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第31話 紡がれなかった感情

——あの事件の記憶が、未だに消えない。


紡生は一人、資料の山の向こうで目を閉じた。共鳴香、器の破損、そしてあの時と同じような構造。


(……やめろ、思い出すな)


そう思っても、焼き付いた記憶は剥がれない。


* * *



——紡生が"紡ぐ力"に目覚めるより前。


彼には、名前がなかった。

孤児として預けられた施設。 だが、そこは表向きの姿であり、 内側では「人間の心と器の限界を測る」ための 実験が行われていた。


——あの日。


くすんだ木床の上。冷たい風。 どこかで誰かが泣いていた。誰かの手を、握っていた気がする。 でも、それが誰だったのか、もう思い出せない。



彼は「愛」という感情を奪われた。



何度も香を嗅がされ、魔法陣の中心に立たされ、 感情を抉るような言葉と術式に晒された。

痛みはいつの間にか忘れた。 それよりも、 自分の中から"何か"が抜けていく感覚が恐ろしかった。

——喪失。

それが何だったのか、その時の彼にはわからなかった。



小さな体の中で、何かがじわじわと失われていく。 心の中に空洞ができて、ぽっかりと穴が空いた。


「あれ……あれ……?」


目の前の子が、笑わなくなった。 隣の子が、突然、叫び出した。 その隣の子は、無言のまま倒れていた。


香の匂い。甘い、でも、どこか焦げつくような匂い。


「さあ、次はこの子だ」


誰かの声。 術式の光。魔法陣。


……痛くないのに、壊れていく感覚。


——ぽきん。


自分の中で、何かが折れた音がした。


「……あれ?」


視界がぼやけて、身体が動かない。 心がどこかに置き去りにされたような。


「もうダメだな、こりゃ。器、割れちまった」


誰かの声。笑っていた。


そして、崩壊の寸前。 彼の"器"は割れ、消滅しようとしていた。


——その時だった。

どこか遠くから、何かが"呼ぶ"気配があった。

青白い光。音のない風。足元から浮かび上がる"欠片"。


そして、声がした。


「……お前、もう消えるのか。綺麗なのに。惜しいな」


その声に感情はなかった。 だが、確かに"選んだ"のは、彼だった。白く、淡く、どこか冷たい光を纏った存在。

その手が、彼の器の欠片を撫でるように拾い、 すべてを、喰った。

器の崩壊を止めるために。 彼の心を、再構築するために。


その声とともに、自分は"何か"に包まれた。 何かが飲み込まれるような、作り変えられるような、不思議な感覚。


痛みはなかった。ただ、温度も、感情も、何も感じなかった。



そうして、目が覚めたとき、自分は"違うもの"になっていた。

視界が違った。耳が、空気が、匂いが違った。


――隣には、朧牙がいた。


白い髪に、金色の瞳。淡い光をまとったような気配。

人の形をしていたが、人ではないと直感できた。


「……お前は、もう人間では生きられなかった」


そう言ったその声も、感情の色がわからなかった。

だが、彼は確かに助けられた。 それは命の恩人として、朧牙を認識するには充分だった。



* * *


朧牙は名をくれた。 "紡生"——そう名付けられた日を、うっすらと覚えている。


戸惑いながら箸の使い方を教えてくれた。本の読み方を教えてくれた。 夜、体温が低くなると毛布をかけてくれた。


朧牙の言葉は少なかったが、確かに傍にいてくれた。 静かに見守ってくれた。彼が何かを言葉にするより先に、温もりを与えてくれていた。



けれど、分からなかった。 何をされても、心が反応しなかった。 その全てが、霞の向こうにあるようだった。


外に出ると、それはより顕著になった。


学び舎に通い始めた。

そこで出会った子供たちは、彼を避けた。


「妖怪なんでしょ?」「目が怖い」「触ったら、呪われるって」



教師も、大人も、どこか一歩引いていた。 彼らの笑顔は、どこかぎこちなかった。



彼は知った。 ——自分は、人とは違うのだと。


「なあ……どうして、俺は他の奴と違うんだ」


ある日、帰り道、朧牙に問うた。


「……お前が喰ったんだろ? 俺の……感情」


それは、咄嗟に出た言葉だった。 でも、止められなかった。


「お前のせいで、俺は……!」


朧牙は何も言わなかった。 ただ、一瞬、ほんの一瞬だけ

——悲しそうに、目を伏せた。


「……お前は、もう人間では生きられなかった」



同じ言葉だった。 けれど、その意味が違って聞こえた。

(それは、俺のためじゃなかったのか?)(もしかして……ただ喰いたかっただけ、だった?)


分からなかった。 分からないことが、ただ怖かった。


だから、叫んだ。 突き放した。


「……お前のせいだ!お前が俺の感情を喰わなければ!俺は……!!お前なんかっ、大嫌いだ!!」

そうして朧牙のもとを飛び出した。


そして――それが、決別だった。



* * *



彼は一人になった。


心の器は欠けたまま、埋まらない空白を抱えて旅をした。 妖怪としても、人間としても、生き場のない日々。


混沌の時代の最中、何人もの"欠けた者"と出会った。 泣く者、叫ぶ者、壊れてしまった者。


自分だけが、特別な苦しみを背負っているわけじゃなかった。 それを知った時、彼は初めて——


「……俺に、できることがあるなら」



そう、思えた。

彼の器が反応した。 他者の欠片に、触れた時。その傷に、糸のようなものが生まれた。 それは"感情"の線だった。


それと同時に、自分の器の穴にも気づいた。

糸で、触れてみる。


少しだけ繋ぐことは、できた。けれど——

それが正しい形なのか、自分では分からなかった。


「……まだ、足りない」


まだ、穴があいたままだった。


欠片を拾った。壊れてしまった者に触れたとき、偶然にこぼれ落ちた欠片。けれど、それは"似た何か"に過ぎなかった。


——自分自身を、戻したかった。

……少しでも、"人だった自分"に近づきたくて。


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