第1話 朝の光の中で
澪奈は、窓から差し込む柔らかな朝日でゆっくりと瞼を開いた。天蓋付きの大きな寝台のカーテン越しに、金色の光が部屋を淡く照らしている。
その足元では、白く大きな犬が静かに丸くなっていた。
呼吸に合わせて、ふわりふわりと毛並みが揺れている。
澪奈はその背を一度だけ優しく撫でてから、そっと身を起こした。
「お嬢様、おはようございます。朝のご支度をさせていただきますね」
控えめな声とともに、侍女が近づく。
澪奈は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「おはよう、真莉。いつもありがとう」
静かにベッドを降り、鏡台の前に腰掛ける。
真莉が長い髪を丁寧に梳かし、淡い水色のリボンで軽くまとめていく。
ブラシが髪を滑るたび、さらさらとした髪が艶めき、光を優しく弾いた。
澪奈は目を閉じ、櫛の心地よい感触を静かに受け入れる。
「朝の紅茶の準備をいたしますね」
もう一人の侍女が、背後で用意を進めていた。
だがそのとき――
「あっ……」
ピシッ、カシャン。
紅茶の香りとともに、白磁のカップが床に砕け散った。
手を滑らせた侍女は真っ青な顔で膝をつき、震える手で破片に触れようとする。
「申し訳ありません! すぐに片付けを……!」
その手に、澪奈は静かに歩み寄ってそっと触れた。
「待って。――少し、見せて?」
ふわりと手をかざすと、淡い光が澪奈の指先から生まれる。
光は侍女の手へと吸い込まれ、赤くなった皮膚をやわらかく癒していった。
「……大丈夫? 赤くなっていたから。
治ったと思うけど、念のため、後でちゃんと診てもらってね?」
「……っ、ありがとうございます」
彼女は視線を伏せたまま、小さく頷いた。
けれどその目には、まだ怯えの色が残っている。
「このあとすぐ朝食をいただくから、今朝の紅茶はもう大丈夫よ。片付けだけお願いできる? 怪我しないように、ゆっくりね」
「かしこまりました……申し訳ありませんでした」
深く頭を下げるその肩は、まだこわばっていた。
「ねぇ」
澪奈が声をかけると、侍女がはっと顔を上げた。
「……っ。はい」
「明日の朝、あなたの淹れた紅茶を楽しみにしているわ」
ぱちりと目を見開いた侍女に、澪奈はふっと微笑みかける。
「よろしくね?」
「……っ、はい! お任せください!」
その声には、ほんの少し自信が戻っていた。
彼女は深々と頭を下げ、割れたカップを丁寧に片付け始める。
支度を再開した真莉が、柔らかく微笑みながらぽつりと呟いた。
「お嬢様のそういうところ、本当に素敵です」
「そういうところって?」
「どんな時でも、相手をちゃんと見て、心ごと拾い上げるところです」
「ふふ……真莉こそ、いつも私を支えてくれるでしょう?」
「お互いさま、ですわ」
ふたりはふと目を合わせ、静かに微笑み合った。
ートントン。
支度が終わった頃、扉の向こうからそっとノックの音。
少し開いた扉の隙間から、くりくりとした目が覗き、遠慮がちな幼い声が響く。
「お姉さま、入ってもよろしいですか?」
澪奈はふっと眼差しを和らげて、扉の方を見る。
「ええ、いいわよ」
優しく答えると、妹はぱあっと顔を輝かせて駆け込み、澪奈に飛びついた。
「おはようございます、れなお姉さま!」
「おはよう」
妹は澪奈に抱きついたあと、寝台の足元にいた白い犬にも駆け寄った。
「おはよう、しろ! いい子にしてた?」
わしゃわしゃと毛並みに手を入れる妹に、犬は金の瞳を細め、尻尾を振って応えていた。
澪奈はその様子を微笑ましく見守る。
「今日はずいぶん早起きね?」
戯れている2人を見ながら問いかける。
妹は柔らかな水色の髪を揺らし、澪奈を見上げてにこにこ笑っていた。
「お姉さま、聞いてください!
昨日お勉強した光の魔法、できるようになったの!」
元気いっぱいにそう言うと、小さな手のひらに意識を集中させる。
すると、掌に淡い光がぽっと灯った。
桜色の光の粒がふわふわと浮かび、小さな花びらの形となって宙に舞い始める。
やがてその花びらは部屋の中を一巡りし、そっと消えていった。
澪奈はそれを見届けてから、優しく目を細める。
「どう? ちゃんとできてた?」
期待に満ちた瞳が、まっすぐに澪奈を見つめていた。
「ええ、とても綺麗だったわ。
あなたの魔法の花びら、とても可愛らしかった」
妹は頬を染めて跳ねるように喜んだ。
「姉さまに褒められちゃった!」
その無邪気な姿に、澪奈も思わずくすりと笑う。
傍らで真莉も、姉妹の光景を穏やかに見守っていた。
こうして公爵家の朝は、いつも温かな姉妹のやり取りから始まるのだった。