39話 バター
第二校庭の向こう側から、ゆっくりと人影が近づいてくる。
それだけで、空気が変わった。
「……来た。」
誰かが小さく呟く。
人影はもちろんイリオス先生だった。
いつも通りの落ち着いた歩き方。
急ぐ様子も、気負った様子もない。
ただ、一直線にこちらへ向かってくる。
その姿を見ているだけなのに、背筋に冷たいものが走った。
全員が自然と身構えると、イリオス先生は、俺たちの少し手前で立ち止まった。
「ルールの確認だ。」
静かな声だった。
「鐘が鳴ってから、次に鐘が鳴るまでの15分間。その間に誰か一人でも残っていれば、お前たちの勝ちだ。」
それだけを告げると、こちらを見回す。
その隙を逃さず、ネモさんが一歩前に出た。
「せ、先生!」
少し裏返った声だった。
「ダメ元で聞きます!イリオス先生の祝福って、何なんですか!!」
一瞬、風が止んだ気がした。
全員が息を呑んで返事を待つ。
だが、イリオス先生は、何も答えなかった。
表情一つ変えず、ただネモさんを見るだけ。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……ですよね。」
ネモさんは肩を落として一歩下がる。
そのとき。
ゴォン、と重い音が校舎の方から響いた。
午後の鐘だ。
「散れ!」
アルヴィン先輩の声と同時に、全員が一斉に走り出した。
右へ、左へ。
計画通り、ばらばらに。
俺は反射的に後ろを振り返る。
正直に言うと、最初は俺を追ってくると思ってた。
だってこの中で一番弱い自覚があるし。
だが、イリオス先生の視線が向いた先は、俺ではなかった。
「……アルヴィン先輩?」
イリオス先生は、迷いなくアルヴィン先輩の方へ向かっていた。
「意外だね。」
横を走りながら、カルロさんが言う。
「え、散り散りになろうって話でしたよね?!なんで横にいるんですか?!」
「一番動きが俊敏で、祝福の出力も大きいやつを、最初に潰したかったんでしょ。」
「なるほど……」
俺の言葉を無視してカルロさんは話すが、その内容に納得して特に言うこともなくなる。
確かに、アルヴィン先輩の風は厄介だ。
目眩ましにも、足止めにも使える。
アルヴィン先輩は距離を保ちつつ、両手を広げた。
次の瞬間、地面の砂が風によって舞い上がる。
ごう、と音を立てて砂嵐が発生し、イリオス先生の視界を覆い尽くした。
「よし……!」
アルヴィン先輩は後退しながら、さらに風を強める。
普通なら、前に進むのも困難なはずだ。
だが、砂嵐の向こうに、はっきりと影が見えた。
イリオス先生は、止まっていなかった。
ほんの少し、目を細めているだけ。
砂塵を受けながら、平然と前へ進んでくる。
「……効いてない?」
その声が終わるより早く。
イリオス先生が、突然走り出した。
「っ――!」
一歩。
次の瞬間には、距離が半分以下になっていた。
速い。
いや、そんな言葉では足りない。
風を裂くような踏み込み。
砂嵐を無視して、一気に詰め寄る。
「くそ……!」
アルヴィン先輩が慌てて方向を変えるが、追いつかれるのは時間の問題だった。
やばい。
あれは、人間の速度じゃない。
俺は思わず足を止めかける。
先生と生徒の差、なんて生易しいものじゃない。
人間としての格が違う。
イリオス先生の手が、もうすぐアルヴィン先輩に届く。
このままじゃ、捕まる。
鐘が鳴ってから、まだ一分も経っていないのに。
そして、イリオス先生の手がアルヴィン先輩の肩に触れた。
一瞬だった。
「捕まったら、校庭の外で立って待っていろ。」
校庭全体に響く、よく通る声。
アルヴィン先輩は悔しそうに歯を食いしばりながらも、何も言わずに踵を返し、校庭の外へと歩いていった。
その背中が境界線を越えるのを、俺は目で追う。
アルヴィン先輩が校庭の外に出ていくのを確認すると、イリオス先生は何事もなかったかのように再び歩き出した。
走らない。
焦らない。
まるで散歩でもしているみたいに。
だが、その進行方向を見て、俺は息を呑んだ。
「……ミンディさん、」
狙いは、彼女だった。
ミンディさんもそれに気づいたらしく、はっと顔を上げるとその場で足を止めた。
それから自身のかかとを手で触り、まっすぐとイリオス先生を見る。
次の瞬間、彼女の周囲に炎が立ち上る。
円を描くように、彼女を守る火。
「来ないでください……!」
声は震えていたが、祝福の制御は完璧だった。
あの火に触れれば、普通は近づけない。
だが、イリオス先生は、足を止めなかった。
炎を前にしても、歩調は変わらない。
「っ……」
ミンディさんの呼吸が早くなる。
イリオス先生は、火のすぐ手前で立ち止まり、少しだけ首を傾げた。
「このままだと、」
静かな声だった。
「君のせいで、俺が傷ついてしまう。それは、ルール違反なんじゃないか?」
その言葉に、ミンディさんの目が大きく見開かれる。
「……あ」
一瞬の迷い。
次の瞬間、炎が消えた。
それが、イリオス先生の狙いだとも知らずに。
「しまっ――」
俺が叫ぶより早く、イリオス先生は一歩踏み込んだ。
「ごめんなさい。火傷はしないよう、注意はしますので。」
イリオス先生の周りを炎が囲む。
ミンディさんはまた走り出し、炎の渦がイリオス先生の足を止めていた。
「……え?」
何が起きたのか全く分からなかった。
なんでミンディさんが逃げれたのかも、イリオス先生が足止めをくらっているのかも。
「ミンディの走り方が変だ。あれは足に何か塗ってるね。」
カルロさんが目を細める。
ミンディさんの走り方は俺からは変には見えなかったけど、いつも一緒にいるカルロさんは違いがわかるのだろう。
「どこかでミンディが油の多いものを集めてなかった?」
「油ですか?」
カルロさんに聞かれて考えるが、特に思い当たる節もない。
「…………あ、」
「ん?」
「食堂から出ようとしたときに、ミンディさんがバターを集めていたんですけど、」
「じゃあそれだろうね。どうせ靴にでも塗って走って、それでイリオスに追い込まれたら燃やすつもりだったんだろう。」
「なるほど……」
お菓子作りのために集めてるって言ってたけど、本当はこういうことだったのか。
じゃあさっき立ち止まってかかとを触ってたのも、そういうこと?!
頭の回転すごすぎないか?!
俺とカルロさんが話しているあいだも、イリオス先生は足止めをくらっていた。
イリオス先生は地面が燃えている足元を見て小さくため息をついた。
その瞬間、燃え上がる炎に土をかぶせ、一瞬だけ炎が弱まったのを逃さずに炎の渦から抜け出した。
いや、土がひとりでに動いて炎にかかった気がしたが、気のせいだろうか。
うん、気のせいってことにしておこう。
そのとき、俺と目が合った。
一瞬だけ、確かに。
イリオス先生の視線が、俺を捉えた。
背中に、ぞわりと悪寒が走る。
次は、俺の番だ。




