紅茶と無愛想な騎士
“聖剣の乙女”としての使命を背負いながらも、どこか抜けていて、まっすぐな少女アリア。
そして彼女を陰から支える寡黙な騎士・キース。
ベラータ公の集会の開催を三日後に控えた日。
アリアは古城を抜け出し、無事帰ってきた。
だがそれは、キースの怒りを買うには十分すぎる出来事だった――。
「……お前が、どれほど危うい存在か、分かっていない」
冷たい言葉の裏にある、隠しきれない想い。
すれ違いながらも、少しずつ近づく二人の距離を描いた、甘くてほろ苦い一夜の物語。
静かな廊下をそっと歩きながら、私は銀の盆に乗せたティーポットとカップが揺れないように気を配った。角砂糖も添えて、キース様の好みに合わせた。
「あんなに怒るなんて……キース様、きっとお疲れなんだわ」
そう思わなければ、あの冷たい目や、脚を折るなんて物騒な台詞――怖くて、胸がぎゅっとなる。
でも、私のことを心配してくれたのだって分かっている。怒っていたのは、私が危ない目に遭ったかもしれないから。
扉の前で一度立ち止まり、胸に手を当てて深呼吸。カップがカタリと鳴った。
「……大丈夫、怒ってないかも。たぶん」
自分に言い聞かせながら、ノックもそこそこに扉を開けた。
「キース様、今夜は……あの、お茶をお淹れしました」
彼がどんな顔をするのか、怖くて、でも見たくて。私はそっと部屋に入った。
部屋の扉を開けた瞬間、思いがけない光景に足が止まった。
キース様の向かいに、グレイソン様がいたのだ。黒の礼装のような装いで、優雅に椅子に腰かけ、手には書類。
「……あら」
私の声に、グレイソン様はすぐに気づいて、にこりと笑みを向けてくれた。
「おやおや、これは珍しい。ようこそ、アリア嬢」
その声に、少しだけ気が緩んで、私はなんとか一歩を踏み出す。
けれど――
キース様は、すんとした顔でこちらを見つめていた。眉ひとつ動かさず、無表情ともとれる静かな視線。それが逆に、何よりも心をざわつかせた。
「あの……夜分にすみません。お疲れかと思いまして……お茶をお持ちしました」
ぎこちない声でそう言って、私は小さく頭を下げる。盆の上のティーカップがまたカタリと鳴った。
それでもグレイソン様は変わらぬ笑みで、「お心遣いに感謝を」とやわらかく応じてくれる。その横で、キース様は未だに何も言わない。
その沈黙が、ほんの少しだけ、胸を締めつけた。
キース様はまだ怒ってるのかしら?
ちらりと視線を向けてみるけれど、いつものすんとした顔のままで……ううん、あの人、いつも無愛想だから分かりにくいのよ――。
心の中でそっと呟いて、私はぎこちなく笑みを作る。
「グレイソン様、お砂糖何個入れますか?」
せめて、気まずい空気を和らげたくて、いつものように声をかけた。
「では、1つお願いします」
にこやかに答えるグレイソン様の笑顔に、ほっと胸を撫でおろす。銀のトングで角砂糖をひとつ、そっとカップに落とすと、軽やかな音が響いた。
紅茶の香りが広がって、ほんの少しだけ緊張が緩んだ気がした――けれど。
やっぱり、キース様は無言のまま。視線だけがこちらをじっと見ていて、まるで心を見透かされているようで、私は思わずカップを持つ手に力が入った。
「キース様は……」
そう声をかけかけて、ふと思い直す。
「お疲れでしょうから……お砂糖、三個でいいですか?」
ちょっとでも場の空気を和ませたくて、軽く笑いながら言ったつもりだった――のに。
「……ぷっ」
隣でグレイソン様が、思わず吹き出しそうになっているのが分かった。
「……ふふ。失礼、実に和やかな提案で」
口元を手で隠しつつ笑いを堪えるグレイソン様とは対照的に、キース様は鋭い視線を向けてくる。
「……誰がそんなに甘党だ」
淡々とした声が、空気を冷たく撫でた。
「え、でも……疲れてるときは甘いものがいいって……」
おずおずと口にした私の言葉に、キース様は静かに、低く、呟いた。
「……疲れてるのは、誰のせいだ」
その一言に、胸がずきりと痛んだ。
言い返せなくて、私は思わずカップの縁を見つめたまま黙り込む。
「……まあまあ、お茶の香りは争いを鎮めますからね」
グレイソン様が柔らかく笑って場を和ませるように言う。
キース様はそれ以上何も言わず、しん……と静まり返った室内に、カップに紅茶が注がれる音だけが響く。
アリアは、そっとキースの前に湯気立つティーカップを置いた。
「……どうぞ」
キースは無言のまま、それを見つめた。
一拍、また一拍。手を伸ばすか迷っているようにも見える。
そして、ふいにカップを取り上げ、口元に運ぶ。
そのしぐさに、アリアは思わずごくりと息をのんだ。
キースの喉がわずかに動く。ひとくち、紅茶を飲み――そして、ぽつりと。
「……悪くない」
それだけだった。
でも、アリアは胸がふわりと軽くなるのを感じた。
「よ、良かった……!」
ほっと安堵の笑みを浮かべると、グレイソンが茶目っ気たっぷりに口を開いた。
「アリア嬢のご機嫌取り、効いたようですね」
「ち、違いますっ、ご機嫌取りじゃなくて……!」
慌てて否定するアリアに、キースはようやく、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
「……自覚あるなら、今度からは“ちょっとだけ”で済まさず、許可を取れ」
「……はい」
シュンと項垂れるアリアを見て、グレイソンはにこにこと紅茶を飲みながら呟く。
「ふふ、いい光景ですねぇ。これはますます目が離せませんね」
その言葉に、キースの眉がぴくりと動いたのを、アリアは見逃さなかった――けれど、何も言わなかった。
それが、彼なりの“もう怒っていない”という合図なのかもしれない。そう思うと、少しだけ嬉しかった。