第23話 招待
夜の帳が降りる頃。
紅哉の赤い背を追って歩くうちに、澪奈はいつの間にか"別の場所"に迷い込んでいた。
邸宅の廊下はすうっと薄れてゆき、代わりに広がったのは、朱と蒼の入り混じる夜の路地。人間と妖が行き交い、灯りがまるで星のように揺れる場所。
「——ようこそ。お嬢ちゃん」
紅哉の声が、月の下で微かに笑っていた。
路地を抜けると仄暗く入り組んだ石畳の道と、頭上には低く垂れ込めた霧のような天蓋が広がっている。
「……ここが、"夜市"?」
思わず漏らした声に、前を歩く紅哉がふと振り返る。
「そうそう。現世と幽世の狭間で開く、ちょっとした市場さ。気まぐれな場所で、気まぐれに開く。気づいた時には、もう引き返せない。——なんてな」
彼の頭には、いつの間にか狐の耳が揺れていた。ゆらりと揺れる淡い狐火がその輪郭を縁取り、まるで灯籠のように道を照らしている。
その姿は、どこか幻想的で、どこか懐かしい感じがした。
夜市には、様々な姿の者たちが行き交っていた。
人の形をしたもの、獣の耳や尾を揺らす者、影のように形を持たない者——そのすべてが、澪奈の知る世界とは異なる"何か"を纏っている。
屋台が連なる細道には香辛料の匂いが漂い、空には奇妙な灯りの提灯が浮かんでいた。陶器の人形が踊りながら売られ、透明な箱には"想い出"と書かれた液体が揺れている。
——名札、声、涙、夢の欠片。
どれもが"商品"として無造作に並べられていた。
歩く者たちは言葉を交わさず、ただ感情の匂いを"味わう"ように嗅ぎ取り、値踏みしながら歩いている。
一角では、誰かの「名前」を競り落として喜ぶ者もいた。
……売られているものの意味が、澪奈にはすぐには理解できなかった。
けれど、なぜか不思議と怖くはなかった。 むしろ胸の奥が、かすかに、震えていた。
「……これが、あなたの見ていた世界……」
澪奈がそう呟くと、紅哉は片方の狐耳をぴくりと揺らして言った。
「ここじゃあ、感情も正義も名前も、ぜーんぶ売り物だ。欲しけりゃ買えばいいし、惜しけりゃ隠せばいい。それだけさ」
「正義も……?」
「うん。あんたが"正しい"と思ってること、ここの誰かにとっちゃ"とんだ押しつけ"かもしんねぇ。だから面白いんだよ、この場所は」
——狐火がふわりと揺れ、澪奈の影を伸ばす。
その影の向こうに、ゆっくりと近づいてくる存在があった。
「……蝶?」
ひらり、と白い光が目に映る。思わず手をかざす。
ふわりと、まるで降り立つように澪奈の手のひらにとまったそれは、美しい光の蝶だった。
(ーー見つけた。)
風の中に、そんな声が混じった気がした。
「……え?」
「おぉ。招待状、だな」
紅哉が蝶を見てさらっと呟く。
「招待状……?」
「ぁあ。そいつは夜市の"開催者"の式神さ。届いたってことは、お嬢ちゃん、選ばれたんだな」
「選ばれた……。なぜ?」
「さぁな、それは本人に聞くもんだ。よし、行くかぁ」
「行くって、どこへ?紅哉さんは、開催者にあったことがあるの?」
「ん?まぁな。昔、ね。胡蝶にはちょっと借りがあってな。」
「……胡蝶、って……」
「んー、夜市の開催者。根っからの商売人。蝶の様に移ろうもの。胡蝶を表す言葉はたくさん聞くけど、どんなやつかって言われると……俺もよくわかんないんだよな。……果たして彼女は妖怪なのか、それとも人間なのか。ってな議論も聞くし?
まぁ、なんにせよこの夜市で扱ってる商品は全て胡蝶が管理してる。……特に"感情の形"が好きな、ちょっと風変わりなやつさ」
「感情の形……」
紅哉の言葉をなぞるように呟いた瞬間、蝶が掌からふわりと飛び立った。
「っと、そろそろだな。驚くだろうけど、じっとしてろよ。大丈夫だから」
「……なにが、っ——」
蝶が空に溶けるように消えた、その瞬間。
——辺り一面が白い光に包まれた。
ふっと足元がなくなるかのような、浮遊感。
「きゃっ……」
視界がぐにゃりと歪み、世界が反転する。
音も匂いも、感覚すらも塗り替えられるような、異質な"境界"の通過。
——白い光が消えたその場所に、もう彼らの姿はなかった。
ただ、淡い狐火だけがふわりと風に揺れていた。




