38話 諦めよう!
食堂に足を踏み入れた瞬間、ふわりと温かい匂いが鼻をくすぐった。
焼き立てのパンとスープ、昼時特有のざわめき。
さっきまでの訓練場の重い空気が嘘に思えるほど、いつも通りの学園の光景だった。
「とりあえず食べるか。腹が減っては作戦も立てられん。」
アルヴィン先輩の一言で、盆を手に料理を取るために並ぶ。
料理を取った俺たちは空いている長机に腰を下ろした。
「イリオス先生と鬼ごっこするとは、入学したときは考えられなかったなー。」
「どの生徒も入学した時に先生と鬼ごっこするとは思いませんよ。」
ネモさんがスープをかき混ぜながら呟き、俺も無意識のうちに真似してしまう。
「15分で、誰か一人でも逃げ切れば勝ち。祝福で傷つけるのは禁止。……条件だけ見れば簡単なんだがな。」
アルヴィン先輩が肩をすくめる。
「問題は相手よね。」
グレッタさんがパンをちぎりながら、静かに言った。
全員の頭に、同じ人物が浮かんでいる。
イリオス先生。
「祝福が分からない、っていうのが一番きついですよね。」
俺はスープをかき混ぜていたスプーンを置き、言った。
「どんな能力か分かれば、避けようもあるんですけど……」
「まあ、本人に聞けば一発なんだろうけどね。」
ネモさんが苦笑する。
「聞いた瞬間、捕まえられそうだし。」
「それは否定できないね。」
カルロさんが即答した。
一度沈黙が落ちる。
だが、このまま黙っていても何も進まない。
「……じゃあさ」
ネモさんが顔を上げた。
「確証はないけど、私が見たことあるやつ、言っていい?」
「見たことあるやつ?」
ネモさんは俺の言葉に頷き、口を開く。
「昔なんだけどね、イリオス先生、じょうろを使わずに花壇の花に水あげてた気がするんだよね。」
「水の祝福ってことですか?」
「分かんない。ただ、イリオス先生の手には何もなかったのに、花が濡れてた。屋根があるから雨で濡れてたわけじゃないだろうし……見間違いかもしれないけど。」
「なるほど……」
アルヴィン先輩が顎に手を当てる。
「俺も一つある。コテージの前でイリオスが立ってたとき、風が吹いてたんだが……あいつの前だけ、木の葉が妙に綺麗にまとまって舞ってた」
「風が吹いたってだけじゃなくて?」
カルロさんの言葉にアルヴィン先輩が首を横に振る。
「辺りに散らばっていた木の葉が、風で綺麗にまとまりイリオスの前に積もった。自然現象って感じではなかったな。」
視線が、自然と俺に向く。
「俺も……一回だけですけど」
そう前置きして、続けた。
「イリオス先生がコップを落としたとき、床にぶつかる前に……葉っぱが、勝手に動いて、クッションみたいになった気がして、」
「……葉っぱ?」
「はい、気のせいかもしれませんけど、」
一瞬、全員が黙り込んだ。
水、風、葉。
共通点があるようで、ない。
「私は……思いつかないわ。」
グレッタさんが首を横に振る。
「ほとんど話したこともないし、」
「私もです。」
ミンディさんも同じく。
「遠くから見かけることはありましたが、祝福までは……」
「僕もだよ。」
カルロさんがため息をつく。
「結局、分からないって結論かな。」
「うん、分からない。」
ネモさんがスープを飲み干した。
「だからさ、祝福対策は諦めよう!」
その言葉に、全員が顔を上げる。
「諦めるって、」
開いた口が塞がらない俺をネモさんは面白そうに見る。
「祝福での直接攻撃は禁止なんでしょ?じゃあ、やれることやるしかないじゃん。」
ネモさんは、どこか開き直ったような笑顔だった。
「作戦立てよ、捕まらないための。」
「賛成だ。」
アルヴィン先輩が頷く。
「相手が誰であれ、鬼ごっこは鬼ごっこだ。」
そこからは早かった。
「俺の風は、砂を巻き上げて視界を遮る。目眩まし用だな。」
「私の火は……」
アルヴィン先輩に続き、ミンディさんが少し考えてから続ける。
「足元の地面を燃やして、進路を制限するくらいなら可能です。直接当てなければ、問題ないはず」
「光は?」
カルロさんがグレッタさんを見る。
「一瞬だけ、目をくらませる。多分直接攻撃にはならないはずだから、逃げる隙を作るわ。」
「それだけでも十分だよ。」
ネモさんが指を鳴らした。
「で、残りは囮役だね。」
その瞬間、俺とカルロさんが同時に手を挙げた。
「俺、やります。」
「僕もやれるよ。」
「ちょっと待って、待ちなさい。」
ネモさんが即座に止めに入る。
「なんで二人して名乗り出てんの?!」
「僕の祝福、役にたたないし。」
カルロさんが平然と言う。
「捕まっても後悔が少ないからね。」
「後悔はしようよ……」
「俺もです。」
俺は苦笑しながら言った。
「逃げるより、引きつける方が向いてる気がして、」
この前のキャロル先生の捕獲大作戦のときも囮役だったし、経験は誰よりもあるはずだ。
一回だけだけど。
ネモさんはしばらく俺たちを見て、それから深く息を吐いた。
「……分かった。じゃあ私も行く。」
「え?!」
「三人囮。誰かが逃げ切ればいいんでしょ?それに私の祝福、今回はあんまり役にたたないし、」
「渋々だな。」
「アルヴィンくん、うるさいですよ。」
そうこうしているうちに、食堂の鐘が小さく鳴った。
午後の鐘まで、もう時間がない。
「行こう、」
アルヴィン先輩が立ち上がる。
「第二校庭に。」
お皿が乗った盆を返していると、ミンディさんがみんなが使わなかったバターを集めていた。
「それ、どうするんですか?」
ミンディさんは俺に話しかけられて少し肩を跳ね上げる。
「あ、マシュー様でしたか。これはお菓子作りに使おうかなと思いまして。」
「お菓子作れるんですか?!すごいです!」
俺がそう言うと、ミンディさんは嬉しそうに微笑んだ。
「では今度作ったとき、マシュー様にも差し上げますね。」
「本当ですか?!」
「こんなところで嘘はつきませんよ。」
ミンディさんはバターを内ポケットに入れ、お盆を返しに行った。
全員が食堂で用をすませてから外に出る。
外に出ると、空はやけに澄んでいた。
第二校庭へ向かう道すがら、誰も喋らなかった。
それぞれが、自分の役割を胸の中で反芻している。
遠くで、鐘の予鈴が鳴り始めた。
「……来るね」
ネモさんが小さく言った。
俺は、校庭の向こうを見つめる。
広くて、隠れる場所のない場所。
そこで俺たちは、イリオス先生と鬼ごっこをする。
「15分、か。」
短いようで、長い時間。
逃げ切れるかどうかは分からない。
ただ一つ確信できるのは、学術戦の中で最も筋肉痛になる競技ということだ。




