『俺んちのポンコツ兄さん』を愛でる現代BL原案種書き設定集メモ帳
「巫山戯んな!クソ兄貴!しねぇえええええ!!」
俺の怒号が教室に轟いた……ような気がした。いや、実際は心の中で叫んだだけだ。
だが、現実にはそれ以上に破壊的な「声」が、もっとはっきりと、もっと鮮明に、教室中に響き渡っていた。
——「せっくしゅおてぃてぃんびろーん☆」
その声は間違いなく、兄貴のものだった。
俺の尊厳を吹き飛ばし、教室中を沈黙させ、そして三秒後に爆笑の渦へと叩き込んだ、地獄の声だった。
ことの発端は、なんてことない、普通の英語の授業だった。
先生が「今日の単語テスト範囲は ‘inevitable’ まで」と言い、隣の席のやつが「それ何?読み方なん?」と聞いてきた。
俺はちょっと得意げに、鞄から電子辞書を取り出した。進研ゼミの特典で、兄貴のお下がり。録音機能もある優れもの。
「見とけよ。これ、音声で読み上げてくれんねん」
そう言って、軽く操作して再生ボタンを押した、つもりだった。
次の瞬間。
スピーカーから流れたのは、
英語の正しい発音でも、ネイティブのクリアな声でもなく、
かつて兄が、あの頃のノリと勢いだけで吹き込んだ地獄の黒歴史音声だった。
「せっ○すおちんてぃんびろーん☆」
明るく、元気で、語尾に謎の伸びをつけた、あの声。
その破壊力はすさまじかった。女子は一瞬の硬直のあと「え、なに今のwww」と笑い始め、男子たちは床を叩いて笑い転げ、先生は「え?今の何?辞書?」と首を傾げ、俺はというと——
耳まで真っ赤にしてフリーズした。
終わった。人生が。
いや、兄貴が終わったんだ。俺の中で。
放課後、帰宅してすぐ、俺は玄関に兄貴の姿を見つけるなり、冒頭の叫びを心の中で叩きつけた。
「オイ!!」
「ん、どしたん」
リビングのソファでだらけきってスマホをいじっていた兄貴は、まるで事件のことを知らない風に答える。
「お前、電子辞書に変な録音残してたやろ!!英語の授業中に流れたんやぞ!?教室中に!!」
「……え、マジで……?」
兄貴の顔から血の気が引くのが分かった。もともと白い顔が、さらに灰色っぽくなる。
俺は、鞄から電子辞書を取り出して突きつけた。液晶画面には、あの単語が表示されている。
inevitable
不可避、必然、避けられないもの。
皮肉の神様か?
なぜよりによってこの単語に、録音を残していた?
いや、よりによってなんでその録音が学校で流れるんだ!?
「なぁ、兄貴。なんで ‘inevitable’ に、あんな変な録音残してたん……?」
兄は、何か言おうとして口を開き、数秒かけて閉じた。
その表情は、どこか遠くを見るような目をしていて、まるで過去と会話しているかのようだった。
「……わからん」
「は?」
「ほんまに、わからん……。たぶん、中2のときにノリで……。いや、俺もたぶん、誰かと一緒にふざけて……。でも、なんで ‘inevitable’ やったんかは……、俺にも、わからん……」
その言葉は、敗北宣言だった。
兄の中で、過去と現在とがぐるぐるに混ざり合って、もう取り返しのつかない領域にまで行ってしまっていることが、痛いほど伝わってきた。
「……意味、知ってるか?」と兄が呟いた。
「何が」
「inevitable。避けられへんって意味や」
「知っとるわ、ボケ」
その時の兄の表情は、恥ずかしさとも、開き直りともつかない、妙にしおらしい顔をしていた。
俺は深いため息をついて、ソファにドカッと座り込む。
辞書の定義は変わらん。
だが、俺の中での「inevitable」は、もう英単語として認識できない。
これから一生、「びろーん」が頭をよぎる。
避けようにも、避けられない。
これが運命ってやつなのか。
いや、違うな。
兄貴がアホなだけや。
御高覧頂き誠に有難う御座いました。
いいねと感想を下さいませ。
レビューと誤字報告もお待ちしております。