第26話 夜の名残に、灯がゆれる
朝。
静けさの中に、淡くひとすじの光が差し込む。
澪奈はふと目を覚ました。いつもと変わらぬ天蓋と、差し込む陽光に、微かな温度を感じた。
昨夜、確かに"夢のような場所"にいたはずなのに、目覚めた自分はいつも通りの部屋にいた。けれど、胸の奥には確かな感触が残っていた。
——白楼。
視線を落とすと、絨毯の上で小さく丸まっている白い獣がいた。
「……おはよう、白楼」
囁くような声に、彼はぴくりと耳を動かしただけで、また眠るように目を閉じた。
(……夢、じゃなかった)
昨夜のこと。
夜市。胡蝶の言葉。
「感情を渡した」記憶。そして「名前を贈った」感覚。
すべてが、今も体の奥でじんわりと灯っている。
けれどそれは、痛みではなかった。
どこか、あたたかくて、名残惜しい光のようなものだった。
* * *
昼間、澪奈は何気なく日常の中を過ごしていた。
太陽は高く、屋敷には変わらぬ人の声が満ちている。
食卓で交わす家族との会話。屋敷の中を歩く感触。
以前と何も変わらないのに、すべてが少しだけ"違って"見える。
(……世界が、広がった気がする)
それは、あの場所を見たからか。
それとも、名前を贈ったからか。
ふと、机の上に目をやる。
昨日開いた本のページが、風にふわりと揺れていた。
"名を与えることは、縁を結ぶこと"
そんな言葉が綴られていた一節が目に入る。
(……縁)
あの場所で感じた不思議なつながりは、幻なんかじゃなかった。
心の器に空いた"空白"に、ほんの少し、温もりが宿っている。
それはきっと、白楼がそこにいてくれるからだ。
* * *
夕暮れ。
金色に染まる空が、少しずつ闇の帳に引き寄せられていく。
澪奈はふと、静かに立ち上がり、部屋の灯りに蝋燭をともす。ゆらりと揺れる火が、昨夜の狐火を思い出させた。
(……紅哉さんは、どうしてあそこにいたんだろう)
胡蝶も、紅哉も、そして白楼も——
今までの澪奈では、決して出会えなかった存在たち。
けれど、彼らは"空白の中"に現れた。
何かが壊れかけたその隙間に、入り込んできたように。
(……私は、きっとまだ、全部思い出せていない)
自分が"何を渡したのか"。
"どうして渡したのか"。
けれど今は、それを怖いとは思わなかった。
それよりも、知りたい。
そして、向き合いたい。
窓の外を見上げると、空には一番星が瞬いていた。
白楼が静かに足元に寄ってくる。
澪奈は、その毛並みにそっと手を添えた。
「……ねぇ、白楼。あなたはずっと、私の隣にいたのよね」
答えはない。けれど、澪奈はその沈黙を"肯定"と受け取った。
——夜が、また来る。
けれど、今はもう、ひとりではなかった。
……彼女は知らない。
手を伸ばしたあの夜、誰かの視線が静かに、空の向こうから注がれていたことを——




