第5話 目覚め
――暗闇の中に、音が響く。
遠くで誰かが呼ぶ声。揺れる光。
まぶたの裏に滲む微かな温もり。
(……ここは)
意識がゆっくりと浮上する。
まるで深い水の底から引き上げられるように。
まぶたを開けると、眩い光が差し込んだ。
一瞬、視界が揺れる。だがすぐに焦点が合い、見慣れた天井が目に映る。
(……私の、部屋?)
ほのかに香る花の匂い。
柔らかな寝具に包まれた自分の体。
ここは、確かに柊公爵家の屋敷だった。
――確か、夜会にいたはずなのに。
「澪奈……」
不安そうな声が耳に届く。
ぼんやりと横を見ると、母がそっと手を握っていた。
その表情には、安堵と心配が入り混じっている。
「ぁぁ、よかった……目を覚まして!」
母の声に続くように、もう一つの気配が動く。
「お姉さま……!」
振り向くと、妹が今にも泣き出しそうな顔でこちらを覗き込んでいた。
小さな手が布団をぎゅっと握りしめている。
その傍らには、兄と父もいた。
二人は無言だったが、その表情には確かな安心と少しの憂いが滲んでいる。
「あの、っ」
喉が乾いている。
ゆっくりと上体を起こそうとすると、ふわりとした浮遊感が付き纏う。
「無理しなくていい。三日間眠り続けてたんだ。力が入らないのも無理はない」
父がそっと手を添えて水を渡してくれる。
「……三日も? ……そんなに。ごめんなさい、私、どうして」
記憶が、曖昧だ。
夜会にいたことは覚えている。
けれど、その後……?
「あの日、夜会の最中に突然倒れたのよ」
母が静かに言った。
「澪奈だけではない。十名ほどの貴族が……」
父の低い声が部屋に響く。
十名。
その数に、わずかに眉を寄せる。
(そんなに……?)
そう思った瞬間、記憶が揺り戻る。
――夜会。優雅な音楽。貴族たちの笑顔。
――そして、突然の音。何かの視線。
――倒れた人々。駆け寄る悲鳴。そして、私自身も……。
(……あれは、いったい)
「澪奈、少し話せるか?」
兄の静かな声が私を現実に引き戻す。
「……兄さま」
「無理には答えなくていい。ただ、少しだけ、何があったか思い出せるか?」
「……。」
兄の言葉に、澪奈は少しだけ思考を巡らせる。
だが、何かが引っかかる。
確かに何かを見た。感じた。
けれど、それが何だったのか――霧がかかったようにぼやけてしまう。
「……すみません。よく、分からなくて」
そう答えると、兄は一瞬だけ目を伏せた後、ゆっくりと頷いた。
「ん。突然のことだったし何もわからなくても無理はない。けれど、事態は思ったより深刻だ」
「……深刻?」
「夜会で倒れた者は、お前を含めて十名。実は、
澪奈以外の九名は未だ意識が戻っていないらしい」
「……そう、ですか」
澪奈の手のひらが、無意識に布団を握る。
「お前だけが、目覚めた。これまでの事件例からしても三日は異例らしい。少なくとも一週間は眠り続けていることが多いようだ」
(私だけ……?)
兄の言葉に、心臓がわずかに跳ねる。
「……なぜ」
自分だけが?
何か違いがあったのだろうか?
「それを知るために、禁忌監理機関 五行隊が動いている」
兄の声が、静かに響く。
「実は、五行部隊の金の隊員が、倒れた者についての情報が少しでも欲しいとのことで屋敷を訪れている」
「……五行部隊」
その名を耳にした瞬間、澪奈の心がざわめく。
人々を守るために異常を管理し、禁忌を断つ者たち。
妖怪に関わる問題が発生したとき、彼らは必ず動くという。
「まさか、今回の件は……」
兄は澪奈の言葉を遮るように、静かに頷いた。
「あぁ。幽世の者が関わっている可能性が高い」
「!では、妖は本当に、現実に」
「いる。……らしいな。にわかには信じがたいが。神隠しと呼ばれるものや痕跡の見つからない事件の実態は妖が引き起こしたものが多いそうだ。そして、恐らく今回の件も」
空気が張り詰める。
母と妹が不安そうにこちらを見つめる。
「起きたばかりですぐに、というのは申し訳ないんだが。私達も先程話しをしていて、ちょうど澪奈が目を覚ましたときいて、な。もし体調に問題がないのであればよければ話を聞きたい、と。どうする?」
「いえ、特に体に違和感もございませんし。
私で協力できるのであれば。……特に何か覚えているわけでもないのですけれど。
あっ。お客様は応接室に?準備を」
侍女に依頼をしようとしたところで、兄に止められる。
「無理はするな。そのままで問題ないだろう。本人の容体の確認と少し話を聞くだけらしいから」
「かしこまりました」
「肩掛けだけ用意してやってくれ。その後、金の隊の者を呼んでくるように」
兄が侍女にそう伝える。
「承知いたしました」
侍女が一礼して部屋を出ていく。
澪奈は静かに、思考を巡らせる。
何が起こったのか、何を見たのか。
――けれど、本当の違和感は、別のところにある気がしてならなかった。
"なぜ、私だけが目覚めたの?"
"他の人と、何が違ったの?"
心の奥底で、何かが微かに軋む。
(……私は、いったい……何を、見たの?)
澪奈は、そっと自分の胸元に手を添えた。
そして――部屋の扉が、静かに叩かれる音が響く。