。手を振った反動で垂直に戻ろうとしたものの今度は左に大きく傾き、焦った勢いで揃えていた足が離れ、その拍子に彼女は空中で後ろにひっくり返った。
「……………………!?」
「受け止めるって言ったでしょ。ね、大丈夫」
「…………! …………!!」
「うん、ちゃんと見てたよ! やったね、ルナシー!!」
振り返ってから十秒にも満たないような時間だったが、決して見間違いはしない。
何故今となってなのか。何処が転換点だったのか。何が変わったのか。
追いついていない理解は多々あったが、確かなことはひとつ。
ルナシーは自力での垂直離陸に成功した。
空中でルナシーを抱きかかえた腕にかかる重さが、それを事実だと伝えていた。
「…………!」
「えっ? ちょっ……あっははは!!」
飛び上がるために広げた私の翼に小さな手が触れて、ルナシーを胸に抱えたまま背中からクッションの上へと落ちた。教え子の墜落はよく見てきたが……自分が墜落したのはこれが初めてかもしれない。
「……もう。握るのは禁止って言ったのに」
そう訴えてもルナシーは私の翼から手を離さなかった。今朝のような無遠慮な掌握ではなく、寝起きに頭を撫でるときのような穏やかな手つきだった。だから、くすぐったさを感じつつも翼たちは逃れようと暴れ出さずにその全体を預けていた。
「…………」
「撫でてるからセーフだと思ってる……? まぁあながち的外れでもないけどさ」
「…………」
「わかったよ。少しだけなら、まぁ撫でてもいいよ」
「…………!」
「そうだ。とっておきの秘密を教えてあげる」
仰向けの頭の上に手を伸ばし、延々の大地のクッションの一部をちぎって口元に寄せて、少し焦らしてからひょいと放り込んで食べてみせた。
突然の暴挙を目の当たりにしたことで、ただでさえ丸い目を更に丸くしたルナシーの口に、同じくクッションの切れ端を間髪入れずに放り込む。
「――……!」
「なんと、驚くことに食べられるんだなぁ、これが」
「…………!」
「こうして手でほぐしたのよりも噴煙の丘とか、吹き抜けの渦の縁に自然にできたやつの方がもっとふわふわで美味しいんだけどね」
「…………!!」
「いつか、一緒に行こうか」
そこまで話して、ついさっきまで教育者として失格だと認めていたことを思い出した。
ルナシーのためにもXOのもとへ戻らせるべきだということも。
「ねぇ。ルナシーは、その……どうしたい?」
「…………?」
「さっきも言ったけど、私よりもXOの方が適任というか、物事をずっとずっとよく分かっていると思うよ。まぁ、ちょっと不愛想かもしれないけどね」
「…………」
「だから、私が嫌ならいつでも言っていいよ。XOに話はつけるからさ」
ルナシーはやはり何も口には出さなかった。
代わりに私の腰へと手を回して一層強く抱きついてきた。
それが返事ということでいいのだろうか。
「それじゃあ……帰ろうか。明日の目標は三十秒のホバリングね」
「…………!」
起き上がってルナシーの手を取った。
……1号に伝えておかなくては。
……暫くは飛行場に入り浸るからそのつもりで、って。




