第21.5 話 音のない声
夜が沈む。
まるで世界が呼吸をやめたかのような、完全なる静寂。
月も星も現れない夜。
封じられた大聖堂の奥、誰も入ることを許されぬ祭壇の前に、一人の男が立っていた。
久世。
赫印の主、世界の再構築を目論む者。
白い外套が、空気の揺らぎすらない空間に浮かぶように揺れている。
その瞳は閉ざされた大扉を見据え、ただ、待っていた。
――コッ。
音が、した。
無音だった世界に、たった一滴、石を落としたような。
扉が音もなく開き、黒い影が差し込む。
長く艶やかな黒髪、白銀の瞳。
顔を覆う白い仮面。
まるで人形のように整った容貌を持ちながら、その気配は"人"とは異質だった。
赫音。
赫印の徒の第一柱。"音なき預言者"。
その身から微かに揺らいだ"音"が、空間に波紋のように広がる。
それは祈りでもなく、術でもなく——ただ"世界の軋み"そのもの。
久世は微笑む。
「まずは"器の揺らぎ"を探れ。封印はまだ完全ではない……が、兆しはある」
赫音は応えない。ただ、ひとつ頷いた。
ただ一歩、祭壇に近づく。
彼女の手の中で、細く銀の錫杖が揺れる。
ぶつけられたわけでも、弾かれたわけでもない。ただ、"共鳴"した。遠くで生まれる気配を捉えた。
* * *
一方その頃。
令嬢・澪奈は屋敷の自室で、一冊の古い日記を閉じていた。
ふと、窓の外を見つめる。
風もなく、虫の音もなく——なのに、何かが"聞こえた"。
——キィン……。
(……この音……?)
耳ではない。
胸の奥、心の器の深部。
そこがきしむような、擦れるような感覚。
澪奈はそっと手を胸に当てる。
脈は静か、鼓動も乱れはない。けれど、確かに"何か"が揺れている。
* * *
その音は――"聞こえなかった"。
けれど、久世の脳裏に"声"が届く。
『……音が揺れています』
空気が微かに震える。
『女の器が、かすかに震えました』
『まだ"鍵"にはなっていない。でも……響きは、深い』
『あの子の"器"は、きっと鳴く。綺麗な音で』
久世は、目を細めた。
「ならば、用意を始めよう。"共鳴の儀"だ」
赫音が仮面の奥で瞬きをした。
何の表情も、感情もないはずなのに、その視線はまるで"期待"のような温度を持っていた。
久世は一歩、赫音に近づく。
「お前たちは言葉を使わない。だが……音は届くようだ」
その瞬間。
――どこかで、鈴が鳴った。
夢の世界で芒玻が目を開け、
古びた巻物に茨殻の筆が走り、
封印の儀式場で綺紗の杖が揺れ、
白布の中で無顕が、わずかに首を傾けた。
久世は、静かに目を閉じた。
「舞台は整いつつある。……あとは、彼女がどこまで歩めるかだな」
赫音が、仮面をゆっくりと傾ける。
そして、この夜、初めて言葉を発した。
「"あの子"の音が、綺麗に響くといいですね」
その声は、透き通っていた。
まるで氷の音のように。
そして――祈りのように、儀式の始まりを告げていた。
封印は、静かに脈打ち始める。
赫印の徒が、"目を覚ます"。




