第36話 囁く声、導く影
——空気が、澱んでいた。
そこは、幽世の中でもさらに奥まった、常の風が届かぬ場所。
闇に沈む部屋の中、灯りはなく、窓もない。あるのは、魔法によって封じられた結界と、淡く揺れる小さな光源のみ。
その中央に数名の影がいた。全員、顔を隠すようなフードを目深に被り、誰もが沈黙を守っていた。
「……この前の"器"は、どうなった?」
低く、よく通る声が空気を震わせる。男か女かも判別できない声。
「寄生化までは成功したものの、妖の自我が漏れ出てしまい、失敗。廃礼拝堂にて作り出された個体も、抹消済みです」
「……早かったな」
「ええ。処理したのはいずれも五行隊」
「ほう。……やはり邪魔するのはいつも彼奴等だな」
淡く笑うような吐息とともに、吐き出された言葉は苦々しい。
「しかし、次の段階は進められます。夜市から仕入れた"供物"の中に適合率の高いものがありました。胡蝶の手元から流れたようです」
「胡蝶……。あの商人は信用ならんが、契約には忠実だ。対価さえ払えば品物はちゃんと手に入れられる。夜会での実験はやつの"香"がなければ実現し得なかった」
「ええ。だからこそ彼女にはあの香を"撒いた"のはすぐにバレたでしょうね。……ですが、結果として、"器"に印をつけることに成功した」
「それに加え"観測者"から報告が。"白い穴の器"が確認されたと」
「……白い穴の器、だって?」
「ええ。"根"の定着も報告済みです。"喰われた"のではない。"差し出した"器……。久世様の言っていた"再生者の器"に近い。今は五行部隊に通っている、と」
「ほう……共鳴香を受け入れた、と」
「五行部隊に囲われてるのか」
「さらに、その器は"白い獣"と縁を結んでいるらしい」
「……なら、間違いない。"印"が灯った。育てられる」
低い声が響く。誰のものかは分からない。
「……これできっと"あの子"が救える」
「久世様もお喜びになるだろう。"あの子"を導けるのは、"信じる者"だけだ」
「次の誘導は?」
「"観測者"が動いている。……見守るという名の、選別だ」
「いずれにせよ、今はまだ"育て時"。 このまま焦って手を出すよりは、芽吹くのを待つべきだろう。……あの器は、いずれ自ら歩み寄ってくる」
「"自ら望んで、差し出した"器……か」
「だからこそ、美しい」
言葉の端々に、静かな執着がにじんでいた。
「——それに」
ふと、ひとりの声が重なる。
「——銀の月の下に生まれた、光を抱く器。
あれが"食われる"時、またひとつ、世界が更新されるのさ」
香の煙が揺れる。
集まった影が静かに散開していく。
誰もいないはずの空間に、ほんのわずかに風が揺れた。
残り香がかすかにざわめき——
一人の影のフードから微かに覗いた髪に、うっすらと光が反射する。
——淡い、銀の髪。
結界の魔法が静かに収束していく。
密やかな会合は、何事もなかったかのように、闇へと還っていった。




