第27話 観測者たち(☓☓☓side)
月灯りに紛れるように、黒衣の影が屋根を這っていた。人とも、獣ともつかない。
それは音も匂いも残さず、ただひたすらに"観測"を続ける。目的は一つ――《喰われた令嬢》。
すでに"穴"が開いている。
だが、異常だ。喰われた者が、自力で目覚めるなど前例にない。
その影が尾行していたのは、狐火を灯す青年と、その隣に佇む少女。
淡く揺れる灯りに、視線が奪われる。ほんの一瞬の隙だった。
──ひら、ひら、ひら。
蝶が舞った。白銀の羽根。
意識が弾かれるように乱れ、次の瞬間には、二人の姿は消えていた。
「……見失ったか」
観測者は屋根の上で立ち止まり、忌々しげに息を吐いた。周囲を見回しても、彼らの気配はもうない。
"あの蝶"は、確かに《胡蝶》のものだ。
ならば――これは、"誘導"だ。
あの少女が、何者かにとって"価値"ある存在であることの証明。
「《鍵》を持つ可能性がある。"あの方"が言っていた通りなら、あの器は……。これは上へ報告だな」
黒衣の影は月へ溶けるように姿を消した。
──そして、夜市のさらに奥。
「ふふ、また一人、蝶を振り払えなかったのね」
水音のような声が響く。
胡蝶は薄く笑いながら、舞い落ちる蝶の羽根を摘み取った。
* * *
静けさが戻った、夜市の屋敷。
胡蝶の居場所には、白銀の蝶が舞い、淡い光がまだ揺れている。
転送された少女の気配が完全に途絶えたのを見計らい、紅哉が姿を現した。
狐火の明かりが、淡く揺れる。
「ふぅ。あの子、ちゃんと送り届けたか」
「ええ。綺麗に"蝶"が運んだわ」
胡蝶は扇を手に、扇子の先で空をなぞるようにして言った。
「観測者の一匹、撒いてやったよ。面倒な連中がずいぶん増えたな」
「まぁ、ね。でも、隠している気配って扱いやすいものよ?"信仰者"たちが、動き出した。ふふっ、商売時ね」
一呼吸置いて胡蝶がポツリと呟く。
「まぁ……、あのお嬢さんにとっては波乱の始まり、かしら。器に根も張っていたし。」
「根?」
「えぇ。夜会事件、覚えている?」
「忘れられるわけないだろ。あれは、騒がしかった。ま、お嬢ちゃんと会ったのもそれがきっかけだったしな」
胡蝶は微笑を浮かべ、空中を指先で弾く。
蝶がひとひら、舞い上がる。まるであの日をなぞるように。
「あの夜、いくつもの器が割られ、欠片が散った。
でもね――"誰が暴走したか"じゃなくて、"誰が割らせたか"が重要だったの」
「仕組まれていた、ってことか」
「ええ。信仰者たちの仕業。"感情を喰われる"ことを"解放"と呼び、それを正義と信じる者たち。……動き出しているわ、あの人たち。」
「そして倒れた者達には印がつけられている。……使われたのは"共鳴香"でしょうね。」
"共鳴香"。それは器の奥底に残響を残す"香の術"。
——霧のように立ち込めた夜会の残り香は、とうに消えた。 けれど、そこに撒かれていたものはただの香ではなかった。
胡蝶は軽やかに煙管をくゆらせながら、ぽつりと呟いた。
「妖の力を封じる香に似ているけれど、違う。あれは"心の器"に染み込む性質があるの。特に、心の器が傷ついているもの、感情の欠片に強く反応する子に、ね」
「……染み込むってことは……」
「そう、香が揮発しても"根"だけは残る。共鳴音のように、微かにね」
紅哉は少し眉をひそめて、傍の屋台の柱によりかかった。
「そりゃ……お嬢ちゃんも反応するわけだ」
「ええ。彼女は器に"穴"があったから、共鳴香の"根"が普通よりもずっと早く、深く染み込んだの。 しかも、綺麗に空いた穴。ああいう空白って、共鳴香にとっては極上の受け皿なのよ」
「……でも、五行部隊で治療なり観察なりしてるんだよな?気づかないもんか?」
「五行部隊は"傷"には敏いけど、"根"には鈍いものよ。……それに、根は"感情の形"として視えないの。ある種の契約に近いのよ。適合した者だけが、香を受け容れたの。
……彼らは"信仰者"達に、いつ気づくかしらね」
「つまり、あのお嬢ちゃんはその……なんだ、適合者ってやつか?」
胡蝶はくすりと笑う。
「ええ。とても優秀な"器"だった。……だから、"招待"もしたのよ」
「……それって、最初から分かってて?」
「まさか。商売人ってのはね、"引き寄せ"た縁を見逃さないだけ」
紅哉がふっとため息をつく。
「で、その"根"は……取れるのか?」
「条件次第ね。取るには"差し出された感情"を取り戻さなきゃ。でも、その感情が本人の中で"いらない"と処理されていた場合——根は残ったまま消せないわ」
「そりゃ、厄介だな……」
胡蝶は最後の煙を吐き出しながら、遠くを見つめた。
「けれど、面白いでしょう? あのお嬢さんはその"根"を持ったまま、まだ揺れている。 ……それが、どこに伸びるか。どこで咲くか。 "商品"としても、"物語"としても、私は楽しみにしているのよ」
「……今回の情報は此処までよ。情報屋さん?また次も面白い"縁"を持ってきてね?」
その声には、商人の笑みと、観測者の好奇心が混ざっていた。
「……さて。今度は"二人"を、招待しなきゃ」
「お、お嬢ちゃんのこと気に入った?」
「いいえ。商売になりそうな匂いがしているだけよ」
胡蝶の視線が夜の空を仰ぐ。
「……けど、気にはなるわ。あんな器の"穴"は久しぶり。綺麗に、渡したのね。」
「自分の意思で渡したって?」
「ええ。それだけで、充分に特異よ。けれど――もっと面白いのは、"渡した先"が、あの《朧牙》だったってこと」
紅哉の狐耳が、ぴくりと揺れる。
「……そいつの名を、久しぶりに聞いた」
「ふふ、あの子、変わっていたわ」
「喰うだけじゃなくて"待つ"ことを覚えたみたい。
飼われている影響かしら、ね?」
「ふはっ。何があるかわかんねぇもんだな、あの凶暴なやつを、ね。」
紅哉がくつくつと笑い、肩をすくめる。
「でも、妖怪の本質は変わらねえ。いつか、喰われつくさなきゃいいけど、な」
「それはこれからの二人しだいね。縁が深くなれば、あるいはーー」
胡蝶は蝶をひらりと舞わせながら、紅哉に視線を向ける。
「ねぇ。さっきお嬢さんのこと"気に入った?"って聞いたわね」
「でも、気に入ったのは——"あなた"のほうなんじゃなくて?」
紅哉は笑ったまま答えない。
胡蝶はその顔を見て、扇で口元を隠したまま笑った。
蝶が、また一羽。
夜の奥へと、誰かを導くように舞っていく。
夜市の灯が、ふわりと揺れた。




