プロローグ
1
やぁ、本当に素晴らしい天気だ。
今日も一日、張り切っていこう。
……なぁんて、そんなことを考えるのは地球上にたかだか七十億程度しか存在しない人間くらいのものだ。
それ以外の生物、そうだな例えば、猫でも犬でも馬でも牛でも、その日の一切合切を日差しの良し悪し程度に一任するような真似などしないだろう。もっとも、猫や犬や馬や牛になったことがないのだから断言まではできないが。
私に言えるのは、天界でそんなことを考えて朝を迎える者はいないということだ。
いや、少なくとも、私は考えないと言った方がより正確か。
天使として五十年生きた中で一度も空模様から感銘を受けたことがないのだから、きっとこれから先も心変わりはしないだろう……身体にかけていた延々の大地を捲り上げて、そんなどうでもいいことを考えた。
延々の大地というのは天界と人間界を隔てる床のようなものだ。誰が最初に名付けたのかは知る由もないが、私たち天使の住む土台がそう呼ばれている以上は私も従うまでだ。異議を唱えるつもりも、そんなことをする利点もない。所々に緩やかな傾斜を作りながら延々と広がっている、柔らかいふわふわとした薄桃色の地面のことを皆が皆そう呼び、通用している。
そして、おそらく誰も知らないだろうが……この地面は食べることができる。
そのささやかな発見に至ったきっかけは大したことじゃあない。この地面をめくって作った毛布にくるまって寝た翌朝に、寝ぼけた拍子でつい口にくわえてしまっただけの話だ。ただ、味は存外悪くない。幾らか前に人間界へと出張で降りたついでに口にする機会のあった角砂糖……あれをもっともっと薄めたような甘い味だ。
とにかくそれ以来、私は時々この延々の大地をちぎっては口に放り込んでいる。同じことをしている天使には未だに出会ったことがない。もっとも、天使は何も食べなくても生きていけるのだから、この行為の必要性を問われると困る。良く言えば嗜好品の類で、悪く言えば中毒だ。前者だと思いたい。天界には延々の大地と「工場」しかないのだから、この密かな楽しみくらいは誰の小言にも犯されることなく楽しみたいと切に願うばかりだ。
青いペンキを塗りたくったカンバスのような空を見つめた。
天界の空は毎日同じだ。こんな感じの真っ青な晴天か、星が散らばる真っ暗な夜空か。雷雨も暴風も吹雪も、その他有象無象の外的危険の一切もない。変化らしい変化とすれば、忘れた頃合いにそよ風が頬を撫でるくらいだろうか。
だから、天界には建物なんてものはなく、ただ工場が所々にそびえ立っているだけだ。
故に、今日はあっちへ、明日はこっちへ……なんて、天使が精力的に動き回る必要もない。その理由は勿論先述の通り、どこへ行っても大して変わり映えのない景色が広がっているからに他ならない。
仰向けのまま欠伸をひとつした。
別段やることはない。
私が今見守っている対象者は八人いる。だが、その中から最初に寿命が尽きる人間が現れるのは一か月も後だ。元気はつらつといった感じの若い娘だから、慢性的な病気ではなく事故死か何かだろう。まぁそんな不幸もある。
多少の誤差はあれど、人間の寿命が突然に大きく変化するようなことはない。そんなことが起こりえるのは天使がその人間に対して直接に介入したときくらいだが、私に見られている対象者たちには幸か不幸か、私は出張が好きではなかった。
上級天使でもない限り、人間の最期を見守ることか……色々あって直接その人間に会うことを理由に出張に降りるか……天使の仕事は基本的にその二つしかない。だから、一介の平天使である私の立場からすると、仕事らしい仕事は向こう一か月は何もないと言えた。
やることがないと頭の中で反芻すると、応じるかのようにまた欠伸が出た。
こういう状況を人間は退屈だというのだろう。そして、その表現は人間界において十中八九ネガティブな意味で使われるということも知っている。
だけど、私は退屈という言葉をそうは捉えておらず、むしろ歓迎している。
何もすることがない、結構じゃないか。
せかせかと常に何かに追われるよりずっとずっと気楽だし、性に合っている。
天使であれば大抵は私のこの意見に同調してくれることだろう。人間の最期を見守るためにいる。天使とはそういう存在なのだからそれが自然だ。
ついさっき開いた瞼をまた閉じた。
通りすがりのそよ風が前髪をふわりと揺らすのを感じる。
今日もまた素晴らしく、退屈な一日、だった。
2
目を閉じる前とは逆の方角へと太陽が少し傾いている事実が間接的に、二十四時間弱の睡眠に耽っていたことを知らせた。
惰眠を貪るという表現がこれほどまでにぴたりと当てはまる状況もそうないことだろう。
とはいえ困るようなことでもない。やるべきことを然るべき時にこなしさえすれば誰もわざわざ文句を付けにきたりなんてしない。まぁ、仕事熱心で意識の高い立派な天使が天界に全くいないとは言わないが、私の知る範疇においては限りなく少数派だ。
降り注ぐ日差しから視線を右へと逸らしながら頭の中で予定帳を開く。
……本日の予定は何もなし。
……いや、本日の予定「も」、か。
実に素晴らしく退屈な日々をこれから一か月は過ごせるが、さすがに全ての時間をぶっ続けで寝て過ごすつもりはない。その蠱惑的な怠惰に身を任せたならば最後、関節という関節がばきばきに固まってしまい、芋虫さながらにずりずりと延々の大地を這って移動するはめになる己の姿を容易に思い浮かべることができたがためだ。
かと言って、格別に何かやりたいことがあるわけでもないが……
とりあえず工場へ行くとしよう。あそこなら木陰でだらだらしている天使がいつだって誰かしらいる。
そうだな、たまには「1号」の話に付き合ってもいいかもしれない。彼女の話はいつもなあなあで流しているが、これがよく聞くと稀に、ごく稀に、そこそこ興味を惹かれる内容だったりするときもある。
……よし、本日の方針が決まった。
……工場に寄って1号の世間話を聞いてこよう。
大層充実した一日の気配を感じつつ、勘定するのも億劫になるくらいの時間ぶりに起き上がろうとしたが……何故かできなかった。
左腕が持ち上がらないのだ。
力を込めることはことはできるが思い描く通りに動かず、夢の中でもたもたと走っている感覚の再現のようだ。
寝すぎた末にこうなったのであれば、直ちに前言を撤回し、困ったことになったと言わざるを得ない。
天使は病気とも怪我とも、意図して患おうなんていう狂気に駆られない限りは無縁の存在だ。だから天界には、天使が最も重要とする器官である眼について精通する者――つまりは、眼科医とでも言うべきか――以外に医者がいない。そして、身体の構造について詳しくは知らない私にも、腕が持ち上がらない原因は少なくとも眼にはないであろうということくらいは分かった。ここから最も近いところに拠点を構える眼科医はエリオットという名の上級天使だが、訪ねたところで彼にもどうしようもないことは明らかだ。
そうこうしていると左腕がもぞりとむずかった。それに合わせてさらさらとした何かが二の腕を撫でてくすぐる。そうした脈動が少し続いたかと思うと、やがて治まり、後には平生よりも幾分重たい左腕の感覚だけが再び戻った。
私はようやく、今日初めて自分の左隣に視線を配る決心がついた。
そこには天使が眠っていた。
随分と小柄なその天使からは、迂闊に触れると粉々に割れて散ってしまいそうな、そんな突飛な印象をまず受けた。儚さと危うさの中間に立っているかのような存在が、折れそうなほど華奢な両腕で私の左腕を抱きかかえながら、静かな寝息をたてて横になっていたのである。
ひとまず……安堵した。原因不明の不調には怖ろしさを感じるものだが、その根幹が明るみに出れば途端に己の内の客観性が勇気をもたらしてくれる。
とりあえずエリオットに相談する必要はないということが判明した。この小さな来訪者にお引き取りを願えば、私の左腕に万全の調子が戻るということは九割九分九厘間違いないのだから、そうと決まれば残りの疑問について思考を巡らせるべきだろう。
……この天使はいったい誰なんだろうか。
誰かと一緒に寝ることに関しては理解できる。これくらい小さな天使であれば、気の合う友人と共同で拵えた寝床に身を寄せ合って潜り込み、星空の天井を仰いでお喋りをしながら一夜を明かすというのもよく聞く話だ。
あるいは、余程のこと疲れるようなことに巻き込まれて延々の大地を掘る気力も湧かないような天使が、たまたま近くにいた知り合いの寝床にお邪魔するという場面も、全くないとまでは言わない。
だが、見ず知らずの天使とわざわざ同衾に至るという場面は、少ないというよりも、ないと言い切った方が自然だ。
だから、まずはこの薄硝子のような輪郭の天使と私との間に、かつてすれ違った程度でも構わないから何かしらの接点がなかったかを振り返ってみたが、どこまで記憶を手繰ろうともそのような部分はひとつも見当たらなかった。
当然のことながら無制限に思考を遡れるわけでも、特定の一日で見聞きした全ての出来事を一字一句間違えることなく回想できるわけでもない。だが、今日までのどこかの中でこの天使に出会ったことがあったかもしれないという気は、やはり少しも頭をよぎることはなかった。
改めて左をまじまじと観察したが、やはり思い当たるところはない……特に強くそのように意識させたのは、彼女の腰まで伸びた長い黒と銀の髪だった。
髪の色なんて天使それぞれで千差万別のものだから今更何色を見たところで驚くことはない。鮮血のように際立った赤色の髪を持つ者もいれば、工場の葉っぱよりもなお深い緑色を頭から伸ばした者も見たことがある。私だって薄い金髪だ。もっとも、これはそう珍しい色合いでもないが。
しかし、この天使の髪は、根元側が全てを吸い込むような黒色で、先端側が光を纏うかのような銀色という、今までに見たことのない独特の様相をしていた。繋ぎ目ひとつ意識させない滑らかなグラデーションのかけられた印象深い髪が、それを一切思い出せそうにないという私の記憶力の信憑性を逆に高めた。
ぼうと眺めている内に、その髪の毛に触れてみたくなった。
彼女の横顔に重なった髪の一束を右手ですくい上げると、細くて柔らかな一本一本が水のようにさらさらと指先を滑って頬の上へと散らばった。日の光を浴びてきらきらと輝くその様子に惹かれて、もう一度、もう一度とその髪を撫でた。
ずっとこうしていたくなるような、不思議な心地よさがそこにはあった。
「…………」
「……あっ、いや、これは、その……」
いつの間にか開いていた二つの目が私を見つめていた。
髪の根元と同じくらい真っ黒な瞳に、急な進展に戸惑った私の焦り顔が映り込んでいる。
「ごめんね。起こすつもりはなかったんだけど……」
「…………」
「待ったまった、違うな……起きてもらいたかったのはそうなんだけど、無理やり起こす気はなかったというか、なんというか、そういう感じなわけであって」
「…………」
「私が忘れているだけなら謝るけど、どこかで会ったことあったっけ?」
「…………」
「あのぉ、もしかして怒ってたり……する?」
「…………」
困ったことになった。どういう理屈かわからないが、この天使は私と口を利くつもりがないらしい。
髪を弄ばれたことにご立腹なのだろうか。だが、手頃な抱き枕を求めて勝手に他人の寝床に潜り込んできたことを考えれば、それは幾分か狭量と自己中心が過ぎるのではなかろうか。
物質的な印象にも、精神的な印象にも、二重の意味で割れ物注意なこの天使に対して、面倒事を嫌う私の心が警報を鳴らして止まないが……幸いにも後者に関してはそう悪いものではないようであった。
目が覚めたらしいこの天使は私の左腕を解放して、ようやく背中を起こして座り込むことができた私の真似をするように正面でぺたんと割座をとった。そうしてきょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、頭上からの日差しにあてられたのか、小さな可愛らしいくしゃみをひとつこぼした。
くしゃみの余韻にふるふると頭を振っていた彼女はやがて落ち着くと、目線を真っ直ぐに、じっと、ただじっと……私の両目に合わせて「待ち」の態勢に入ってしまったのである。
……本格的に困ったことになった。
というのも、少なくとも私からすれば、彼女との面識がないことがひとつ。
もうひとつは、肝心の情報源は首を振るだけの二者択一にしか答えられず、その僅かなYES/NOを頼りに事情聴取を進めた結果、どうやら彼女は自分の名前すら知らないということが判明したからだ。そして、天使が自分の名前を知らないということは「あり得ない」ことだからである。
天使はカミサマの手によって「無」からぽっと生まれる。そうして天界のどこかに天使が生れ落ちると、その誕生を察知した上級天使――有象無象の気紛れな天使をまとめて、それぞれに仕事を割り振る偉い天使のことだ――がその子を迎えに行き、まず初めに名前を授ける決まりになっている。
天使の名前には工場や直属の上級天使の割り当てを円滑にするという役割がある。言ってしまえば、生まれて初めて賜る神聖さの象徴であると同時に、個人識別のための実用性を備えた道具でもある。
だからこそ、生まれた直後で最も記憶力が高いうちに、天使は名前を付けられる。その名前すら忘れるということは、それ以外の全ても忘れているということに他ならない。
だが、当の本人は足元の延々の大地に興味が移ったのか、柔軟に形を変えるそれを好き勝手に手で押したり引っ張ったりしていて、事の重さをさっぱり理解していないように見えた。
……おそらく、私のところにきたのは偶然なのだろう。
事情はともかくとして、この天使はふらりとあてもなく天界をうろついて……
偶然見つけた自分以外の天使である私に何か聞こうとしたが起こすことができず……
どうしようもなくなったからついでにその寝床に潜り込んだという……
おおよそ、そういう流れであろう。
だが、非常に残念なことではあるが、一介の天使である私にできるようなことはない。こういうことはもっと頼りがいがあって、甲斐性があって、なによりも面倒くさいとは露とも思わずに取り組める、そんな正義感満ち溢れた天使に頼むべき案件だ。
そして、私はそういう理想の天使からは随分と離れたところに立っているという自覚がある。それを素直に認めている辺りは他の同類と比して美点だろう。
「よぉし、いいかい、名無しちゃん。これからとっても頼りがいのある天使のところに連れて行ってあげるからね」
「…………?」
「本当はあなたの直属の上級天使が分かれば一番良いんだけど。まぁ思い出せないなら仕方ないし、私の上司がなんとかしてくれる、はず」
腰を上げて大きく背伸びをすると、それに合わせてこの天使も立ち上がり、私の真似をして背伸びをした。
その拍子に彼女の薄い背中からはみ出した一対の翼がうかがえた。身体の大きさを鑑みたとしても随分小さく見える。私の過大な翼とは正反対だ。
「さぁ行こうか。善も偽善も急げってね」
私は小さな手を取って、工場からほど遠くない場所に構える上司のもとへと歩き出した。
3
「おはよう、XO」
「…………」
「お・は・よ・う! XO!」
「……あぁ、シェル・スターリングか。どっちかっていうともう昼の頃合だがね」
「だから昼寝してたんですか? それとも単にまた耳が遠くなっただけ?」
耳なんてあるように見えるかいと、上級天使流の冗談を返された。
天使の見た目は人間のそれとほとんど変わらない。翼は生えているが具現化させなければないものと変わらず、仕事のための機能を集結させた眼球も外見だけで判断するならばただの眼との違いを見出すことはできない。
だが、上級天使へと昇格した天使の姿形は、いわゆる人型からは大きく逸脱したものへと変化する。私の直属の上級天使であるXOもまた、人の形とはかけ離れた見た目だ。
XOを一言で言い表すのなら、金属製の枯木というのが適切だろうか。
胴は金属質の円筒でできていて、表面には樹皮さながらの皺が隙間なく満ちている。その上端は内側から炸裂させたが如く広がっており、葉の吊られていない枝の様相で無造作に四散している。
逆に下端は均等な太さで五つに裂けている。XOが言うにはこの内の二本が腕で、残りの三本が脚らしい。ただ、どれも外見には似たようなものだから、腕と脚の区別なんてものは本人以外からしてみればやはり名ばかりといった認識であった。
しかしながら、XOは昔から脚に不調を抱えているらしく、たしかにそう言われてみれば常々用いる二本以外を積極的に動かしている場面は見たことがない。それだけに、彼女は私が初めて出会った時から今日までずっと、この一角でじっと、まさに見た目通りの樹木のように、変わらずそびえ立っている。
「てっきり自分の名前を忘れたのかと思いましたよ」
「あんたらが揃いもそろって『やぁXO』『どうもXO』って話しかけてくれば、そんなありもしない錯覚も現実味を帯びてくるよ」
天使の名前は上の名と下の名の組み合わせでできている。
しかし、上級天使は昇格の際に上の名だけに短縮される。
例えば、私の名はシェル・スターリングだけれども、単にシェルと呼べばこの天界中のどこかにいるであろう別のシェル・なんとやらと区別がつかない。だけど、もし私が上級天使であれば、単にシェルと呼べば私を指すことになる。
要は上級天使は上の名だけでも天界中に通じるくらいには偉いということなのだが、こと私の上司の名前は上の名だけになってもなお長いという特徴があって、私を含めた大勢の天使は短縮された名をさらに略してXOと呼んでいる。
……えっと、本名はなんだったかな、たしか、エクス、エクスなんとか……
「エクスオリオンハート・ブレイブライトだよ」
「そうそれ。たった今、思い出しました」
「怪しいものだね。あんたこそ、自分の名を忘れているんじゃないのかい」
「私は大丈夫ですけど、この子はそうでもないみたいです」
握っていた手のひらを軽く上へと持ち上げて、後ろに天使が隠れていることをXOにアピールした。件の天使は私の背後から少しだけ顔をのぞかせてXOを一瞥すると、すぐにまた影の中へ引っ込んでしまった。
そんなに怖がらなくてもいいだろうに。たしかにXOは、ホラー映画か何かの背景にでも出てきそうなおどろおどろしい見た目をしているが、中身はそう偏屈なものではない。彼女とはもう結構な長い付き合いだから、その辺りの評価については自信を持っているつもりであった。
「そのちっさいのは誰だい」
「それを知りたくてわざわざ足を運んだんですよ。心覚えありませんか」
「名前はなんだって」
「忘れたらしいですよ」
それはあり得ないと、XOは私が先ほど導き出した持論と同意見をそっくりそのままなぞるように返した。
「名を『忘れる』なんてことはあり得ない。『分からない』ならともかく」
「と、言うと」
「例えば、まだ名前を付けられていないとかね」
「この子は昨日の内に私の寝床に入ってきたんですけど、そんなことってありますかね」
「まぁ、普通はないだろうよ」
……それじゃあ、なんだ。つまり、こういう認識をすればよいのか。
この小さな天使は昨日の何時頃かに天界で生まれたはいいものの、何故か近くの上級天使の誰一人としてその誕生を察することができず、そのまま一晩彷徨った末に私のところに落ち着いたと。
そんな事例は今まで聞いたためしがないが、仮にその通りだとすれば気の毒なものだ。砂浜に卵を埋められた海亀でも、孵化したときには兄弟姉妹と共に海を目指すだろう。単独で延々の大地に放り出されたとあれば、見知らぬ天使であっても頼りたくなるのは無理のないことだ。
まぁ、頼らざるを得なかった天使が私だったということが、この子の気の毒にもうひとつ拍車をかけているような気がしないでもないが、寝起きの不機嫌さに任せてしっしっと片手で追い払うような冷血天使を引き当てなかっただけまだマシとも言えよう。現にこうして、彼女を見事な解決策へと導くことができたのだから。
「それじゃあ、この子に名を付けてあげてください」
「どうして私が付けなきゃならないんだい」
「おそらく、この子は一番近くにいた私のところにきた。私の一番近くにいた上級天使はXO。つまり、この子が生まれた時に一番近くにいた上級天使はXOです。実に論理的帰結」
「口が達者になって何よりだね、シェル・スターリング。昔はもっと内向的だったのに」
「おかげさまで。XOは随分控えめになられたことで」
「……わかったよ。考えるから少し待ってな」
XOは五本の根の内、腕に該当する二本を軽く交差させながら思案を始めた。
一方、彼女を待つ間、私は内心にて今の問答に少し引っ掛かるところを感じた。
XOはぶっきらぼうな態度だが、何かと周囲には気を配って問題事を収束させるためにそれとなく手を回す、そんな性格だ。だから、誕生パーティを祝われ損ねたこの不憫な天使の世話も、むしろ率先して引き受けるような気がしていたのだが、今回はどこか渋るような影がちらついた気がした。
……まぁ、そんなことは私には関係のないことだ。
過程はどうあれ、これでこの名無しの天使の首には立派な名札がかけられるのだから、それで万事解決する。
やがて、「決めたよ」と言って、XOは腕の一本を伸ばして足元にその名を彫り込んだ。
……「ルナシー・ウインドミル」、か。
……私が催促したのだからあれこれ口出しするつもりはないが。
「どうしてこの名に?」
「上の名も、下の名も、私の知る限り誰ともかぶってないからね。分かりやすくて良いだろう」
「まぁ……たしかに」
「もっと分かりやすい方がいいなら『慌てん坊』とでもしようか」
「いいや、これで十分、そう、これが良いよバッチリ分かりやすいし」
雑だなと、一欠片も感じなかったと言えば正直さに背を向けることになるが、合理的であることを否定する気はない。
……それに、まぁ、「月の海」というのもロマンみたいなものがあってよかろう。
……うん、そう捉えることにしよう。
「良かったね、名無しちゃん。今日からあなたはルナシー・ウインドミルだ」
「…………」
「それに、名付けセンス抜群の上級天使サマには可愛い新米天使が部下につくし」
「何か不満でもあるのかい」
「いいや、全然。私の両手もようやく軽くなって、これぞまさしくオールハッピー!」
ルナシーをXOの隣に置いて手を放すと、なんだか久しぶりに両腕が自由になったような気がした。思えば昨日の未明から今まで、どちらかの腕をルナシーがほとんどずっと掴みっぱなしだったのだ。そこに、迷える天使を然るべきところへ送り届けるという徳まで積んだとあれば、解放感もひとしおであった。
「さて、私は工場に……いや、今日はよく働いたからやめとこうかな」
「あんたの担当は今は八人だったと思うが、それは把握してるんだろうね」
「最短でも一か月は先だからご心配なく」
「毎回ギリギリまで放ったらかしだから、念のためさ」
XOの小言に背を向けつつ工場の方角を望遠した。
もうすぐ日の光が真上を訪れる時分ということもあって、木陰にはそこそこの天使の姿があった。その中には1号の様子もうかがえて、ここまできたのだから当初の予定通り事を進めることにしようという気力が、寝床へ戻ろうかと少しばかり傾いていた天秤を水平に戻した。
肩甲骨付近にくっと力を込めて翼を具現化する。
……四割、いや三割くらいでいいだろう。
あまり自由にさせ過ぎるとこの巨大な一対のじゃじゃ馬ぶりが目に余る。無論、制御のコツは十分に体得しているが、急いでいるわけでもないのだから無意味に荒れ馬を繰る必要もない。
白い翼がばさりと音を立てて背に広がった気配を感じる。控えめな出力に合わせるように、不覚をとれば主人をも引きずり回すほどの威勢も今は鳴りを潜めている。普段からこれくらいおとなしければなおよろしいのだが、そこはままならないものである。
「それじゃあね、ルナシー・ウインドミル。後はXOの言うことを聞いて、立派な天使になるんだよ。気が向いたらまた顔を見せるかもね」
ぱっと頭に浮かんだ適当な激励を並べて別れの言葉にした。
そうして振り返ることもせずに翼を下に構えて工場へと飛び立とうとした、が。
「――……ぅんっ!!?」
唐突に翼の先端から押し寄せてきた痺れが背骨へどっと流れ込み……そこから瞬く間に全身へと広がった。
立っていられず、思わずその場に膝をつく。
振り返れば、さっきまでXOの腕――いや脚だったかも――の一本を握ってじっとしていたルナシーが、今は私の右の翼の先端に手を添えている。
天使の翼は腕や脚といった部位というよりも、むしろ眼や耳といった感覚器だ。風を感じて、空を覚えるためのものだ。だから天使の翼は眼に次いで繊細にできている。
最適な姿勢を導き出すために大気の状態を常に分析する先端は、翼の中でも特に鋭敏な反応を示す部分だ。そこを無造作に握られて平気な天使などいやしない。
その中でも私は特別この刺激に弱い。個人的にはわき腹をくすぐられるのとは比較にすらならないまでに激烈なこそばゆさを感じてしまうのだ。
「なに!? なんなの!?」
「…………」
「ちょっと待って、一度放して! そしたらちゃんとした別れの挨拶するから!」
「…………」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「…………」
身をよじって切り抜けようと試みるも、へたりと力の抜けた翼ではしっかと握られた手のひらから逃れることができず、ついにはこの小さな襲撃者に情けなく懇願するという一択にすがる他なかった。
「あんたのことが気に入ったんじゃないかい」
緊迫感のないXOの声が耳に入った。
「そんなことはっ、どうでもいいんでっ、とりあえずどけてください!」
「そうは言っても、その子に玩具を手放す気はさらさらなさそうに見えるがね」
「お願いですぅぅぅ……どうにかしてくださいぃぃぃ……!」
この無口な天使への懇願よりも、その様子の傍観者への打診の方が幾らか望みがある気がして方針を切り替えた。XOは悠長に私と、その背中にジョッキーよろしくまたがって手綱のように翼を握りしめるルナシーを眺めていたが……やがてとんでもないことを口にした。
「それじゃあ、あんたがこの子の教育係になるといい」
「……はぁ!?」
「直属の上司が新入りの世話をしなければならないなんて決まりはないからね。あんたに委任することにするよ」
「だからって……!」
「断ってもいいけど、そのときはその子を引き離す別の賢い手段を考えな」
生まれたばかりの天使にこれから必要になることを教える役割は、その時の直属の上級天使が――つまりは、その天使の名付け親が――担う慣習になっている。新入りの天使からしても、名付け親に初めは面倒を見てもらいたがるものだし、直属の上司という立場からしても新たな部下への理解が早く進むという利点がある。
だから、教育係の、特にこのような最初の教育係を別の天使に委任するといったことは、余程のことがない限り話題に出てこない。
まぁ、今の私に関してはその余程の状況にあるといって間違いではない。このままルナシーの気の赴くままに弱点を掌握され続ければ、翼がそのうち本格的にバカになりかねない。
「当面は暇なんだろう。それで、引き受けるのかい?」
「……わかり、ましたぁ……! 引き受けますぅ……!」
「よろしい」
そう言ってXOは腕だか脚だかの二本をルナシーの腰に回して持ち上げ、その隙に哀れな翼たちは一目散に肩甲骨の下へと引っ込んで姿を隠した。背中の内側ではじんじんと響く刺激と、もやもやと尾を引く痒みが混ざっており、暫くは翼を羽ばたかせることはおろか、具現化すらもさせたくない。
「それではシェル・スターリング。新たに天界へと迎え入れられたこのルナシー・ウイン
ドミルの教育係に任命する」
「本気で言ってるんですか……?」
「この子はお気に入りの先輩のもとで学べて、私は仕事が減って、口の達者な天使サマには可愛い新米天使が部下につく。オールハッピーというやつだろう」
意趣返しのつもりなら完全にしてやられた。これを更に返せるほどの威勢が湧いて出てくるような気がせず、受け入れる方が賢明だという諦めがついた。
「方針はあんたに任せる。立派な天使にしてやるんだよ」
「任期は……いつまでです」
「それを決める権限はこっちにある。まぁ、その内に知らせるよ」
……面倒なことになった。朝起きた時には想像もしなかったことに巻き込まれるとは。
平穏退屈な予定帳に嵐のようにインクをぶちまけた張本人は、溜息をついて立ち上がった私の手をとって満足気な様子を見せている。何がそんなに気に入ったのかは知る由もないが、生まれたての天使が持つ好奇心と興味のひとつだろう。
……私にもこんな時期があったのだろうか。
三百年を生きる天使にとって五十年は「たかが」という副詞がつくほどの期間でしかないが、童心を色褪せさせて、淡泊な日々から適度な充実感を得られるようにするには十分な長さだったらしい。
私は仕方なく、まだ擦れていない新品の天使の手を引きながら、当初考えていたものとは違う目的のために工場へと歩き出した。
――……これが、私とルナシーとの、奇妙なめぐり合わせの1ページ目だ。




