第39話 祠の少女 後編
風が少し冷たくなってきた午後。
秋の気配が、ほんのりと空気に混じっていた。
今日も、澪奈は祠を訪れた。
歌が聞こえる。
――♪
るりは、澪奈に気づくと微笑んで迎えてくれた。
「お姉ちゃん、今日も来てくれた!」
その笑顔が、どこか穏やかで、少しだけ遠く見えた。
「ええ。あなたがいるから」
ふたりはまた、石で小さな花を咲かせた。
何度目かの"おままごと"のような時間。
だけど、どこか今日は空気が違った。
「ねぇ、るりちゃんはどうしてこんなところに一人でいるの?」
始めて会った日、聞けなかった問いがふと口をついて出た。
澪奈の問いに、少女は、すこしだけ顔を伏せるようにして呟いた。
「みんな、ここには来ないの。遊んでくれなかった。話してくれなかった。わたしがいても、気づいてくれなかったから。……ずっと、ここで待ってたのに」
(……やっぱり)
「そう。寂しかったのね」
瞳が揺れた。
それは、子どもらしいわがままではなく、ずっと閉じ込められていた願いのように見えた。
るりはぽつりぽつりと言葉をこぼした。
誰も気づいてくれなかったこと。話しかけてくれなかったこと。
それでも、誰かを責めるでもなく――ただ、寂しかったのだと。
澪奈は、るりの頭をなでるように触れる。
るりは、ほんの少し、驚いたように瞬きをした。
それから、うれしそうに、微笑んだ。
ふたりで並べた石の花は、もう五つめになっていた。
小さな手が、小石をそっと並べては微笑む。
その仕草が、いつもより少しだけ名残惜しく見えた。
少女が、ふと顔を伏せる。
「ねえ、お姉ちゃん。
もし――わたしが、ここにいなくなっても、また……」
「……?」
「ううん。なんでもない。ね、今日は一緒にお歌、歌お?」
「歌?」
「うん!お花のうた。おばあちゃんがね、昔歌ってくれたの!私の大好きなうた。
でもね、もう皆知らないの。だから……」
「いいわよ。教えてくれる?」
「うんっ!」
るりは、そっと唇を動かした。
ひとつ ふたつ 幽の花
とおき ところで 咲いた花
ひかりも なきに ほのかにゆれ
だれにも きづかれぬ こころのばしょ
ふれたらさいご うつろのはな
やさしく ささやいて さよならを
その旋律は、どこか懐かしく、胸の奥に染み込んでいく。
まるで風そのものが歌っているような、そんなやさしい音だった。
「それって……」
澪奈が問いかけかけたとき、るりがふわっと笑った。
「お花が、さよならを言うんだって。咲いたら、また眠るの」
風がそっと吹いた。
葉の音すらかき消すような、静かな風だった。
ふたりはまた、小石で花をつくった。
木の実を真ん中に、並べた花びら。
ひとつ、またひとつ。
るりが、ふと手を止めて呟く。
「ねえ、お姉ちゃん」
少女――るりは、石の花を見つめたまま呟いた。
「わたしね、もう……さびしくないよ」
「……そう」
澪奈の声は、自然と小さくなった。
「わたし、もうあんまり自分のこと、おぼえてないの。覚えてたのは名前と寂しいって気持ちだけ。
でもね、お姉ちゃんと遊んで、笑って、ハンカチも次の約束ももらって……楽しいことでいっぱいになったんだ」
その言葉に、澪奈の胸が軋んだ。
「だから、きっと……もう、大丈夫」
風が――止んだ。
世界から、音が抜けていく。
鳥の声も、木々のざわめきも、すべてが遠のいていく。
光が淡くなり、色彩がぼやけて、輪郭のない空気が足元を包む。
澪奈は、胸の奥がきゅう、と締めつけられるような感覚に包まれた。
「だめよ」
言葉が、無意識にこぼれた。
「あなたは、まだ……ここにいてもいいのよ。わたし、また来るわ。何度でも」
少女は、うれしそうに笑って――首を横に振った。
「わたしね、"幸せ"って思ったの。ずっとなにか足りない気がしてた。でもね、お姉ちゃんが沢山一緒に過ごしてくれたから。沢山遊んでくれたから。
だから、もう、だいじょうぶなの」
風が、ふわりと吹いた。
「おねぇちゃん、ありがとう」
その声とともに、少女の体がふわりと光に包まれる。
驚いて澪奈が手を伸ばそうとしたそのとき――
「またね」
先に、その言葉が届いた。
澪奈は、手を止めて、微笑んだ。
「……またね」
その瞬間、光の粒が風に乗って舞い上がる。
ひとつ、ふたつ。やわらかく、やさしく、空へと昇っていく。
その中のひと粒が、ふわりと澪奈の胸元に触れて溶ける。
澪奈は、胸元にそっと手を添えた。
(――あたたかい)
それは、"想い"だった。
確かにここにいた、小さなひとりの、願いだった。
そうして気づいたとき、
祠の周囲には何もなかった。
石の花も、木の実も、伸びきった草に埋もれている。
最初から、そうだったかのように。
(これ、は……)
でも澪奈は知っている。
たしかに、そこに"いた"ことを。
胸元に手を添え、そっと目を閉じる。
「また、来るわ」
風が、やさしく頬をなでて通り過ぎていった。
* * *
その夜。
澪奈は、孤児院で見た古いアルバムの1ページを思い出す。
その中には小さな女の子の写真があった。
花を抱いて、まっすぐこちらを見て、微笑んでいる。
その横には少しかすれた字でこう書かれていた。
るり。享年七歳。
石を花びらに見立てて遊ぶのが好きな、笑顔の多い子でした。
(またね――)
たった三文字。
ちょっとした別れの挨拶。簡単に言えると思っていた言葉。
けれど、誰かの想いを、確かに救うことができる言葉。
――今は、それがわかる気がする。
「……また、ね」
澪奈の胸元が、静かにあたたかさを宿していた。




