第35話 器の根に触れる
木の隊の診察室は、相変わらず静かで穏やかな空気に満ちていた。けれど、澪奈の胸の内には、小さく波立つものがあった。
再び向き合う紡生。けれど、前回とはもう、状況も心も違っている。
「では、始めましょう」
いつものように澪奈の前に立ち、紡生は術式を展開する。澪奈の心の器へと、そっと意識を向けていく。
白く、仄かに光る器。
その中心にはぽっかりと空いた空白。そして——その縁をなぞるように、淡い"痕"が浮かび上がっていた。前回までは感じることのできなかったもの。
(……これは、やはり……)
細く、静かに紡がれる術式がその周囲をなぞった瞬間、わずかに共鳴する気配があった。香の……残り香。
「……澪奈さんの器には今、"根"のようなものが残っています」
「"根"ですか?」
澪奈の眉が動く。
「ええ。共鳴香……という、禁じられた香があります。通常の香とは異なり、器そのものに染み込む性質を持ちます。特に空白や傷がある器には、深く根を張る」
紡生の声がわずかに低くなる。
「……放っておけば、器を喰われたのと同じ状態になる。恐ろしい香です」
「……じゃあ、わたしも……」
「ただ、澪奈さんの場合は少し違う。確かに香の"根"はあります。けれど——」
言い淀むような間。紡生の目が澪奈の器を見つめたまま、深く細められる。
「……器そのものが、それを"受け入れてしまっている"ように見えるんです」
「受け入れて……?」
「本来、異物に対して器は拒絶反応を示します。けれど澪奈さんの器は、それを包み込むように、"縁"が広がっている。……白楼との繋がりが、それに関与しているのは明らかです」
澪奈の胸元に、白い光が一瞬だけ灯る。白楼の気配。
「恐らくは、その"縁"が根の暴走を防いでいる。共鳴香が本来持つ危険性を、静かに押さえ込んでいるように見えました」
「……白楼が、守ってくれている……?」
「……かもしれません」
紡生の声に、どこか釈然としない色が滲む。
「けれど、これは異常です。感情を喰われた器に根が張り、しかもそれが定着している。そんな例は存在しない」
空気が、わずかに張り詰める。
「今は落ち着いていても、白楼との縁が外れた瞬間——根が暴れ出す可能性がある」
紡生の瞳が鋭くなる。
「そうなれば……器そのものが、崩壊する」
澪奈は唇を結び、そっと息をのんだ。
「……その、根だけ取ることはできないんですか?」
「現時点では、できません」
紡生の答えは即答だった。
「今の器の状態では、"縁"を断ち切らなければ根を除くことはできない。逆にいえば、縁さえ切れれば——除去も、修復も可能かもしれません」
言葉の途中で、紡生はわずかに言い淀んだ。
「……本来なら、それが正しい対処です。私たちの立場からすれば」
沈黙。術者としての理性と、どこかに残る情がせめぎ合っていた。
「妖怪とは、自分の欲望に忠実な存在です。今は守っているように見えても、それが"喰うための延命"でないという保証はない」
言いながら、自分自身に言い聞かせているような声音だった。
「……でも、白楼は家族みたいなもので、悪さなんて、何も……」
澪奈から出る言葉がかすかに震える。
「白楼が"家族のような存在"だと澪奈さんが思っていても、それを"そうではない"と見る立場があることも、知っておいてください」
「……失ったことに気づいていなかったのは、喰われていたから、かもしれない。もし、貴方の欠片がもう喰えなくなったら——それでも、同じように在り続けてくれる保証はあるのか」
問いかけは静かで、しかし鋭かった。
「けれど、今の段階では……白楼の影響が器を安定させていることもまた事実です。無理に剥がすことはできない。……だからこそ、私はこのまま観察を続けさせていただきたい」
その言葉には、どこか苦い決意が滲んでいた。
「……今すぐ処置はしません。けれど、いずれ判断を迫られる時が来る。……そう思っています」
「……はい」
「今日は癒しの術だけでもかけておきましょう。心を安定させるおまじないのようなものです。根の暴走にも多少は効果があるはずですから。……縁の上にかけておきますね」
術式が再び静かに紡がれる。澪奈の器の奥で、小さな光がまたひとつ、灯った。




