第18話 燃える刃の正義
木の隊の治療施設。
澪奈は、今日も定期検診のため、白い空間を訪れていた。
「体調に問題はありませんか?」
そう優しく問いかける紡生に、澪奈は静かに頷く。
「……はい。特に、変わったことは」
けれど本当は、胸の奥がずっと落ち着かないままだった。前回の"紡ぐ治療"の拒絶。触れられなかった"穴"。
——変化は、確かにそこにあるのに。
「そうですか。では、診察に入りますね。今日は別の――」
その時だった。
「っ——怪我人だ!木の隊に搬送を!」
「すぐに応援を!」
「火の隊は——」
突然、外が騒がしくなった。
診療室の外から、慌ただしい声と足音が押し寄せてくる。
「っ……すみません。」
紡生が澪奈に声をかける。
「すぐ戻りますので、少しだけ待っていただいても?確認と対応指示をしてきます。」
「……はい」
澪奈が頷くと、紡生はすぐに立ち上がり、騒ぎの方へと走っていった。
その背が扉の向こうに消える。
椅子に座り、待っていると思考が沈んでいく。
(前回の治療……)
思い返すだけで、胸がきゅっと苦しくなる。
光が胸に吸い込まれ、次の瞬間、ぷつりと弾かれた感触は、今も残っている気がする。
私は、まだ"思い出したくない"と思っているのだろうか。
——否。違う。
ただ、向き合い方がわからないだけ。
心の準備も、選び方も、何も知らないまま、ただ目を背けている。
そんなことをぼんやり考えていた。
ふと、外からの音が聞こえなくなった。
静寂が戻ったように感じたその時——
パキンッ
空気を裂くような、乾いた"音"が胸に突き刺さる。
それと同時に、確かに聴こえた。
(……たすけて)
幻聴かもしれない。
けれど、澪奈は立ち上がっていた。
自然と、体が動いていた。
扉を開けた先——廊下の向こう。
薄暗い空の下、中庭を囲む通路の先で、何人もの隊員が集まり騒然としている。
澪奈はその場へと小走りに駆け寄った。
* * *
「暴走反応確認!」
周囲の空気が一気に張り詰めた。怒号とともに木の隊員たちが結界道具を構える。
その中心には、心の器を抱えて荒れ狂う男の姿があった。
「心の器、臨界寸前です!」
木の隊員たちが叫び、器具を構えながら退避していく。
男の叫びは言葉にならず、感情の奔流が周囲に幻覚や妄想を撒き散らしている。
その胸の前で脈打つ、赤黒く濁った光——心の器。
器はひび割れ、まるで何かが中から染み出しているように見えた。
脈動と共に、"音"が大きくなる。
澪奈にはそれがまるで、うめき声のように聞こえた。
「……苦しい……の?」
思わず口にした時——
「下がってろ!」
鋭く怒鳴る声と共に、空気が変わった。
「到着、火の隊……!」
周囲の隊員たちがざわめく中、重たい足音と共に現れたのは、赤黒い軍装に身を包んだ火の隊員たちだった。
先頭に立つ、鋭い眼光の男。
焔烈。
そしてその後ろに控えるのは副長の炎嗣。
「確認。器、深刻な損傷あり。赤脈化進行中。……暴走確定だな」
炎嗣が即座に判断し、周囲に結界を張り始める。
焔烈は一瞥しただけで、すぐに"それ"を構えた。
「燃やすぞ」
焔烈の手には、燃えるような刃——心の器を"焼却"するための武具が握られていた。
その時——男が、ふとこちらを見た。
虚ろな目。けれどその奥に、一瞬だけ、何かが宿った気がした。
(……助けて。)
澪奈の頭に、その声が響いた。
「……待って!」
思わず声が出た。
焔烈が怪訝そうにこちらを向く。
「……なんだ、お前」
「その人、まだ……!」
「"まだ"なんてねえよ。あれはもう壊れてる。中途半端に残す方が危険なんだ」
焔烈は手を掲げた。
その掌には、揺らめく炎の刃。
「焼き尽くせ」
——炎が走った。
思わず手を伸ばしかけたその時、横からさっと誰かが澪奈の肩を掴んだ。
「っ、紡生……さん!」
「危ないですよ、澪奈嬢」
紡生が澪奈の腕を引き、庇うように立つ。
「焔烈隊長。……彼女を巻き込まないでください」
「チッ……」
焔烈は炎を消しながら、澪奈を睨みつける。
「……ったく、迂闊に手を出すんじゃねえ。燃やされたいのか、お前も」
「……っ」
澪奈は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
視線の先で、男が崩れ落ちる。
一瞬で音が消えた。
器が赤黒い光を残して燃やし尽くされた。
その人は、動かなくなった。
「まだ……助けられたんじゃ……!」
澪奈の言葉に、炎嗣が静かに首を振る。
「君には"綺麗に見えた"かもしれない。けど、これはもう限界を越えてる。助けるには遅すぎた」
「"遅かった"じゃねぇ、"間に合った"んだよ!」
焔烈が怒鳴るように言う。
「これ以上暴れさせりゃ、周囲にも被害が出る。器を持つやつが壊れりゃ、周囲も引きずられるんだ。だから、燃やす。守るためにな」
その目は、一片の揺らぎもなかった。
「……っ」
澪奈の体が、凍りついたように震えた。
(これが、守る、こと……?)
「……"喰われた"ってのはな、戻せる病じゃねえ。……魂が壊れたら、それはもう"元"じゃねえんだよ」
そして——焔烈の視線が、まっすぐ澪奈へと向けられた。
「おい、そこの"令嬢"」
「お前も……あの器と似てるよな。喰われた痕がある。なら、そっちも——」
「やめろ、焔烈」
その言葉を遮ったのは、木の隊の隊長・慈邑だった。
静かに現れたその男は一歩前に出て、焔烈の前に立ちはだかる。
「彼女は今、正常だ。そして紡生が見ている。燃やす理由にはならない」
「"今は"な」
焔烈は舌打ちし、刃を引く。
「……目ぇ離した隙に暴走したら、今度はお前らごと焼くからな」
吐き捨てるように言って、彼は去っていった。炎嗣もそれに続く。
残された澪奈は、その場に立ち尽くしていた。
紡生が、そっと声をかける。
「……怖かったですよね。でも、あの判断は、きっと間違ってなかった」
「あのひと、は……」
「生きています。五行の力が作用するのは心の器だけですから。先ほどの処置で器が焼かれ、深い昏睡状態なだけです」
そう告げた紡生の言葉を聞き、無意識に詰めていた息をそっと吐き出す。
「ただ、目覚めたとき、同じ状態とは言えないかもしれませんが……。焼くことが再生の一歩になることもまた、事実です。そしてそれが今できる、最も安全なかたちでした」
「……あれが、"正しい"ことだったんですか?」
その言葉には、慈邑が答えた。
「彼らなりの"正義"だよ。私は、違う考えを持っている。でも、否定はしない。あれで救われた人たちもいるからね」
少しだけ間を置き、慈邑が続ける。
「……今はただ、器を焼いて心を鎮めたに過ぎない。戻ってくるかどうかは、誰にも分からない。でも、消えなかった命は——きっと、何かの形で残されてる」
その言葉に、澪奈は何も返せなかった。
ただ。
胸の奥に——"正しさ"の形が、ゆっくりと植えつけられていくのを感じていた。
——暴走したら、焼かれる。
——喰われたら、終わり。
それが、火の隊の"正義"。
そして澪奈は、その"正義"を、静かに飲み込んだ。




