第20話 彼女の素顔("切る"という美しさ)
静室を後にして、澪奈は重たい足取りで五行部隊の廊下を歩いていた。
白く整ったその通路は、どこまでも静かで、何も知らなければ"安全"そのものに見える。
(……でも、本当にそうなの?)
心の中で何かがざわめいていた。
記録に刻まれていた"終わり"の数々。
戻らない空白。燃やされる器。そして"例外はない"という言葉。
(……私は、どうなるの?)
夕刻の風が、廊下をさらさらと吹き抜けていく。
ふいに、足を止める。
外に出て、空気を吸いたかった。
その時――
「っ……?」
前方からただならぬ気配が広がっていた。人々のざわめき、警戒の声、誰かが叫ぶ声。
「危険です!一般の方はすぐに下がってください!」
その声と共に、数名の隊員が駆けていく。
(……また……?)
澪奈の胸がざわめく。その瞬間だった。
——パキンッ!
あの音がした。
内側から響くような、器が軋む音。そして、
『いやだ』『いたい』
頭に、"声"が届いた。
「っ、今は外に出ないでください!」
外に出る扉の近くでは制止の声が響く。
澪奈が顔を上げた瞬間、廊下の向こう側、ガラス越しに見えたのは――異形だった。
* * *
通りの一角。建物の敷地をでたところ。
そこは五行部隊の建物から少し外れた広場だった。
数名の人間が地面に倒れ、痙攣している。
その胸元には、黒く濁った器が脈打っていた。
人間の形をした誰かが、呻き声を上げながら壁にもたれかかっている。
その胸元から、黒い"腕"のような何かが突き出していた。
(……人? でも、違う……)
赤黒い器が、胸元で脈打っていた。
だがそれは澪奈が今まで見てきたものとは違う。
器そのものが歪み、まるで"内側"から誰かが覗いているような、異様な気配。
「ッ……あれは……」
「"喰われた"反応です」
すっと横に現れた声に、澪奈が振り返る。
軍服に身を包んだ細身の女性。銀の髪に紅の瞳。
「……戒音、さん?」
「お久しぶりです、澪奈様」
にこりと笑ったその顔は、以前会ったときと変わらず。だが、雰囲気は明らかに違った。
その手には、光る刃のようなものが握られていた。
「あの人達は完全に"器の中"から乗っ取られてますね」
そう言った直後だった。
黒く濁った器のひとつから、ぐにゃりとした影が立ち上がった。それはまるで、人の形をした"煙"のようだった。
「……なに、あれ……」
「……妖怪の"顕現"。最近増えてるんですよね、こういうの」
「……妖怪、ですか? あの人は……!」
「喰われたんです。魂の奥、器の中心に"寄生され"て……そこを足掛かりに、妖怪が顕現した。」
戒音は涼やかに言った。
「"寄生"された人間は抜け殻。でも妖怪に操られ、半分生きてる。だから厄介なの」
その言葉の直後、媒体とされた人間が呻き声と共に暴れ始めた。
その肉体は既に"人間"の動きではなく、影のような何かが身体の内側を這い回るような、不気味な動きだった。
淡々と説明しながら、戒音は歩みを進める。
「人の感情に引き寄せられて、喰って、溢れて……ああいう形で出てくるの。わかりやすいですよね。苦しみ、怒り、悲しみ……そういうの、大好物みたい」
刃をくるりと回し、右手で構える。
「でも、まぁ。美しくないわよね。中途半端にぐちゃぐちゃで、器も本人も可哀想」
そう言うと、戒音は窓からひらりと身を乗り出し、
「ちょっと、行ってきますね。巻き込まれないようにここで待っていてください」
一言そう告げると、喧騒の中へと向かっていった。
戒音が動いた後。
開け放たれた窓から喧騒と具現化した妖怪の声が聞こえてきた。
「んふ……この辺り、感情の香りがとっても甘くて濃くて……たまらないっ。……まだ、残ってるんだねぇ。あの夜会で撒かれた"あれ"……ふふ、誰かがまだ残してくれてる……?」
「もっとぉ、おかわり、欲しいなぁ……!まだ溢れそうな"器"、いっぱいいるんでしょ?」
……夜会のとき、の……?
「まったく。その姿も発言も、ほんとに美しくないわね。切断、始めますよ」
戒音が刀を鳴らす。
周囲の空間が一瞬"重たく"なった気がした。
風が凪ぎ、空気が張りつめる。
「戒音副官、補佐します」
数名の金の隊員が、即座に結界を張る。
一閃。その刃が妖怪を切り裂く。同時に、器の上に浮かんでいた黒い影が一瞬で霧散する。
器の歪みが一瞬ぶるりと震えたのち、透明な"欠片"が空中に弾けた。
媒体となっていた人間が、その場に崩れ落ちる。
「……っ!」
その手際の良さと、無駄のない動きに、澪奈は息を呑む。
「他の人たちも、私が処置します。中に残ってる"余分なもの"を切って、きれいに整えないと、ね。各隊員はその後の保護を」
「はっ。」
倒れた人に、金の隊の隊員が近づいていく。
そして、次々と戒音の刃が振るわれるたび、黒く濁った器が"綺麗な空白"に変わっていく。
(……綺麗……?)
確かに整っていた。歪みも濁りもなかった。
でも——
(……光が……消えてる……?)
「ふふっ。外側に張り付いてただけみたいね。あっさり取れちゃった。……でも、ちょっと軽すぎたかしら? ……まぁ、後で一応報告ね」
金の隊員が保護を続ける中、戒音はひとつ伸びをして言った。
「さぁ、終わり」
その仕草が、あまりにも軽やかで――澪奈には恐ろしく思えた。
「……どうして、あんなに、簡単に……」
「え?」
澪奈がつぶやいた言葉に、戻ってきた戒音が小首を傾げる。
「"切る"のが、当然でしょ? そうしなければ、こっちが"喰われる"んだから」
澪奈の呟きに、戒音がにこりと微笑む。
「切れば楽になる。痛みも、苦しみも。空白になれば、もう壊れない」
「……でも……それって……」
「違和感、ある?」
問うような声だった。
「でもね、澪奈さん。あなたの器にも空白、あるんでしょ?」
「っ……!」
澪奈は息を呑んだ。
「その空白が、いつ"こちら側"になるかなんて、誰にもわからない」
「……私の器は、まだ――」
「正常。でも、"まだ"よね?」
にこりと笑った戒音の瞳が、静かに澪奈を射抜いた。
「壊れたものは、戻さなくていい。……切って、新しく作り直せばいいじゃない」
「それは……それは、あなたの"正義"ですか?」
そう問い返した澪奈に、戒音は楽しそうに微笑む。
「正義? そんな大層なものじゃないわ。ただ……私にとっては、それが"美しい"と思えるだけよ」




