第27.5話 夢の底にて
夜の帳が下りて、世界が沈黙に包まれる頃。
澪奈はふと、眠気に抗えず、机に伏したまま意識を手放していた。
淡くにじむ色彩。
現実のようで、現実でない景色。
視界はぼやけ、音は遠く、感情は鈍い。
それは、記憶と幻想が入り混じった"夢"の領域。
風も音もない、空間の中——
それでも"何か"が、確かに揺れている。
——シャン……シャン……
遠くで鈴の音がする。
それは現実のものではなく、夢の底に差し込んだ異物のような音だった。
靄のかかった視界の中、少女がひとり立っていた。
肩口で切りそろえられた髪、淡い紫の瞳、和風の装束に、足元で小さな鈴が揺れている。
芒玻。
赫印の徒、第二柱。"夢を渡る者"。
鈴が鳴る。
彼女が歩けば、足首の鈴が、眠る音をゆらす。
夢の中の澪奈は、まだ彼女の存在に気づかない。
だが芒玻は、淡い瞳で澪奈をじっと見つめていた。
「きれいな器……ねえ、これはきっと、よく響く」
その声音は、どこかおっとりとした幼さを含みながら、しかし底知れぬ冷ややかさを孕んでいた。
「……久世さまが、言ってた。あなたの器には"空白"があるって」
澪奈の夢に、波紋のように歪みが走る。
思い出したくない記憶。思い出せない感情。
芒玻は、しゃがみこむように澪奈のそばへ寄り、夢日記を開く。
「あなたの夢、少し貸してもらうね。
だいじょうぶ、優しくするから――」
澪奈の夢に、音もなく"赫印"がにじんだ。
芒玻が一歩近づく。
その足元から、夢の地面が泡のように揺らぐ。
次の瞬間、澪奈の周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
——少女時代の庭園。
——兄と笑い合った廊下。
——壊れた音が響いた夜会の広間。
夢が、勝手に過去を巡り始める。
芒玻はその中心で、まるで映写機のように澪奈の記憶を映していた。
「綺麗だね、あなたの記憶。……でも、ちょっと欠けてる」
芒玻の瞳が細められる。
そこには――
"澪奈の記憶の断片"が、文字にならず、ただ滲んで揺れていた。
「ふふ、夢って、正直だから。……隠しても、出ちゃうの」
芒玻の指先が、夢の空間をなぞる。
「ここ。——"このページ"、破れてるよ」
夢の中で開かれた日記。
そこには確かに、現実と同じ"破れたページ"があった。
だが、芒玻はそのページに、指先で触れようとして——
「っ……!」
何かに弾かれた。
芒玻の身体がふわりと浮き、後方へ跳ねる。
その瞬間、夢の空に無数の"裂け目"が走った。
「……ふふ。まだ、早かったかぁ」
芒玻は眠たげな声で笑い、空を見上げる。
「でも、大丈夫。夢は、また来るからね」
その言葉を最後に、芒玻の姿が溶けていく。
夢の風景も一緒に崩れて、世界は白に染まっていった。
* * *
——ぱちり。
目を覚ますと、澪奈は机に伏せていた。
心臓が、ほんの少し速くなっていた。
「……夢、……?」
けれど、胸の奥で鳴っていた"音"は、現実のものだった。
微かに、軋むような、不協の音。
(……また、あの音……)
澪奈は手を胸に当てる。
器の奥——夢と現の狭間で、"何か"が揺れている。
* * *
現実世界で、芒玻はそっと目を開ける。
どこか満足そうに、でも"なにか"に触れた余韻を残しながら。
「音、きこえた。……きれいだったな」
彼女は夢を振り返る。
夢の果てには、"澪奈"が立っていた。
――視てはならない記憶。
――閉ざされた空白。
――鍵穴に似た"心の欠片"。
芒玻はそっと微笑んで呟く。
「……ねぇ、あなた、ほんとはもう知ってるんじゃない?」
「でも、まだ、思い出しちゃだめだよ」
「だって――今はまだ、"封印"の音が鳴っていないから」
それは夢の中の"儀式の兆し"。
彼女の足元に、赤い夢花が一輪、咲いていた。




