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異世界恋愛短編集

悪役令嬢は追放されたけれど、王太子殿下の偽装婚約者になって溺愛されてます

作者: 百鬼清風

 「リディア・アルトワ嬢、あなたとの婚約は破棄させてもらう!」


 高らかに響いたその声は、まるで劇のセリフのようだった。

 目の前には第一王太子、エリアス・クロード殿下。整った顔立ちを怒りに歪め、私をまっすぐに睨みつけていた。


 私は何も言えずに、その場に立ち尽くしていた。


 王立学園の卒業記念舞踏会。煌びやかなドレス、華やぐ貴族たちの笑い声、優雅に響く楽団の調べ。

 そんな中、殿下は突然、私との婚約を破棄すると告げた。理由は聖女セレスティアへの、数々の「陰湿な嫌がらせ」。


「これを見よ!」


 魔導具の映像が空中に映し出される。そこには、私に“似た”誰かが、セレスティアの靴を汚し、お茶に薬を入れ、侮蔑の言葉を浴びせる姿が映っていた。


 だけど、それは私じゃない。

 私がセレスティアに嫉妬していたのは…たしかに、ほんの少しだけ。でも、彼女を傷つけるようなことは一度たりとも。


「そんな…私じゃ、ありません…!」


 震える声でそう訴えても、誰も耳を貸してくれなかった。

 王太子も、学園の教師たちも、友人だと思っていた子たちすらも。


 両親は私を冷たい目で見下ろし、「アルトワ家の恥さらしめ」と言い放った。


 そして私は、すべてを失った。



 辺境の小さな修道院。朝は鐘の音で目を覚まし、野菜畑を耕し、洗濯し、薪を割る。

 華やかだった貴族令嬢としての暮らしは、ここにはひとかけらも存在しない。


 けれど不思議と、泣きはしなかった。

 心にぽっかりと穴が開いたようで、何も感じなかった。


 それでも、少しずつ気持ちは動いていた。


 食事当番になったある日。刻んだ野菜を煮込みながら、ふと、懐かしい感覚がよみがえった。


(…この味、なんだか懐かしい)


 味噌汁。そう、それは“前世”の、あたたかい食卓の記憶。

 OLとして働いていた頃。会社でうまくいかず、疲れて帰ってきた夜。インスタント味噌汁が、心に沁みた。


(…ああ、そうだった。私、もともとこっちの世界の人間じゃなかったんだ)


 忘れていた。無意識に封じていた、前世・有村莉子としての記憶。

 この世界に転生して、伯爵令嬢として育てられ、気づけばそれが当たり前になっていた。


 でも、あの時の“映像”を見て、私の記憶が動き出した。

 セレスティアの仕草、話し方、笑い方全部、前世で私をいじめていた女子社員・吉川紗奈にそっくりだったのだ。


(まさか…転生してきたのは、私だけじゃなかった?)


 そんな考えが頭をよぎっては、消えていく。

 でも、心のどこかで確信していた。あれは、私ではない。きっと、何かの仕掛けがあったのだと。



 それから数日後の午後。

 修道院の門に、一台の馬車が止まった。


 来客なんて、滅多にない。神父さまもシスターも驚いていた。


 「リディア・アルトワ嬢をお訪ねしたい。王太子、エリアス・クロード殿下のお使いでございます」


 王太子? 耳を疑った。

 まさか、私を追放したご本人が、何の用で…?


 戸惑いながら応接室へ向かうと、そこには、当の本人がいた。

 礼装ではなく、控えめな旅装に身を包んだエリアス殿下は、ほんの少しやつれて見えた。


 「久しぶりだね、リディア嬢」


 彼の声は、あの夜とはまるで別人のように、穏やかだった。


 「君に、どうしても…お願いがあって来たんだ。僕と、偽装婚約をしてほしい」


 その瞬間、私は耳を疑った。

 けれど、彼の瞳は真剣で、どこまでもまっすぐだった。



 「僕と、偽装婚約をしてほしい」


 その言葉は、まるで夢の中のようだった。

 私を追放した張本人である王太子殿下が、今になってそんなことを言いに来るなんて。冗談にしては顔が真剣すぎたし、謝罪のために来たにしては言葉の順番がおかしい。


 私は唖然としながら問い返す。


 「…あの、殿下。今の、もう一度言っていただけますか?」


 「うん。君に、僕の婚約者になってほしい。もちろん“偽装”として、だけど」


 笑いながら冗談を言うタイプではないのは知っている。だからこそ、頭の中が真っ白になった。

 どうして今さら? という疑問のほうが先に浮かんでしまって、しばらく何も言えなかった。


 「ええと…それは、なぜ?」


 エリアス殿下はほんの少し目を伏せてから、静かに語り出した。


 「君が追放されたあの日…僕は、何も調べもせず、ただセレスティアの涙に流された。だけどその後、君の無実を示す証拠がいくつも見つかった。魔導具の映像も、誰かに細工されていたらしい」


 「…」


 「それを知って、僕は愕然とした。どれほど君に酷いことをしたか、ようやく気づいたんだ。本当に、ごめん」


 彼は、深く頭を下げた。


 王太子殿下が、私なんかに頭を下げている。

 私はただ、戸惑うしかなかった。


 「そして、もうひとつ。聖女セレスティアには、どうも“裏”があるようだ」


 その言葉に、私はぴくりと反応した。

 やっぱり、あの子には何かある。私の中の“前世の記憶”がそう告げていた。


 「君と婚約していた頃、王都の貴族たちは不満を抱きつつも、君の礼儀や品格を認めていた。だけど今、セレスティアを正妃に…という話が持ち上がって、国中が揺れている」


 「それで、私ともう一度婚約すれば…?」


 「そう、王家としての威信を保てる。民の動揺を抑えられる。でもこれはあくまで“偽装”。君に今さら本物の婚約を求める権利なんて、僕にはない。だからこそ、お願いしたい」


 エリアス殿下の言葉は、まっすぐで誠実だった。

 けれど私の中には、まだ迷いが残っていた。


 信じてもいいの? また裏切られたらどうするの?

 そう思う一方で、前よりも少しやつれた彼の顔を見ていると、不思議と心がざわざわした。


 …少しくらい、仕返ししてもいいんじゃない?


 そんな不埒な気持ちも、ほんのり芽生えつつ


 「わかりました。偽装婚約、受けてさしあげます。ただし」


 私はにっこりと微笑んだ。


 「しっかりお詫びしていただく代わりに、毎日、ちゃんと紅茶とお菓子を用意してくださること。それから…私の機嫌が悪い日は、おとなしく謝ってくださいね?」


 エリアス殿下は、少し驚いた顔をしてから、ふっと微笑んだ。


 「…もちろん、誓おう。君が笑ってくれるなら、なんだってする」


 その笑顔は、前よりずっと優しくて、温かかった。



 こうして私は、王太子殿下の“偽装婚約者”として王都へ戻ることになった。

 旅支度を整え、修道院の人たちに別れを告げるときには、少しだけ涙が出た。


 そして王城に着くと、そこには新たな部屋と、可愛らしいメイドの女の子、そしておいしいお茶が待っていた。


 「リディア様、今日のティーセットはこちらです! 本日は苺のタルトと、アールグレイでございます♪」


 「ありがとう。ふふ、楽しみね」


 毎日お茶を一緒に飲むようになった私たちは、少しずつ、ぎこちなさを手放していった。

 ときどき視線が合うたびに、彼はふいっと目をそらす。そんな様子が、なんだか少しだけ可愛らしく思えてしまうのだった。



 「ねえ、リディア。最近、殿下と仲が良さそうだね」


 庭園でティーセットを整えていたとき、突然、背後から聞こえた声に、私は思わず手を止めた。


 聖女セレスティア。

 儚げな金髪と透き通るような碧眼、そして小さな唇に浮かぶ柔らかな微笑み。だれもが「聖女さま」と憧れる、可憐な少女。


 …でも私は知っている。この笑顔の裏に隠された、鋭い毒を。


「殿下のお気に入りになったつもりかしら? でも偽装婚約なんて…あくまで“偽物”よね」


 「そうね。お飾りみたいなものよ。でも、お飾りでも、丁寧に扱わないと壊れちゃうわ」


 私がやんわり返すと、セレスティアは一瞬だけ目を細めた。

 その目つきは、前世で私の机に飲み物をこぼし、笑っていた吉川紗奈のそれと同じだった。


(やっぱり、あなたも転生者…よね?)


 心の中で呟いても、確証はない。証拠もない。けれど、こうして向き合ってみると、間違いないとしか思えなかった。


 彼女はやがて、柔らかな声でこう囁いた。


 「殿下があなたに向けるその優しさ、いつまで続くかしら。…また、裏切られないといいわね」


 その瞬間、心臓がひやりと冷えた。

 けれど私は笑って返す。震える手を隠しながら。


 「ありがとう、ご忠告。気をつけるわね」


 ああ、怖い。けれど負けたくない。

 今度こそ、私は自分を守らなきゃ。



 その晩、エリアス殿下は食後の紅茶をふたりで楽しんでいるとき、ふと私の顔をじっと見つめて言った。


 「…今日、セレスティアと話した?」


 「ええ、少しだけ」


 「…彼女、君に何か言わなかった?」


 私は迷ったけれど、すぐに打ち明けることはできなかった。

 どこかで「また疑われたら」と怖くなってしまったのだ。あのときの傷は、まだ完全には癒えていない。


 「…いいえ、大した話は」


 私の返答に、彼は小さく息をついた。


 「そっか。…無理に聞いてごめん。でも、気をつけて。君のことを守るって決めたから」


 その言葉は、あたたかくて、胸の奥にすとんと落ちた。

 だけど、どこかくすぐったくて、嬉しくて、こそばゆくて。


 「…ありがとう、殿下」



 翌日から、王城では小さな“異変”が起き始めた。

 メイドが持ってきたティーセットに、リディア様の好物であるはずのレモンタルトがなかったり。届けられた書類の中に、リディアの出自を怪しむような“匿名の手紙”が紛れていたり。


 悪意は、静かに、でも確実に忍び寄っていた。


 「リディア、これは…誰かが君に嫌がらせを?」


 「ええ、たぶん。でも、前の私じゃない。今は…負けないわ」


 そう言えた自分が、少しだけ誇らしかった。


 そんなある日。

 エリアス殿下が書斎で見つけた“ある書類”が、ふたりの関係を一変させることになる。


 それはリディア・アルトワの“本来の婚約者は他にいた”という、古い婚姻契約書の写しだった。


 「…これは一体?」


 「知らないわ。こんな話、初耳よ」


 「でも、もしこれが真実なら…君は僕と婚約できないかもしれない」


 彼の表情は、どこか傷ついているようだった。


 違う、私たちは今、“偽装”婚約者だったはず。でも


(なのに、こんなにも心が痛いのはどうして?)


 私たちの関係は、ゆっくりと近づいていたはずだった。

 けれど、またしても何かがそれを邪魔しようとしている。


 「ねえ、殿下。私たち、偽装婚約をやめるべきなのかしら?」


 私の問いに、彼は答えなかった。


 ただ、静かに目を伏せたまま。



 私は一人、王城の庭園にいた。


 この場所は、不思議と心が落ち着く。花の香りとそよ風、そして紅茶の湯気に包まれていると、現実のざわつきが少しだけ遠く感じられる。


 けれど今日は、どんなに深く息を吸っても、胸の奥が晴れることはなかった。


 あの婚姻契約書本物かどうかも分からない紙切れ一枚に、私たちはすっかり飲み込まれてしまった。


 (偽装婚約をやめるべき? それとも)


 私は考え続けていた。

 エリアス殿下はあれ以来、少し距離を取るようになった気がする。まるで、私をこれ以上巻き込まないようにするかのように。


 …でも、それが余計に寂しかった。


 そこへ、足音が近づく。


 「リディア」


 聞き慣れた低くて優しい声。

 振り返ると、エリアス殿下が静かに立っていた。いつもより少し疲れた顔で、それでも、私をまっすぐに見つめていた。


 「…話があるんだ」


 彼は私の前に座り、テーブルに手紙を一通、そっと差し出した。


 「これ、君の“本当の婚約者”を名乗る貴族からのものだ。調べた結果、書類も手紙も、全部偽造だった」


 「えっ…」


 「つまり、あれは…セレスティアの仕業だった。君と僕の間を引き裂くために」


 驚きと安堵が一気に押し寄せてきて、言葉が出なかった。

 でも、次に彼が言った言葉が、もっと私を動揺させた。


 「もう、偽装婚約は終わりにしよう」


 「え…」


 「リディア。君が嫌でなければ、これからは本物の婚約者になってくれないか」


 時間が止まったような気がした。


 紅茶の香りも、花のそよぎも、今はもうどうでもよくて。


 私は、たぶんとても変な顔をしていたと思う。

 だって、まさか本当にそんな言葉を、彼から聞ける日が来るなんて思っていなかったから。


 「…でも、私のこと、一度は信じてくれなかったのよ?」


 そう言うと、彼は少しだけ肩を落とした。


 「君がどんなに怒っても、僕は受け入れる。許されなくても仕方ない。けれどそれでも、僕は君と未来を歩みたい」


 「…ずるいわ、殿下」


 「うん。ずるいかもしれない。でも、君が好きなんだ」


 たったそれだけの言葉が、私の胸をいっぱいに満たしていく。

 涙が、自然にこぼれた。


 「…仕方ないわね。じゃあ、私からもひとつ条件があるわ」


 「なに?」


 「これから毎日、紅茶とお菓子を用意して。私の好きな味、ちゃんと覚えててくれないと、許さないから」


 「もちろん」


 彼は笑った。優しくて、少し照れたような、少年みたいな笑顔で。


 「それともうひとつ」


 私は席を立ち、彼のそばへ歩いていく。


 「これからは、私のことを“リディア”って呼んで。婚約者になる人には、名前で呼ばれたいの」


 彼は一瞬目を見開いてから、そっと頷いた。


 「…リディア。よろしく頼むよ」



 それからというもの、私と“偽装”婚約者だった彼は、王城での生活を少しずつ変えていった。


 一緒にお茶を飲んで、散歩をして、書類を片付けて

 そんな何気ない時間が、毎日をあたたかくしてくれる。


 セレスティアは、真実が明るみに出たことで王宮を離れた。

 彼女がなぜ転生者だったのか、その記憶がどこから来たのかは、もうどうでもよかった。


 だって私は、ようやく自分の場所を手に入れたのだから。


 大好きな紅茶と、大好きな彼がそばにいる。

 それだけで、十分すぎるくらい幸せだった。


 


おしまい

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