第25.5話 名もなき白き獣に、名前を
——白い蝶が再び舞ったあと、気がつけば、私は"自分の部屋"にいた。
まるで夢から覚めたばかりのような感覚が、まだ身体の奥に残っている。
けれど、手のひらには、ほんの微かな温もりが宿っていた。
それが何だったのか、確かにわかっている。
——朧牙。
胡蝶が告げた名。
"感情を喰う"妖怪。
紡生とも縁のある、澪奈の器に"触れた"存在。
けれど。
部屋の奥、絨毯の上で丸まる白い獣を見つけた瞬間、澪奈の胸はふっと緩んだ。
「……ただいま」
小さく呟くと、その獣——白い犬の姿をした存在は、ゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳が、まっすぐに澪奈を見つめている。
どこか人間めいた深さと、けれど優しい光。
「……あなたが、"朧牙"なのよね?」
問いかけた澪奈の声に、獣は何も言わず、ただその瞳を細めた。
「……ねぇ、あなたは、どうして私のそばにいるの?」
問いかける声に、白い獣はぴくりと耳を揺らす。
目を開き、澪奈を見上げた。
不思議と、言葉などなくても通じているような気がした。
——あの日。心に空白ができてから、ずっとそばにいた。
まるで、それを守るように。
「あなたがいると……少しだけ、楽になれるの」
白い毛並みに手を伸ばすと、ぬくもりが手のひらに広がる。
「ずっと、白いから、"しろ"って呼んでいたけれど……」
そのまま撫でていた手をいったん止めて、ふと机の方へ視線をやる。
机の上にあった本の一節が目に入る。
——"楼"とは、高く静かな場所に築かれる、見張りの塔。
そこから、遠くを見渡し、誰かを守るもの。
澪奈はゆっくりと跪き、目線を合わせる。
ふわふわとした白い毛並みに手を添えながら、微笑んでそっと呟いた。
「……"白楼"。しろう、って呼んでもいいかしら」
その言葉に、白い獣は一拍の間を置いて——
こくん、と小さく頷いた。
その瞬間だった。
澪奈の胸の奥に、ふと、誰かの声が"触れた"気がした。
——『……ありがとう、澪奈』
静かで、温かくて、どこか寂しげな、それでも確かに"澪奈に向けられた"想い。
驚いて顔を上げると、白楼はいつも通り、静かにそこにいた。
ただ、その瞳だけが、少しだけ柔らかく揺れているように見えた。
(……想いが、届いた?)
自分の中に宿った名。
それが、彼との"縁"になったのだと、澪奈はふと確信した。
誰かに名を贈るということ。
それはきっと、ただ呼ぶためだけの言葉ではない。
心から願い、想いをこめて初めて、それは"縁"として繋がっていく。
そして、ようやく本当に"ここ"にいてくれる気がした。
澪奈は白楼の頭をそっと撫で、笑った。
「……おやすみなさい、白楼」
その夜、月明かりの差す部屋の中で——
白楼は何も言わず、けれど澪奈の足元で眠るように静かに横たわっていた。
外では、風が優しく庭木を揺らしていた。
——そうして、夜は静かに更けていった。
"名を持つもの"となった彼は、
再び澪奈の空白の傍に、静かに寄り添っていた。




