声の温度
教室の昼休み、私にとって「笑い声」はいつも、耳を塞ぎたくなるほどの「濁流」だった。
大勢に注目されると喉が詰まり、蚊の鳴くような声しか出ない。この苦手な世界から逃げるように小説を開いていた「私」は、ある日、図書館で叔母から予期せぬ依頼を受ける。それは、一番逃げていた「大勢の前で話す」という試練だった。
これは、一冊の擦り切れた絵本と、静かだけれど確かな熱を持った「自分の声」を見つける、不器用な少女の物語。
昼休みを告げるチャイムが鳴った。
弁当の匂い同士が渦を巻き、溢れる笑い声とおしゃべりとともに
濁流となって傾れ込んでくる。
私の横では人気者のクラスメイトが複数人のクラスメイトと楽しそうに話している。
弾けるような笑い声が耳をふさぎたくなるほど響く。その声の温度は自分には少し遠くて、ほんの少し羨ましい。
私も混ざりたい、みんなと楽しく話したい。
『なんの話をしているの?』
とでも話しかければすぐに輪に入ることができるだろう。
でも、できない。
咄嗟の会話が苦手なのだ。
それに、大勢に注目されるとただでさえ小さい声がより細くなり、喉が詰まったように息苦しく、まともな音が出なくなる。
いつものように諦め、開いていた小説に目を戻した。
傾き始めた陽が作る長く伸びた影の隣を歩きながら図書館へ向かった。
読書週間であるせいか、いつもより人が多かった。
幼稚園から小学校低学年くらいの小さな子供もたくさんいた。
騒がしく、人の多い、いつもと違う慣れない図書館にたじろいだ。
さっさと本を返して帰ろうとカウンターに続く長い列に加わった。
やっとの思いでカウンターに辿り着き
「返却お願いします。」
そう言って本を差し出すと、カウンターの向こうには、見慣れた顔があった。
「あら、いらっしゃい。ちょうど良かった、来てくれて」
それは、この図書館で働く叔母だった。叔母は静かに私から本を受け取ると、いつものように落ち着いた口調で話を続けた。
「今日ね、急に頼まれてしまって。読み聞かせの時間、担当の人が熱を出してしまって穴が開いてしまったの。読書週間で子供が多いでしょう。もしよかったら、代わりにやってくれないかしら」
叔母の言葉は、周囲の音と切り離され、重みをもって私の胸に染み込んだ。
「…私ですか?無理です。できません」
反射的にそう口にすると、声は案の定、蚊の鳴くような震え方をしていた。
大勢の子供たち、大勢の視線、大勢の耳。昼休みの教室で感じた息苦しさの予感が、喉元に張り付く。
「大丈夫よ。あなた、小さい頃からあの物語が好きだったでしょう?『あらしのよるに』。簡単な絵本だから、座って、ただ読んでくれればいいの。今日来てくれている子たちは、あなたの声がどんなに小さくても、きっと真剣に聞いてくれるわ」
叔母は私の返事を待たずに、穏やかな笑みを浮かべて絵本を差し出した。
それは、幼い頃から何度も開いた、表紙が擦り切れた一冊。断りきれない、というよりも、この慣れない場所で、叔母という唯一の逃げ道を塞がれたような感覚だった。
「…少しだけ、なら」
観念して絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、頼りなかった。
読み聞かせのスペースは、子供たちの熱気とざわめきで満ちていた。
絵本を開き、口を開く。
「…あるあらしのよるのことです」
声はか細く、針金のように震えていた。
視線を上げれば、最前列の小さな女の子と目が合う。
その瞳はまっすぐで、一切の嘲りも好奇心もなく、ただ物語を待っていた。
二度目の呼吸で、私は意識的に、喉の奥の緊張を緩めた。
「ごうごうと、風がふきあれていました」
そう語り出すと、不思議なことに、周りの子供たちのざわめきや、慣れない図書館の喧騒が遠ざかっていくのを感じた。
ページをめくるたび、声は徐々に、確かな響きを持って強くなっていった。
私の声はいつしか、昼休みに耳を塞ぎたくなった弾ける笑い声の温度とは違う、静かで、けれど温かい熱を帯びていた。
最後のページを閉じると、小さな拍手がパラパラと起こった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた私を見つめる子供たちの目は、皆、物語に満足した雲一つない空のように穏やかだった。
叔母は静かに微笑んで、私の肩をぽんと叩いた。
その瞬間、私は肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだような、深い解放感を覚えた。
翌朝、久しぶりに小説を持たずに教室に入った。
喧騒は昨日と何も変わらない。濁流は今日も笑い声という波頭を立てて傾れ込んできている。
私の横の輪では、昨日と同じ人気者のクラスメイトが、楽しそうに何かを話して、弾けるような笑い声をあげていた。
昨日までなら、逃げるように小説を開いていただろう。
けれど、今日は違った。
私の中には、たった一晩で身についた、小さな、けれど確かな声の芯がある。
大勢に注目されれば声が細くなるかもしれない。
咄嗟の会話は依然として苦手だ。
しかし、あの物語を、大勢の子供たちに、最後まで届けきった声が、今の私にはある。
深呼吸を一つ。喉の詰まりは、今日はまだ来ていない。
私は、人気者のクラスメイトの、ほんのわずかな会話の切れ間に、静かだけれど熱を持った声で、話しかけた。
「おはよう」
その一言は、昨日の図書館の読み聞かせの時と同じ、周りの喧騒を遠ざける力を持っていた。
周りの視線が、一瞬だけ私に集中する。
「あ、おはよう!」
クラスメイトの返事が、私の耳に、遠くない、同じ温度で届いた。
私は、心の中で小さく頷くと、そのまま続けた。
「…今、なんの話してたの?」
その一言は、濁流の中に、たった一つ、自ら立てた波紋のように広がった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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