第33話 夢路の断片
最近、夢を見るようになった。
昔のこと。きっと、失くしてしまったものたち。
最初は、いつもあたたかい光景から始まる。
けれど、それはだんだんと断片的に切り替わっていく。
女の子の周りにはいつでも人がいた。
そこから聞こえてくる会話。
「…ってすごいよね」 「ほんと、いい子だねぇ」
「何でもできるよね!」
何気ない、会話の一部。 きっと、褒めてくれていたんだろう。やさしい言葉。
けれど、この頃の私には、少しだけ——ほんの少しだけ、重かったみたい。
——真っ暗な廊下。誰もいない部屋。
冷たい空気のなか、女の子がぽつんと立っている。
まだ"何か"を失う前の、"わたし"。
「もっと。もっと頑張らなきゃ」「がんばれない子なんて、いらない」「いい子じゃなくて、何もできない私だったら……きっと必要とされない」
「でも、もう、疲れた。……もう、いいの。……こんなこと考えてしまうぐらいなら、自分の気持ちなんて、いらない……」
その女の子の目から光が失われていく。その子の心の器は、ひび割れていた。
――その目から一筋の雫がこぼれ落ちた。同時に欠片が、こぼれ落ちそうになった、その瞬間
女の子の身体が白い光に包まれた。
それは、どこかで見たことのあるような光景だった。
——ザザッ。
急に、視界にノイズが走った。 空気がひび割れるように揺らぐ。
次に見えたのは、別の光景だった。
そこは、夕暮れのように橙に染まった記憶の空間。 一人の少年が、小さな灯りの下で何かを見つめている。
その隣には——白い髪に金の瞳をした、美しい男の姿。
笑っていた。 ふたりは並んで、何かを食べていた。 どこか穏やかな時間。
(……これは、誰の……)
——また場面が変わる。
今度は、美しい男だけだった。ただ一人佇んでいる。
金の瞳が、すっと伏せられる。 悲しみを隠すように。何も言わずに。
名前も、声も、知らないはずなのに。 胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
そこでふっと意識が浮上する。
* * *
目を覚ますと、白く柔らかな毛が顔に触れていた。 白楼が寄り添うように、澪奈の傍にうずくまっている。
「……白、楼……?」
その名を呼ぶと、白楼の耳がわずかに動いた。
「……さっきのは、あなたの記憶?」
白い毛を撫でながら、澪奈はそっと問いかける。先ほど見た少年と白い男の姿が、どうしても頭から離れなかった。
(……男の子、どこか……紡生さんに似てた)
「そういえば……前、胡蝶さんのところに行った時、 紡生とも縁の深い存在って言ってたよね。もしかして昔、一緒にいたの?」
『……少しだけ一緒にいたことがあるだけだ』
白楼の思念が、短く返ってくる。
「そっか」
澪奈はそっと息をついた。静かな夜の空気が、ふたりを包む。
「……何か、すごく……優しい時間に見えた」
白楼はしばらく黙っていた。 その金の瞳は夜の闇に向けられたまま、遠くを見ているようだった。
『……人の子は、よく喋る』
ぽつりと、思念が返ってくる。
『静かだが、面倒だった。何にでも意味をつけようとする。食事の仕方、言葉の使い方、服の整え方……それまでの私には必要のなかったことばかりだった』
それでも——と、白楼は小さく目を細める。
『……だが、それを"面白い"と思った自分がいた。器を観察するのではなく、隣で過ごすことを選んだのは、あれが最初だった』
「……大事な人、なのね」
澪奈の声に、白楼は目を伏せた。
『大事なのかどうかは、今でもよくわからない。ただ……あの子が壊れかけたとき、助けてみたいと思った』
『——それが、喰うという形しか取れなかったとしても』
その言葉の最後に、わずかな翳りが混じっていた。
澪奈は俯いたまま、胸元に手を当てる。
「白楼は……後悔してるの?」
『わからん。喰わなければ、死んでいた。それを避けたのは、悪いことではないはずだ。だが……』
『それが"救い"だったかは、私には判断できない』
静かなやりとりの中、部屋に柔らかな沈黙が満ちる。
「……わたし、きっと昔、自分で貴方に感情を"差し出した"のよね」
澪奈の声は、確信と戸惑いの狭間にあった。
「思い出したわけじゃないけど。夢で……覚えてる。あのとき、"いらない"って言ったの。自分で、手放した。……なのに、今は、戻したいって思ってる。——勝手、だよね」
『人間も妖怪もみんなそんなものだ。それの何が悪い?』
『そして、感情とは水のようなものだ。形も重さも変わる。だから、美しい。それが必要かどうかは、今の"お前"が決めればいい』
「……うん」
白楼のふわふわとした毛に顔を埋めながら、澪奈は小さく笑った。
「ありがとう、白楼。……あなたと一緒にいて、よかった」
* * *
——その夜は夢をみなかった。
けれど、目覚めた朝。 澪奈の中に、確かな感覚だけが残っていた。




